テレ朝POST

次のエンタメを先回りするメディア
未来をここからプロジェクト
menu

岡本信人「かなり大変だったと思う」姑役の赤木春恵さんが、舞台で浴びた罵声

©テレビ朝日

『肝っ玉かあさん』(1968年・TBS系)出演を機に現在の『渡る世間は鬼ばかり』まで50年間、石井ふく子プロデューサーのホームドラマの常連俳優としておなじみの名バイプレーヤー、岡本信人さん。

幼少期の食卓でつくしを食べたことがきっかけで野草に目覚め、食するようになり、著書『道草を喰う-素朴で美味しい野草の話』(1998年)と『岡本信人の野草の楽しみ方』(2000年)を出版。野草を食べるという趣味が話題となり、『ナニコレ珍百景』(テレビ朝日系)をはじめ、多くのバラエティー番組に出演。

さらに昨年は『MATSUぼっち』(フジテレビ系)でかねてから激似とうわさされていたEXILEの松本利夫さんに扮しE-girlsのライブへの潜入も敢行。71歳にしてチャレンジ精神旺盛の岡本さんにインタビュー。

©テレビ朝日

◆建築家になるはずだったのに俳優

岡本さんは13歳のとき、一級建築士の父親の仕事の都合で山口県の萩から上京。環境の変化に戸惑い、なかなか周囲になじむことができず、孤立していた岡本さんを心配した父親が児童劇団に応募したのが芝居との出会いだったという。

「最初は不承不承(ふしょうぶしょう)行っていたんですけど、面白くなってしまって、その後もオヤジがやめろと言っても、もうそっち(芝居の道)に行ってしまったみたいな形になってしまったんです(笑)。

僕の中にも負けず嫌いなところがあってね。14歳ぐらいの時に初めて行ったNHKの少年ドラマのオーディションでは、完膚なきまでにたたきのめされ、全く駄目だったんですよ。

当時は事務所の人がオーディション対応レクチャーをすることもなくてね。行ってみると、同い年の坊主頭の少年がたくさんいて、みんなは劇団が違っても顔なじみみたいで、あちこちで話をしているんです。でも、僕は初めてだから誰も知らなくてひとりでいたんだけど、そこで台本を渡されて僕が最初に読むことなっちゃったんですよ」

-初めてのオーディションでいきなりですか-

「そうです。もうどうしたら良いかわからないから、とりあえず読んだんだけど、棒読みだったんですね。そして次の人の番になったら、セリフを言っているんですよ、感情を込めて。

それを聞いて『あぁ、しまった』と思って、それが悔しくてね。オーディションに行ったら受かりたいという意欲が湧いてきたというか、意地が出てきたというか(笑)。

エキストラの経験は少しあったんですが、それからまた3ヵ月後位に同じ少年ドラマでまたオーディションの話があったので、『今度こそは』って行って、それで合格して『福澤諭吉』というドラマでデビューとなったんです」

-実際にお仕事をしてみていかがでした?-

「僕らの時代はテレビがまだそんなに普及してなかったもんですから映画を見ていたんですよね。日活の石原裕次郎さんの映画を見たら、映画館を裕次郎さんになって出てくるみたいなね(笑)。

そんな時代に日活撮影所に行ったら、石原裕次郎さんがいるんですよ。『あーすごいなぁ。すごいところに来ちゃったなあ』って。そういうものすごい憧れの場所にいたような感じでしたね」

-それなのに劇団を一度辞めたそうですね-

「そうです。いろんなドラマに出ていたんですけど、オヤジに『もう辞めて建築に行きなさい』って言われて、高校3年のときに劇団を辞めたんです。

父親が家で図面を引いている姿を見て『かっこいいなぁ』なんて思っていましたし、それが建物になるということもね。だから、自分もそんなことができたらとは思っていたんですよ。お芝居に未練がないことはないけど、将来仕事としてやるんだったらやっぱり確実な建築家だろうなぁという判断ですね」

-それが変わったのは?-

「しばらくして少年ドラマでお世話になっていた作家の先生から電話が来たんですよ。『今度事務所を作るんだけど君、来ないか』って言われて『お願いします』って即答していました(笑)。だから、辞めたけど未練はあったんですね(笑)」

※岡本信人プロフィール
1948年1月2日生まれ。山口県岩国市出身。中学2年生のときに「劇団ひまわり」に入団。1962年、『福澤諭吉』(NHK)でドラマデビュー。『肝っ玉かあさん』(TBS系)、『マッサン』(NHK)、『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)等、ドラマ、映画、舞台に多数出演。野草を食べることで知られ、『ナニコレ珍百景』(テレビ朝日系)、『ぶらぶらサタデー~有吉くんの正直さんぽ』(フジテレビ系)等、バラエティー番組にも出演している。

