木下ほうか、そり込み&パンチパーマでオーディション合格!セリフ得るため練った“作戦”
16歳のときに映画『ガキ帝国』(81年・井筒和幸監督)に出演したことをきっかけに、俳優になることを考え始めた木下ほうかさん。大阪芸術大学卒業後、「吉本新喜劇」に3年間所属し、25歳のときに上京。アルバイトをしながら俳優活動を始めたものの、長い間売れない時代が続いたという。2014年、転機が訪れる。
ドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』(フジテレビ系)で演じた妻をイビるモラハラ(モラルハラスメント)夫ぶりが注目を集め、バラエティー番組『痛快TV スカッとジャパン』(フジテレビ系)内のミニドラマに出演することに。
上司にはこびへつらい、部下には尊大に振る舞うイヤミキャラで大ブレーク。劇中の決めセリフ「はい、論破!」は流行語大賞(2015年)にもノミネートされた。その後も、『日曜劇場 下町ロケット』『チア☆ダン』(TBS系)など人気ドラマで個性派俳優ぶりを発揮している。
11月26日には自身の体験を記した著書『僕が骨髄提供をした理由(わけ)。言うほどたいしたことなかったで~!』(辰巳出版)を発刊。幅広い分野で活躍している木下さんにインタビュー。
◆“そり込み”が入ったパンチパーマで映画のオーディションに合格
幼稚園の頃は、先生のおっぱいを触ったり、女の子のスカートをめくったりと、かなりやんちゃな子だった木下さん。写真マニアの父親の影響で高校時代には遊びで自主映画を撮るようになっていたという。
髪型はそり込みが入ったパンチパーマ。バイクを乗り回し、当時流行だったバリバリの不良スタイル。そんなある日、映画『ガキ帝国』のオーディションの記事を見つけた姉にすすめられ、応募することに。
-映画のためにそり込みが入ったパンチパーマにしたのだと思っていました-
「逆です。でも、僕らの時代は周辺がみんなあんな感じでしたからね。見た目ほど不良だったわけじゃなく、酒やタバコもやらなかったし、中途半端な不良少年でしたよ。でも、その外見だけで面接をする前に出演が決まりましたからね。
もともと素人で作ろうとしていたので、そうすると不良っぽい見かけがあればそれでいいということだったと思うんですけど」
-結構大人っぽかったですよね-
「一見ね。要は髪形を変えたり服装を変えるだけで、大人っぽく見えるんですよ。でも、よく見るとあどけない顔してますからね(笑)」
-出演が決まって初めて台本をもらったときはいかがでした?-
「感動しました。大勢いる不良役のひとりだったんですけど、2行のセリフがある役を見つけて、聞いてみたら『誰がそのセリフを言うのかは撮影当日までわからない』って言うんです。
それで、台本がボロボロになるまで読み込んで勉強をしていると思ってもらおうとして、台本をコンクリートにこすり付けてボロボロにしてアピールしたりしてましたね(笑)」
-策を弄してセリフをゲットですか-
「そうですね。だけど今となってはそれが功を奏したのかどうかは言えないし、ずいぶん後で井筒さんに聞いてみたんですけど、『全く覚えてない』って言ってました。30年以上前の話ですからね(笑)」
初めての映画の撮影現場に魅了された木下さんは、出番がない日も撮影現場に通い、夢中で見ていたという。それまで夢や将来やりたいことが全く見つからず、不安を感じていた木下さんは、俳優になりたいと考え始める。そして高校3年生のとき、俳優になることを決意する出来事が。
「文化祭のクラスの演目で、当時はやっていた松田聖子さんの主演映画『野菊の墓』を舞台でやろうということになって、僕が脚本、演出、主演をやることになったんですよ。
本番の日、最初は民子を男が演じるというので笑い声もしたんですが、後半は泣いている人もいたし、終わったときにはものすごい拍手で良い反応してくれたので、俳優になろうという思いは決定的になりました」
※木下ほうかプロフィル
1964年1月24日生まれ。大阪府出身。1981年、『ガキ帝国』で映画デビュー。大阪芸術大学卒業後、吉本興業大阪本社に入社し、吉本新喜劇に入団。
3年で退団し、1989年、島田紳助さんからの助言で上京。井筒監督の紹介でドラマやオリジナルビデオに出演。ドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』で注目を集め、人気個性派俳優として、ドラマ、映画、バラエティー番組等に多数出演。
◆アイドルの親衛隊に!伝説の“真子隊”で活動
多感な年頃の高校時代、俳優を目指す一方、アイドルに興味を持ち始めた木下さん。最初に好きになったアイドルは浅田美代子さんだったという。その後、石野真子さんが一番好きなアイドルとなり、ついに「親衛隊」にまでなった。
「我々のときは歌謡曲とかいわゆるアイドルが全盛期で、歌番組が山のようにあったし、あふれていたわけですから。誰しもが誰かを好きなわけですよ」
