教員志望だった俳優・小西博之、萩本欽一に号泣謝罪。「大将は全部わかってたんだ」
萩本欽一さん率いる「欽ちゃんファミリー」の“コニタン”として人気を博し、『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS系)、ドラマ『私鉄沿線97分署』(テレビ朝日系)、『名奉行 遠山の金さん』(テレビ朝日系)など、数多くのバラエティー番組やドラマ、映画、CMなどでおなじみの小西博之さん。
芸能界屈指のスポーツマンとしても知られているが、2004年に腎臓がんが発覚。一時は「余命ゼロ」という絶望的な宣告を受けたというが、奇跡の復活を果たし、現在は俳優活動だけでなく、講演活動で全国を飛び回る毎日。親分肌で後輩からも慕われている小西さんだが、自身も多くの大御所に愛されていた。
◆中学校で魂震わされる出会いが…
ずっと教員志望だったという小西さん。得意科目は社会と美術と音楽と体育。中学・高校時代は野球部に所属。中京大学へと進み、教育実習も経験する。教師を目指したきっかけは…。
「中学の担任の先生に魂を震わされて、こんなに素晴らしい職業はないと思いました。生徒が悪いことをすると、まだ殴ってばかりの先生が多かったなかで、その担任の先生は、クラスで1番の問題児と1番頑張っている生徒を前に呼んだんです。
学級委員の僕と小学校4年生のときから外でもタバコを吸っていた生徒。彼はずっと殴られたり、怒られ慣れている問題児でしたけど、先生は彼をギュッと抱きしめて『吸わないほうがカッコいいぞ』って。それまで彼は殴られたことしかないから先生に抱きしめられて泣いて、タバコを吸うのをやめたんです。
そして僕は野球部の朝練習があったから、朝1番最初に学校に来て、ぞうきんで机を拭いていたんですけど、誰も知らないと思っていたそのことを先生がほめてくれて、抱きしめて泣いてくれるんですよ。もう胸がいっぱいになりますやん。それで先生になりたいと思ったんです」
―まるでドラマみたいですね―
「そうです。だから、それ以来学園ドラマを見ても感動しない。僕の担任の方がよっぽどすごかったって思って(笑)」
―野球はずっと続けてらしたんですか―
「大学でも野球部に入ったんですけど、僕らの頃はあまりにも愛のムチが多かったんで、みんな辞めて、他の運動部に移ったんですけど、僕は演劇部に入ったんです」
―いきなり演劇部ですか―
「生徒の前で教えるには表現力が必要だと思ったんです。中学、高校では野球部キャプテン、生徒会議長もやってましたし、『もう学校は俺のもんじゃあ』みたいな人なので、これは大学の演劇部に入ってパフォーマンスを学んで、子供たちの気持ちをつかもうという思いだったんですよね」
演劇部がきっかけで名古屋の芸能事務所に所属した小西さんは、18歳のときに初めてテレビに出演。会社員Aでセリフは「きょう、社長おかしいな」という一言だったという。
その後、『中学生日記』(NHK)などに出演し、名古屋で売れっ子になる。教師になりたいという意志は変わらなかったが、放送作家の大岩賞介さんに声をかけられ、萩本欽一さんと会うことになった小西さんは、欽ちゃんファミリーのメンバーとしてデビューすることに。
※小西博之プロフィール
1959年9月28日生まれ。和歌山県出身。中京大学在学中にデビュー。高校商業科・教員免許を取得。バラエティー番組『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS系)のレギュラーとして抜擢(ばってき)され、欽ちゃんファミリーの一員として、強面とは裏腹に、温厚なキャラクターで人気を得る。同番組内でレギュラーの清水由貴子と『銀座の雨の物語』をデュエットしヒットする。『ザ・ベストテン』(TBS系)の2代目司会者としても活躍。
◆欽ちゃんファミリーのメンバーに抜擢
「欽ちゃんファミリーとして一生懸命やってたんですけど、高校の教員になるという夢はどうしても諦められなくて、問題集を持ってきてずっと勉強してました。欽ちゃんファミリーは1年間、大将(欽ちゃん)の仕事以外はしてはいかんという規則があったんです。だから時間がいっぱいあるので勉強しました」