©テレビ朝日

◆石井ふく子プロデューサーと運命の出会い

1968年、岡本さんが事務所からTBSのプロデューサーに会いに行くようにと言われて会ったのが石井ふく子プロデューサー。オーディションは3分にも満たない短い時間だったという。

「石井先生と出会ったことが大きかったですね。ひとつの転機なんですけど、何かの番組をご覧になっていて、『ちょっと会ってみたい』ということでお会いして、そこから50年以上で今に至っているということですからね。 考えてみると、自分が本当に何かをやりたいと思ってやる前に道を与えていただいたみたいなところがあるんですよ」

-最初は『肝っ玉かあさん』ですか-

「そうです。いつもイヤホン聞きながら出前に行く出前持ちの役。そこからもうずっと木曜ゴールデンが続いて、TBSに行っていました」

-石井さんのドラマにずっと出ることになると思いました?-

「いえ、全然考えてないですよ。学校の成績も良くなかったので、先生という存在は大変煙たくてね(笑)。だから、どうも先生と言う存在には弱いんだけれども、石井先生に関してもそうですね。

『肝っ玉母さん』の後、東芝日曜劇場に出ることがあって、そのときにドライリハーサルが終わってメイクルームに帰ったんですけど、台本をスタジオに忘れたこと思い出して取りに行ったんですよ。

そのときに石井先生がディレクターに『信人はね、叱るとダメだから叱らないでやって』と言って下さっているのが聞こえてきたんです。『あぁ、もうすっかり読まれちゃっているなぁ』って思って(笑)。頭が上がらない。今でもとても無邪気に話はできないですよ。

だから、パーティーなんかでたまたま先生の前に行くと、つい下を向いちゃったりするんですけど、そうすると『信人は私といるとイヤなのよね』なんて言われたりしてね(笑)。みんなは『先生、先生』なんてフランクに話しているんだけど、何年経っても気軽には話せないですね(笑)」

-石井ふく子さんのドラマでは、いろいろな方と共演されていらっしゃいますね-

「そうですね。『ありがとう』のときは、児玉清さんと石坂浩二さんと兄弟の役だったこともあり、本当にプライベートでもお宅に行ったり、一緒にゴルフしたり…本当に兄弟のようにしていただいてね。感謝しています。

1年とか続いて第4シリーズまでできましたからね。延べ4年間ぐらい一緒にやっているわけですよ。それで他のドラマでも児玉さんと共演したり、ずっとご一緒させていただいて。とても近しくしていただきましたね」

-ある意味、もう家族のような感じでしょうね-

「そうですね。だから僕は今でも石坂さんに会うと『お兄さん』と呼びますしね。『ナニコレ珍百景』に石坂さんがゲストでいらしていて、何年ぶりかでお会いしているのに、『お兄さん』『信人』という感じでね。

収録が終わったときに『信人、これからどうするの?飯食いに行く?』って言ってくださって。石坂さんは『渡る世間は鬼ばかり』ではナレーションをされていますけど、全然お会いすることはないのでね」

-ステキですね-

「ステキなんですよ。今でも続いているということが、とてもうれしいですよね。

石坂の兄貴というのはね、児玉さんとは対照的で、僕が若い20代のときにわからないことがあって聞くじゃないですか。そうすると、『お前、こんなのもわからないのか』って言うんだけど、児玉さんに聞くと『信人ね、僕もよくわからないんだけど。多分こうだと思うよ』という言い方をするんですよ。

石坂さんがストレートに言うと、児玉さんは優しく言ってくれるみたいなね。役割分担みたいなものを僕は感じていました。

石坂さんは面白いんですよ。ゴルフに行くとティーショットを打つところで足を手で引っ張ったりしてね。そういういたずらをするんですよ(笑)。そんな風に兄弟みたいにじゃれ合うこともあったし、貴重な体験でした。大先輩ですからね。すごく幸せな仕事をさせていただきました」

©テレビ朝日

◆優しくて声にパワーがあった赤木春恵さん、舞台で罵声も…

昨年11月29日に心不全で亡くなった赤木春恵さん。94歳だった。岡本さんは赤木さんに言葉に尽くせないくらい感謝しているという。

-『渡る世間は鬼ばかり』では赤木春恵さんと足掛け20年にわたって共演、最後にお会いになったのはいつだったんですか?-

「去年の石井先生のお誕生日パーティーだったと思います。そのときは車椅子でしたが、周りの人ともお話をしてましたし、お元気そうだったんです。年齢もありますから車いすは仕方がないとしても、お元気だなと思っていたので、その分ちょっとショックではありましたね。

