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「死んだことにするべき」との意見も…藤岡弘、が振り返る撮影中の大事故

©テレビ朝日

念願のアクションものである初代仮面ライダー、本郷猛役に抜擢(ばってき)された藤岡弘、さん。今では変身後はスタントマンが演じるのが普通だが、当時は藤岡さんが仮面ライダーのコスチュームも着用し、変身後のスーツアクターも兼務していた。

マスクを付けてのアクションは視界も狭く想像以上に過酷だったが、それは特別なことではなく、当然だと思っていたという。しかし、バイクシーンの撮影中に大事故が…。

(C)SANKIワールドワイド

◆ベトナム戦争で開発された手術方法に望みをかけて

―大腿骨粉砕骨折だったそうですね―

「はい、粉砕です。バラバラでした。その当時は、大腿骨粉砕骨折の手術技術では、私のそのときの事故の状況ですと、手術しても障害が残ってしまうということだったんです。

最初に運ばれた病院は昔のままの固定した治療法しかしないところで、その病院に私と同じように骨折した若い方がいて、その彼は骨折してから1年経っていましたけど、まだ松葉杖の状態だったんです。

それを聞いて『この病院にいたらダメだ、ずっと松葉杖の生活が続いてしまう』と思っていたときに、母が出会った人が知り合いの病院を紹介してくれて、その病院から迎えが来てくれたんですけど、最初に入院した病院が出してくれなくて大変でした。『この病院を出たら保証しません。責任を持ちません』と言ってね。治療記録もレントゲン写真も渡してくれなかったし…。

それでも母が『私の子供ですからいいです。このまま出ます』と言って、迎えの看護師の方と一緒に、付けていたチューブや何かを全部外して車に乗せて運んでくれたんですよ」

―大変だったんですね―

「それで移った病院で、これは危険な状況だから、今決まっている手術は延期させて先にやろうということになって。ただし、これは今までの手術では無理だと。『ベトナム戦争で開発された新しい手術方法があるから、これを試してみよう。これしか方法はない。やらないよりはやってどうなるかやってみましょう』ということになって、着いたその日に栄養剤などを打って、翌日に手術」

―それほど緊急を要する状態だったんですか―

「そうです。もうこのままいったら本当に駄目だったと言われました。足が3倍ぐらいに腫れ上がっているわけですからね。大腿骨がバラバラになって、その折れた骨の破片が筋肉に突き刺さっていて、レントゲンを撮ったら大変な状態になっていたんです。

手術には丸一日かかりました。それぐらい大手術だったんです。割れた骨の破片が筋肉に食い込んでいたので、筋肉を切ってピンセットで一つ一つ外していって…。そして大腿骨の骨髄の中に金属パイプを通して骨にジョイントして、それに骨の破片を全部くっつけていて針金で巻いたんですよ。筋肉を全部切ってね。それぐらい大手術だったんですけど、それでも完全に回復するかどうかはわからないって言われて…。それまで日本ではほとんど実例がない手術でしたから、成功したということで大変喜ばれました」

©テレビ朝日

◆想像を絶するリハビリ…母の献身的な看病に涙

入院中に『仮面ライダー』の放映がスタートし、藤岡さんは病室で見ることに。そして、ギプスがはずれると想像を絶する苦痛をともなうリハビリを始める。

―リハビリがかなり大変だったそうですね―

「筋肉を切ってますからね。その筋肉を回復させるためには強化しなければいけなくて。当時、有名な心ある整骨院の先生が、そのままにしていたら退化してしまうから、無理をしてでもそこに力を加えなければいけないと言って、私にとてつもない無理をさせたんですよ。

もう毎日高熱を出してましたが、鍛えたことで炎症を起こして熱が出ちゃったり。それでもいいから刺激を与えなさいと言うことで、無理して刺激を与え続けてね。残された筋肉を巨大化するためには圧を加えて膨らませ、切ってしまった筋肉を補って回復させていくしかないということで」

―すごいですね、人間の体というのは―

「頭では理解できるんだけど、実際にやってみるとね。痛いし、痛みで夜も寝られない。水たまりになるぐらい汗をビッショリかいて、それでもやらないといけない。もう二度とあの経験はしたくないなあ。本当に大変でした」