-好きにはなりますけど、親衛隊にはなかなかならないですよね-
「親衛隊は特別ですけど(笑)。二段ベッドの壁に切り抜きを貼ったりしてましたね」
-最初が浅田美代子さんで、石野真子さんになるんですか-
「そうですね。キャンディーズやら松田聖子さん、ピンクレディー…ベタなところをいってましたね」
-親衛隊としての活動は石野真子さんが初めてだったのですか?-
「そうですね。ファンですけど死ぬほどファンというよりは、そういう活動が好きだったのかも知れませんね。親衛隊には入ったんですけどファンクラブには入ってないんですよ。
なんかそういう集団でいることが楽しかったんじゃないですかね。毎週日曜日に集まって掛け声やなんかの稽古をしたりしてね」
-“真子隊”でしたっけ?-
「真子隊。アイドルの親衛隊というと真子隊がすぐ出てくるんですけど、今の芸能プロダクションにも当時真子隊にいた人が結構いるみたいですよ(笑)。
親衛隊とファンクラブの会員というのは全然違うんです。親衛隊というのはプロダクションに最も信頼されているわけですよ、守ってあげているわけだから。テレビの生放送で松田聖子さんとかのすぐ横にいるということは、それだけ信用されているっていうことなんですよ」
-SPみたいですね-
「そうです。だからそういう人がプロダクションに吸収されるのは納得いくじゃないですか。今の芸能プロダクションのちょっと偉いクラスにいるはずですよ(笑)。
だから僕らはタレントの方を向いているのではなくてタレントに背を向けているんですよ。
近寄ってくる人から守るために。ああいうのが結構面白かったですよ」
-確かバラエティー番組で当時の木下さんの映像が出ていましたね-
「使っていました。めっちゃ恥ずかしいです。それで石野真子さんのファンだって言っていたのに松田聖子さんの横に立っている映像が見つかって責められたりして…(笑)」
-本当にいろいろなことをされていてバイクもお好きだったそうですし、すごく内容の濃い高校時代だったんですね-
「やっぱり僕らの年代、60年代生まれで、その間に70年代があって、80年代があって、これはすごい時代ですからね。そしてバブル、90年代という時代に生きられたというのは、また特別だと思うんですよ。豊かで、かつカルチャー、文化いろんなものが影響あった時代でしたね」
◆学生演劇ブームの大学時代、吉本新喜劇を経て上京
高校卒業後、大阪芸術大学に入学。当時大学では学生演劇ブームで、渡辺いっけいさん、筧利夫さん、古田新太さんらが在籍する「劇団☆新感線」が人気を博していたという。
木下さんも同級生と5人で劇団を立ち上げ活動するかたわら、勧誘されて始めた空手にも熱中。大会で入賞するまでになり、主将もつとめた。大学卒業後、木下さんは「合格したら、即デビュー!」というキャッチコピーに心動かされ、吉本興業のオーディションを受けて合格。吉本新喜劇に配属される。
「東京の大手のプロダクションにもプロフィルを送っていたので、『二次審査に来て下さい』って連絡がきたりしていたんですけど、どうせ落ちると思って行かなかったんですよ。吉本は大阪だし、たまたま募集していたから興味本位で受けたんです」
-合格して入ったものの大変だったようですね-
「掃除や荷物持ちなどの雑用は新人の仕事ですから色々やらされました。新人つぶしもあって、舞台で新人が笑いを取ると『余計なことをするな』って先輩に怒られるしね。それは何十人もいる先輩のなかで一部の人ですけどね。今はもうそういうのはないですよ。我々の時代はそういう最後の時代だったんですよ。生きづらかったですね」
-先輩からの圧はかなりきつかったようですね-
「言葉で言われるだけですけどね。暴力をふるわれるということではなくてね。新喜劇の人たちも、同じ人に僕と同じように言われていたそうですよ。
耐えられなくて辞めていった人もいましたけど、(池乃)めだか兄さんや(間)寛平兄さんのように優しい先輩もいましたからね。笑ってくれるお客さんが一番で、どんなことがあっても、やっていくことで自分の実力を証明していくんだということを学びました」
◇
吉本新喜劇での経験はその後の演技にも大いに役立つ貴重なものだったという。関西のバラエティー番組にも出演。タレントとして人気も出始めていた木下さんだったが、映画俳優になるという夢を実現するため、25歳のときに上京を決意する。
次回は上京してからの日々、ブレークするきっかけ、公開中の映画『かぞくいろ-RAILWAYS わたしたちの出発-』撮影裏話等を紹介。(津島令子)
※『僕が骨髄提供をした理由(わけ)。言うほどたいしたことなかったで~!』(辰巳出版)
著者:木下ほうか
※映画『かぞくいろ-RAILWAYS わたしたちの出発-』公開中
有村架純 國村 隼 桜庭ななみ 歸山竜成/木下ほうか 筒井真理子/板尾創路 青木崇高