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小松政夫、師匠・植木等からの“クビ宣告”で涙止まらず…愛溢れる、その理由

©テレビ朝日

1964年1月、エリート営業マンから植木等さんの付き人兼運転手として新たな生活を始めた小松政夫さん。

当時は“ハナ肇とクレージーキャッツ”の全盛時代、なかでも大人気の植木等さんはテレビ、映画、舞台に引っ張りだこの状態で、テレビのバラエティー番組のほか主演映画が年に2~5本公開されるほどで、睡眠時間は1週間で10時間ぐらい。

過労から体調を崩して入院生活を送っていたため、事務所は植木さんに付き人兼運転手を付けることになったという。

20代

◆高収入のエリート営業マンから月収7000円の極貧生活に

-小松さんが植木さんの付き人兼運転手になったときはかなりハードスケジュールだったようですね-

「すごかったですよ。2日間完徹(完全徹夜)して翌日に3、4時間寝て、また完徹して翌日3、4時間寝て…というような感じでしたね。今では考えられないでしょう? 1週間で10時間ぐらいしか睡眠時間がなかったと思います。だから植木は車で移動するときは、いつも寝ていましたよ」

-植木さんに付いていた小松さんも睡眠時間は同じですよね-

「そうです。私の場合は運転していますから車のなかでは寝られませんしね。でも、ちっともつらくなかったですよ。大好きな憧れの人のそばにいられるんですから、むしろ楽しくてしかたなかったですね。1日に一回は植木を喜ばせようと色々考えていました」

-植木さんは厳しかったですか?-

「私は怒られたことがないんですよ。もう1人兄弟子がいたんですけれども、その兄弟子はしょっちゅうパチンパチン殴られたりしていたんですよ。私はそれを見てうらやましくてね。

あれだけ親しくなるには時間がかかるのかなあって。私にはそんなことをしてくれない。じゃれ合っていていいなぁと思っていたんですけど、実は本気で怒っていたということをあとで知りました。

植木がからだの具合が悪くて入院しているのに、兄弟子が『ファンだという可愛い看護婦さんがいますから、私が話をつけましょうか』なんてことばかり言っていたみたいで、それで怒られていたんですね(笑)」

-車のセールスマンだったときにはかなりの高給取りだったそうですが、それは貯金されていたのですか-

「貯金なんかないですよ。だからもうスーツやなんかを切り売りするしかないわけですよ。だっていきなり給料が月に7000円。20分の1ぐらいになっちゃいましたからね。お酒は昔から飲みますし、車のセールスマン時代には、毎週熱海や湯河原に行って、芸者をあげてドンチャン騒ぎ。『チップだよー』って言って札束バラまいてましたから(笑)」

-たくさん稼いで、いっぱい使って-

「そういうことです。今でもそうですけどね。『俺は一生懸命やってきたのになんで金がないんだ?』って言ったら、女房に『あんたが全部飲んじゃったからよ』って言われて(笑)。それはわかりますけどね。

私が独立して結構売れた後、植木に『ちょっと家に来い』って呼び出しを食らったときに『お前は何だ、豪勢な家賃払って毎晩飲んだくれているそうじゃないか』って言われたこともありました。植木は質素で謙虚、酒もばくちも夜の遊びも一切やらず、家庭を大事にする人でしたからね」

©テレビ朝日

◆ハナ肇さんの一言から、あの淀川長治さんのモノマネが誕生

小松さんの本名は松崎。植木さんの付き人になった当時、『シャボン玉ホリデー』のレギュラーには俳優の松崎真さんもいたため、「松崎」と呼ばれると2人とも返事をしていたという。

それで小松さんは“小さいほうの松崎”という意味で“小松”と呼ばれるように。そして姓名判断に凝っていた植木さんの祖母にみてもらい、芸名が“小松政夫”に決まったという。

「コメディアンとしてのデビューは、『シャボン玉ホリデー』(1964年)でした。植木に付いて行って休憩時間にサラリーマン時代の経験から『お前のせいで怒られちゃったじゃないか。もう、知らない、知らない、知らなーい』とからだをクネクネしながらやっていたのがプロデューサーの目にとまって、出させてもらうことになったんです」

小松さんは『シャボン玉ホリデー』のレギュラーになったのをはじめ、クレージーキャッツの舞台や植木等さん主演映画にも出演するようになっていく。そして1967年、“ハナ肇とクレージーキャッツ”が梅田コマ劇場での公演に出演することになり、小松さんは、コントからバンド演奏にかわるまでの15分間の休憩を嫌ったハナさんから「5分間何かやってつないでくれ」と言われる。

「チャンス到来ですからね。ずっこけたり、パンツ1枚で踊ってみたりしましたけど、まったくウケない。お客さんがシラーッとしているんですよ。それでハナさんも『仕方がない。幕を下ろして休憩にしようか』と言ったんですけど、『もう一回やらせて下さい』ってお願いしてね。

そのときにテレビで映画解説をする淀川長治さんの顔が浮かんだんですよ。それで次の日に淀川さんのモノマネをやってみたらウケてね。その次の日には小道具さんにメガネを借りて、油性ペンで大きな眉毛を描いて出たら、ドッと笑いがおきたんですよ」