―不安もあったでしょうね―

「ありました。これだけやってもダメかもしれないと言う不安は常にありました。『こんなに痛くて苦しい思いをしてリハビリをやっても戻るのかな?』という不安が常に付きまとっていましたね」

―それを続けられた精神力と言うのはすごいですね―

「自分が失敗したことの責任と多くのスタッフの顔が浮かんできてね。それでやっぱり母がものすごく励ましてくれたんです。母が毎日病院に来てくれて、病院の食事はダメだと言って、作って運んでくれて、私の好きなものを食べさせてくれましたし、ずっと背中に手を入れてさすってくれるんですよ。寝ていると背中が癒着しちゃってかゆくなって大変なんですよね。それで母が背中に手を入れてさすってくれてすごく助かりました。

痒みもなくなるしね。気がつくと朝になっていて、母が背中に手を突っ込んだまま寝てるんですよ。その母の看病してくれている姿を見ていると涙が出てきて、母のためにも頑張らなきゃいけないなって…。

そういうみんなのことを思い浮かべると、ここで負けちゃいけないなと思いました。武道をやってきたおかげで忍耐強くなっていて、持久力や忍耐力にはちょっと自信があったので、それも良かったかなと。だから諦めないでずっと続けていたらだんだんと結果が出てきたというか、不思議なものですね」

―どのぐらいの期間だったんですか―

「半年ぐらいですかね。毎日やりました。怒られるから、毎晩、看護師さんが寝静まった後、汗びっしょりかいてやっていたんですけど、疲れ果てて昼間は昏睡(こんすい)状態のような感じで寝ちゃってましたね。看護師さんたちは私のことを寝てばかりいる人だと思っていたでしょうね(笑)。でも、その先生のおかげもあり、回復できたと思っています」

―それで復帰されるわけですからすごいですね―

「そうですね。よく復帰できたなって自分でも思います。今でも思いますね。若いってすごいなあって。それと『思い』ですね。人間というのは、やっぱり心の持ち方と言うのかな。心構えで決まるんですね。心身ともに痛みに耐えなければならないという状況で精神的な成長を遂げることができたのではないかと思います」

―まさにヒーローそのものですね。見事に本郷猛として復帰されました―

「僕を残すべきか、それとも死んだことにするべきかということで賛否両論あったみたいです。もう復帰は無理なのではないかって。でも、一人のプロデューサーの方が、『あそこまで本人がスタントも使わずに頑張ってきたのに、死んだことにしてしまったら、他のスタッフに対して影響を与えてしまう。だからそれだけはやめよう』って、一生懸命反対して私を守ってくれて。それで他のプロデューサーもその人に同意してくれたそうなんです。それを聞いて、頑張らなきゃいけないと自分の中で良きエネルギーとなりました」

大きなアクシデントを乗り越えて、からだにはまだ金属パイプと固定用のボルトが入った状態で『仮面ライダー』の第40話と第41話にゲスト出演という形で復帰する。その状態での撮影は、「下手をすると一生歩けなくなるかもしれない」と主治医に猛反対されたが、藤岡さんは「それでも構わない。復帰の機会を用意してくれたスタッフに報いたい」とロケを強行。自分に対するスタッフの思いに全力で応えるという誠実な思いが感じられる。

その後、金属パイプの除去手術も無事に終わり、第53話から完全復帰して大ブレーク。映画『日本沈没』(1973年)に主演。1974年にはNHK大河ドラマ『勝海舟』では坂本龍馬役など、数多くの映画、ドラマに出演。そして1984年、ハリウッド映画『SFソードキル』に主演することに。

映画『SFソードキル』
(C)SANKIワールドワイド

◆ハリウッド映画に主演、そして芸名に「、」を…

―今でこそハリウッドで活躍する日本人の俳優の方も多くなりましたが、藤岡さんはその先駆けですね―

「そうですね。不思議なことに自分もチャレンジでしたことが結構現実になって。何のコネクションもなく、まさかアメリカ映画の主演をすることになるとは思ってもいませんでした。どこかの代理店の後押しとか、何かがあって、そういう流れで行くのならわかるんですけど、そうではなく単独で主演が取れたと言うのはね」