30歳までに教員採用試験を受けようと思っていた小西さんだったが、『24時間テレビ』(日本テレビ系)で名古屋に行ったとき、「人間はなぁ、ご縁だよ」と言って、5円玉がいっぱい入ったガラス瓶を持って来た松葉杖の女子高生と出会ったことをきっかけに、芸能界で生きていくことを決意する。
「その女の子が『コニタン、来年も来てくれる?』と言ったので、『いいよ。じゃあな』って別れたら、後ろでお母さんが泣いてるんですよ。よほど喜んでくれたんやと思っていたら『あの子の人生の最後の夢をかなえてくれてありがとうございます。お医者さんに、人生最後の外泊になるので好きなことをさせてあげてくださいと言われたので来ました』って言って…。
『お医者さんに今月いっぱいだと言われたんですけど、コニタンのおかげであの子の笑顔を久しぶりに見ました』って笑顔で去って行くんです。もう握手なんかできないですよ。こみあげてきちゃって…。
そのときに大将が『ええ仕事やろ?』って言ったんですよ。それで『僕は何もできません』って言ったら、『お前、あの子の最後の夢をお前がかなえてやったんだろう?誰もできんぞ。どうや、芸能人いいだろう?』って。『はい』って言ったら、『これで100%でできるか?』って言われたんです」
―萩本さんは全部わかっていたんですね―
「そうです。大将は全部わかってたんだって思って、そこで号泣して謝ったんですけど、『いやいやわかってたよ。教員だろ?これでどうや?』って聞かれたんで、『もう一生懸命やります』ってなりました。それから36年間、色々ありましたけど、一生懸命やってきました」
◆念願の刑事ドラマで渡哲也さんと共演。石原裕次郎さんに紹介されて…
芸能界で生きていく決意を固めた小西さんは、萩本さんの番組のほかにドラマにも進出。『金曜日の妻たちへII男たちよ、元気かい?』(TBS系)に出演、そして念願だった刑事ドラマ『私鉄沿線97分署』(テレビ朝日系)にレギュラー出演することに。
「本当にうれしかったですね。ずっとやりたかった刑事ドラマで、渡哲也さんと共演ですよ。実は、僕はエキストラをやっていた時に『西部警察』(テレビ朝日系)で、渡さんと石原プロのスタッフのみなさんに会ってるんです。
それで『渡さん、実は僕、皆さんにお会いするのは2回目なんですよ。西部警察のときに長島温泉でロケがありましたよね』って言ったら『おお、あの煙突壊したところ』って言ったので、『僕はあのとき、その他大勢のヤクザの一員の中におったんです』って言ったら、『ウワーッ、あのときおったんか』って(笑)」
―現場はいかがでした?―
「渡さんは9時開始というと、もう7時半ぐらいから待ってるんですよ。だから僕も早く入っていたんです。若手やしね。ほな気に入ってもろうて、3ヶ月ぐらいしてからかな? 渡さんが『おい、小西、社長に会ったことあるか?きょういらっしゃってるから紹介しよう』って言ってくれて『ワーッ、石原裕次郎さんに会えるんや』って思って。
渡さんがあれだけガチガチな人やから、石原さんはもっとすごいんだろうなと思って、食堂の前でずっと緊張して待っていたら、『欽ちゃんのところのコニタンだね。よろしくね』って、肩をポンとたたいて行くんですよ。『なんじゃ、この人は?』って(笑)。
見かけとのあの違い。『ああ、これでみんな魂を持って行かれるんだろうな』と思って、フッと渡さんを見たら、ニコッと笑って、『気に入っていただいたな、良かった』って言われたので、もう軍隊みたいで『ありがとうございます』って言ってました(笑)」
―石原プロの皆さんの結束力はすごかったですよね。かなり規律が厳しかったのでは?―
「時間厳守で、ロケでもホテルで9時出発って言ったら9時に出発しました。それでゲストの人がちょっとでも遅れてきたら、もう出発してみんないない。制作の人が待っていて『9時出発ですからタクシーで行ってください』って。ゲストの女優さんがビックリしていましたね。
食事も6時開始って言ったらもう5分前から座ってなくちゃいけない。さすが石原プロ。それに地方ロケに行くと、『遊びに行って来い』って言って、必ずおこづかいを毎晩くれてるんです。僕は遊びに行かないから、それはずっとためてました(笑)」
◇
当時は番組対抗のボウリング大会も行われ、その模様はテレビ放送された。1年間ボウリング場でアルバイトをした経験を持つ小西さんは、プロ顔負けの腕前を披露。『私鉄沿線97分署』チームは優勝は逃したが、小西さんが最優秀MVPを受賞した。