赤木さんの太い声がずっと耳に残ってるんですよ。僕は役名が周平なので『周ちゃん』って呼ばれていたんですけど、『周ちゃん大丈夫よ。大丈夫、大丈夫』って。

すごくおしゃれでかわいらしい風貌からは想像もつかない、あの太い声。舞台で一番通る声なんですよ。すばらしい声なんですから。もううらやましいぐらいの声。どんな大劇場でもマイクがいらないんですから、あの方は」

-赤木さんやピン子さんの長ゼリフがあって、途中で入って行ってセリフを言うとき、「トチったらどうしよう」と思ってみんなヒヤヒヤしていたと聞きましたが-

「それ私ですよ。私なんですよ。一家団欒(だんらん)しているところに入って行ってしゃべるときがものすごいプレッシャーなんです。

それとか、みんながしゃべっている間で、それも5分以上あるシーンの真ん中あたりで暖簾(のれん)を開けて『おかみさん』って出て行ったりするとき、出たはいいけど『何だっけ?』って怖いことに陥るときもあるしね。ここで出なきゃいけないということに気を取られていて何を言うのかわからなくなっちゃったりするんですよ(笑)」

-岡本さんもNGを出したことがあるんですか-

「ありますよ。そういうときに赤木さんが『大丈夫よ、周ちゃん。大丈夫。みんなやるのよ』っておっしゃってくださって、ずいぶん救われましたね。

赤木さんは本当に、誰に聞いてもそうなんだけど、あんなに優しい人はいなかったですね。赤木さんはね、嫁をいじめる役を演じながら、『私は、本当は違うのよ』ってよく言っていました。だからみんな『ママみんなわかっているからね』って言っていたんですけどね。それくらい気にされていたんですよ。きつい言葉を言うのをね」

-赤木さんが舞台で罵声を浴びせられたこともあったそうですね-

「そうそう。芸術座の『渡鬼』の舞台の初演のときだったんですけど、その場に僕がいたんですよ。パート1の放送が終わって、嫁姑のバトルがピークに達しているときに舞台化になったわけ。

幕開きは幸楽のお店なので、僕はそこにいて、ピン子さんが出て来て、ワーッて大きな拍手がきて、そのあと赤木さんが『さつき』って出てきてやるわけ。それでピン子さんのときには割れんばかりの拍手がきた後に、赤木さんが出てきたらパラパラの拍手、そして『クソババア』ってきたの。ビックリして赤木さんを見たら、赤木さんも一瞬止まっちゃった、凍っちゃったみたいになって…。

あれはかなりショックだったんじゃないですか。俳優はね、これはお芝居ですよというつもりでやっているんですけど、お客さんはもう赤木さんじゃないんですから。姑のキミさんになっちゃっているんですよ。クソババアになっちゃっているの。

だから、その現実とドラマがゴッチャになっちゃってるんだなっていうのを理解するまで、一瞬時間があったんじゃないですか。そうか私はキミさんなんだってね。あれはかなり大変だったと思う」

-その舞台の後、赤木さんは何かおっしゃっていました?-

「『私、違うのよ、本当は。こんなことしないのに』って。それで『みんな知っていますよ。大丈夫です」って言ったんですけどね。

1回だけじゃないんですよ。次の日とかもその公演中何回か『クソババア』って飛んできたんだから。でもそれを言っている人を見ると、自分も姑みたいな年齢の人なのよ。『あなたもおばあさんじゃないの?』って思うんだけど、結局昔の人って自分が姑につかえてきた人なのよ。自分も嫁だったわけ。で、都合良くもお芝居を見ていて自分が嫁になっちゃっているんだよね」

-本当はもう立場が変わって、自分もお姑さんになっているのに-

「かつていじめられた姑の記憶がまた起き上がってきたみたいになって、ムカッとなって『クソババア』って言っちゃうんでしょうね(笑)。現役のお嫁さんから昔のお嫁さんまでみんな自分がお嫁さんの気持ちになっちゃっている。だからあれは面白いドラマなんですよね(笑)。

赤木さんは本当に優しくてね。僕は緑山のスタジオで収録が終わった後、天気が良い日とかには野草をちょっと見てみようと思って駅まで歩いたりするんだけど、そんなときにスーッと車が止まってね。赤木さんなんですよ(笑)。『周ちゃん、バス行っちゃったの?乗りなさい』って。そんなことが何回もありました。

『僕、散歩していたんですけど』って言えなかったですよ。優しいからうれしくて。そういう優しさもいい思い出ですね」

張りのある声、スリムな体形が若々しく、とても70歳を過ぎているようには見えない。誤嚥防止のためにも喉を鍛えているそう。若いときからからだを動かすことは好きでジムにも通っていて、『肝っ玉かあさん』の頃からウエストは1.2cmしか増えていないというからすごい。

次回後編では、野草を食べる秘けつ、E-girlsのライブ潜入、お孫さんたちとのおじいちゃんライフも紹介。(津島令子)

はてブ
LINE
おすすめ記事RECOMMEND