―プロデューサーの方が藤岡さんをテレビで見てオファーされたそうですね―

「そうです。僕が出演していた『二人の武蔵』というテレビドラマを見たチャールズ・バンド(製作)が、僕をということで、お会いして話をしたら『いい』って言うことになって決まったんです。だから不思議な出会いですよね」

―『SFソードキル』はまさに「侍(サムライ)」という感じでした。400年間冷凍状態だった侍が、現代に目覚めるというお話で―

「あの作品は僕の眠っていた“侍魂”に火がついたきっかけにもなっているんですよね。まぁ、自分は元々そういうことをやっていたんですけど、まさかあそこで使っていただけるとは思ってなかったし、また、よき殺陣師や色々な武道家の方たちとの出会いの中で育んでいたもの、それがそこで役に立ったので感謝しています。それは自分の修行としてね、自分自身を鍛えるためにやっていたことが、まさかあそこでいかされるとはね。馬もだいぶ修錬を積んで乗っていたのがあそこでいかされたりね。

だから、僕は何でもそうだけど、挑戦していくタイプなんです。人が見ていないところで一生懸命コツコツとやるタイプなので、それがたまたまいかされて、ああいう風になってよかったなあと思っています」

―撮影システムも日本とはだいぶ違ったと思いますが―

「そうですね。空港ではリムジンで出迎えられましたし、花束やシャンパンも用意されていました。ホテルはスイートルームでしたし、トレーニングルームも用意されていましてね。もうカルチャーショックでした。

それに撮影も日本ではカメラは基本的に1台で、フィルムをここぞというときに回すのですが、アメリカでは回しっぱなし。それも2台、3台ということもありましたからね」

―最初の戦いのシーンで使われていたのは真剣だったそうですね―

「はい。当時、ハリウッドが考える日本のイメージは、実際とはかなり違っていて陳腐でしたからね。どうしても違うというところは、色々意見を言わせてもらいました。当時の日本対する認識や撮影現場の状況から見ても、私の主張多くを受け入れ、認めてくれて敬意を払ってもらえたことは奇跡だったと思います。

撮影には本物の日本刀を持ち込んで臨みました。撮影前に真剣演武や手裏剣などの古武術をやって見せながら、本来の侍の生き様を説明したりしてね。それによって、ハリウッドのスタッフに、サムライの精神を正しく認識してもらい、脚本も大幅に変更されました」

―ブレないところが凄いですよね。ずっと侍道を突き詰めるっていうのが―

「どうですかね。僕は劣等感の塊なんですよ。自分が人よりも遅れて足りないから、自分がその部分をどこかで補わなければいけないからといって、見えないところで一生懸命自分を切磋琢磨して。そうじゃなければ人と同じにはなれないと言う劣等感がいつもあるんです」

―藤岡さんが劣等感とは意外です―

「ありますよ。でも、その劣等感がエネルギーとなって力が湧いてきて、そこでやっと皆さんから私が認めてもらえてるんだなと。それをしなかったら自分は無理だなと言う思いがいつもあるんですよね」

―『SFソードキル』は、世界24ヵ国で公開され、パリ国際ファンタスティック&SF映画祭で批評家賞を受賞。藤岡さんは日本人として初めて全米映画俳優組合に加入されました―

「そうですね。それを機に芸名を『藤岡弘』から『藤岡弘、』と、名前の後に『、』を打つようにしました。『昔の武将は一度“、”を打って決意した。周囲に流されることなく立ち止まり、自分を見つめる』という覚悟と、『我未だ完成せず』の意味を込めて、芸名に“、(読点)”を付けることにしたんです」

サムライ魂をハリウッドに知らしめた藤岡弘、さん。俳優としてだけでなく、武道家としても国内外で活動。国内の被災地、世界数十ヵ国の紛争地域や難民キャンプで支援活動も精力的に行っている。

次回後編では、45年ぶりに仮面ライダーを演じた主演映画『仮面ライダー1号』、こだわりのコーヒー道を紹介。(津島令子)

藤岡、珈琲+有田焼マグカップ

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