-おはこの淀川長治さんのモノマネの誕生ですね-

「そうです。これはいけると思いましたね。それで『クレージーキャッツの皆さん、元気いっぱいですね。ソーヤングですね。でも、本当は〇〇歳なんですよ』なんてやったら大ウケ。

ハナさんもスタッフもみんな喜んでくれました。それで小道具さんがテレビ画面の枠と、メガネの上にヒモを引っ張るとピクピク動く大きな眉毛を作ってくれてね。登場するだけで大爆笑がおきるようになりました」

©テレビ朝日

◆クビの宣告?涙で前が見えず運転できなくなった、あの日…

-植木さんはことあるごとに小松さんを売り込んでいたそうですね-

「そうです。本当に私のことを考えてくれていて、小松を何とかしてやろうって、ずっとそうしてくれていたわけですよね。本当にすごい人だなあと思うことがたくさんありました。

昔、フジテレビの廊下で鶴田浩二さんとすれ違ったんですけど、そのときに『おはようございます』とあいさつをしたら、私の前で立ち止まって『君は小松政夫君だね』って声をかけてくれたんです。

それが初対面ですからね。ビックリしたんですけど、『この前、植木さんと仕事をしたんだけど、君の話を30分もしていたんだよ』って言うんですよ。オヤジさんが私のことを売り込んでくれたおかげで鶴田さんが覚えてくれていたのでしょうね。ほかにもそういうことを言ってくれる人がたくさんいたんですよね。だから、もう生涯この人について行こうと思いました」

-植木さんの付き人をされていたのはどのくらいの期間だったのですか-

「3年10ヶ月でした。普通、ひとつの仕事をしていたら5年か10年は当たり前でしょう?だから私も最低5年付き人じゃないかなと思っていたんですよ。5年ぐらい経ったら、『君は好きなようにやりなさい。太鼓判を押すから』って言ってくれるのか、『もう少しいなさい』っていうのか、『どこか紹介するから行け』と言うのか…。そういうことなのかなぁと思っていたら、3年10ヶ月でした」

-どういうことだったのですか-

「ある日、いつものように車を運転していたら、植木から『明日から来なくていいよ』って言われたんですよ。『ああ、クビか』って思ったら、『渡辺プロの社長と話して、マネジャーもお給料も全部決めてきたから、明日ハンコを持って事務所に行きなさい。明日から来なくていい』って言われて…。タレントとして私と契約する段取りをとってくれていたんです。

いきなりだから青天の霹靂(へきれき)というか、涙がこみ上げてきて前が見えないんですよ。だから『すみません。ちょっと止めていいですか』って言って車を路肩に止めて、思いっきり泣かせてもらいました。

それで何分ぐらい泣いていたかわからないですが、植木が『別に急がないけど、そろそろ行くかー』って言ったので『すみません』と言って車を出したんですけれども、それでもまだ涙が止まりませんでしたね」

-舞台や映画にも小松さんを積極的に出して下さったそうですね-

「そうです。もう全部。主演の植木が『コイツ、面白いから使ってやって』って言ったら、みんな『はい、かしこまりました』っていう感じで出してくれました。端役(はやく)ですよ。

でも、植木は『走るなよ。最初から飛ばすなよ。一気に走ったらすぐにネタは切れるんだから、少しずつやって、コイツ、やるなあと思われたらしめたもの。どんどん役が大きくなっていくのが理想だよ』とか、そこまで言ってくれたんですよ。

植木が出ている作品5本に出ているんですよ。『日本一のホラ吹き男』(1964年)、『大冒険』(1965年)、『クレージーの怪盗ジバコ』(1967年)、『クレージーのぶちゃむくれ大発見』(1969年)、『クレージーの殴り込み 清水港』(1970年)。

だから『明日から来なくてもいい』って言われても、撮影で同じところに行くんだから行きますよ。いつも一緒だから私も行くわけですよ。そうすると『来なくていいって言っただろう』って言うんだけど、私も一緒に行って。しばらくは離れられなくて共存、一緒に住んでいましたね(笑)」

-どんどん小松さんが売れて忙しくなっていって、それはご自身でも実感したと思いますが-

「1番すごかったのは、列車で移動するときに、私は植木のかばん持ちでついて行っていて、一緒にタラップに乗ろうと思ったら、若い子たちがいっぱい来るんですよ。

それで『オヤジさんのファンだ。大変だなぁ、私が整理しなきゃ』と思っていたら、『サインしてください』って私のところへ来るわけですよ。戸惑っていたら植木に『お前も本物になったな。このヤロー』って言われて、その晴れがましさはなかったですね(笑)」

植木さんの大きな愛に包まれて後年に残る数々のギャグを生み出してきた小松さん。植木さんの付き人兼運転手を卒業した後もテレビや舞台、映画で共演。師弟関係は独立後もずっと続き、何かあると植木さんに相談していたという。

次回後編ではギャグが生まれたきっかけ、ドラマ『やすらぎの郷』、映画『麻雀放浪記2020』の撮影裏話を紹介。(津島令子)

※『ひょうげもん』(3月7日発売)
小松政夫・著(さくら舎・刊)
独自の芸で現在も笑わせ続けているコメディアン小松政夫の一代記。

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