「お昼休憩のとき、レストランで『特捜最前線』のグループが隣にいたんですよ。それで藤岡弘、さんが僕の前を通り過ぎて、Uターンしてまた帰ってきて『小西君だよね?間違ってたらごめんね。初対面じゃないような気がする』って言ったので、もう鳥肌が立って。
実はエキストラのときにNHKの銀河テレビ小説で難癖つける地元の漁師の若造たちのリーダーをやったんですよ。壁に頭から突っ込んだりしてたんですけど、実際に会ったのは、2,3時間ですよ。それなのに、『ちょっと待てよ。名古屋のNHKだな。銀河のときの島の若い者頭だ』って言われて、俺は号泣しましたよ。
『良かったなあ、売れて』って言ってくれて。会ったのは3時間ぐらいなのに、覚えてくれていたなんて…あの人には本当に驚きました」
―すごいですね―
「僕だったら、無名の絡みの人なんて覚えられへんやろなぁと思うんですよね。まるでドラマみたいでしたよ。3歩通り過ぎて戻ってきて『初めてじゃないよな』って言われたときにはもう泣いてましたけどね。
そのあとで渡さんが『何があった?』って聞いたので、事情を話したら、『あいつはそういうやつだ』って。いやいやありがとうございますって感じでした。テレ朝にはそういう思い出があるんですよ」
◆『遠山の金さん』で4年半、松方弘樹さんと
―『遠山の金さん』(テレビ朝日系)もありましたね―
「初京都東映レギュラーです。その前に初めて京都の東映に行ったのが、お正月の時代劇の『徳川家康』(TBS系)で松方弘樹さん主演。 それで気にいってもらえて、半年後に『遠山の金さん』でおいでって言われて。
だから僕は、萩本(欽一)さん、黒柳(徹子)さん、渡(哲也)さん、松方(弘樹)さん…大御所の方にとても可愛がっていただいて、よくしてもらいました。
松方さんには京都で4年半。いわゆる昔からの東映の俳優さんがどういうお仕事をされて、夜どういう遊びをするのかということを4年半、じっくりと見させていただきました(笑)。
京都であの頃、時代劇が4作品撮影が行われていたんですけれども、悪役の人は大体京都に来ると、一ヵ月間ずっと全部の作品に出演して帰るんですね。それで大体最後にみんな金さんに来るんですけど、みんなが『コニタン、ここは楽だなぁ』って言うんですよ。
だから『楽でしょう?だって主役が楽だもん』って(笑)。週に一回飲み会があるし、二週間に一回打ち上げがあるし、飲み放題、食べ放題だしね」
―差し入れもすごかったですよね―
「週にいっぺんは祇園にも行ってるから祇園からもすごいお弁当やお重とかの差し入れもあるし、すごかったですね。毎週一回祇園に連れて行ってくれるんですけど、付いて行っても遊べないですよ、僕ら。店に入ってヘネシーを出してくれるんですけど、すすめられたら飲まなあかんじゃないですか。『酒飲めないのに、どうしよう』って(笑)」
―飲めないんですか―
「ほとんど飲めないですよ。だからもうお店に行ってお姉ちゃんをどうこうしようなんて全くないですよ。一生懸命飲むんですけど、時々お店の人にこっそりウーロン茶に変えてもらったりすると、松方さんがしばらくして『おい小西、もうそろそろウーロン茶はいいだろう』って(笑)。バレてる。あの方は皆さんが飲んでいるか、ちゃんと楽しんでいるか、気を配っている方なんですよね。
それで何故か僕は帰りに必ず送ってもらうんですよ。それで、『じゃぁ、また明日な』って言って帰って行くんですけど、車が見えなくなるまでずっと頭下げていて、見えなくなってからよく植え込みに吐いてました(笑)
それでドアマンの人に『ごめーん』って言うと、嫌な顔もせずに『大丈夫ですよ』って言ってくれてましたけど、迷惑な話ですよね(笑)。でも、僕は本当に大御所の方によく面倒を見ていただいて、こういうところは主役がせなあかんのやというようなことを学ばせてもらいました」
◇
自分が色々と可愛がってもらった分、自分も後輩の面倒を見てあげようと思ったという。次回後編では「余命ゼロ」のがんからいかにして生還したのか、「欽ちゃんファミリー」のメンバーだった故・清水由貴子さんへの思いを紹介。
※『生きてるだけで150点!』(毎日新聞出版)小西博之著