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山口百恵ヒット曲の歌詞「馬鹿にしないでよ!」は、作詞家・ 阿木燿子の本音だった

いま一番聞きたいあの人の言葉を心の奥底から引き出すインタビュー番組『ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~』(BS朝日)。

11月17日(土)に放送される同番組には、作詞家の阿木燿子が登場する。

©BS朝日

1945年5月1日、終戦の年に生まれ、神奈川県横浜市で育った阿木。町工場を経営する両親と兄・妹がいる一般的な家庭だった。

◆夫・宇崎竜童との出会い

明治大学入学直後、阿木を作詞家へと導く運命的な出会いが訪れる。「軽音楽部に入らないか」と、後に夫になる宇崎竜童から声をかけられたのだ

宇崎は、自身が作る曲のために「詞を書いてくれ」と誰彼構わずに頼んでおり、阿木にもその依頼がきた。阿木が書いた詞に、まるで即興のように曲をつける宇崎。

しかし、顔を合わせるたびに「書けた?」と聞かれるようになり、阿木は作詞に辟易するようになってしまったという。

大学を卒業して3年後の1971年、阿木は26歳で宇崎と結婚。しかし、結婚2年目にして突如、宇崎が「歌手デビューをする」と言い出した。

「歌手はイケメンか歌が上手い人がなるものなのに…」という阿木の反対をよそに、宇崎は1973年、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」としてデビューした。

「アルバムを出すのに、曲が足りないから書いてくれ!」と久々に宇崎から頼まれて書いた曲が『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(1975)。作詞家・阿木燿子のデビュー作にして大ヒットとなった。

◆山口百恵からの依頼で…

そんな阿木と宇崎を一躍世に知らしめたのが、山口百恵の『横須賀ストーリー』(1976)だ。実は、山口百恵が自らの意思で阿木と宇崎のコンビを作詞作曲に指名し、依頼したのがきっかけでこの曲は生まれた。

以降、山口百恵が引退するまでのおよそ5年間に、阿木と宇崎のコンビは78曲もの楽曲を提供した。

そして、打倒ピンクレディを旗印に、レコーディングぎりぎりまで何度も歌詞の直しを要求され、苦心の末に出来上がった曲が『プレイバックPart2』(1978)。追い詰められた阿木の本音「馬鹿にしないでよ!」が、歌詞にそのまま反映されたという

1000曲以上の詞を作り、数多くのヒット曲を生み出した作詞家・阿木燿子。名曲はいかにして生まれたのか? 時代を切り取る詞が生み出されてきた過程にも迫る。

 

※番組情報:『ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
2018年11月17日(土)午後6:00~午後6:55、BS朝日