藤岡弘、空腹に耐えかねて雀を食べようとしたことも…上京当初の苦労を振り返る
初代仮面ライダーとして大ブレークし、ヒーローブームの火付け役となった藤岡弘、さん。テレビ、映画、CMに多数出演。日本人として初めて全米映画俳優組合のメンバーとなり、ハリウッド映画『SFソードキル』(1986年)に主演。
俳優としてだけでなく、『藤岡弘、探検シリーズ』の“藤岡隊長”としても知られている。幼い頃から武道を習い、武士道を貫くその生き様はまさに「侍(サムライ)」そのもの。国内外でボランティア活動も積極的に展開。
さまざまなチャレンジを続ける藤岡さんに、TVCMで破天荒な教師役を演じたスマホアプリ「モンスターストライク」の「モンスト真夏のWチャレンジ」、「夏だ!悶々!モンともミッション」&「るろうに剣心コラボレーション」特別W企画終了後にインタビュー。
◆空腹に耐えかね、雀を食べようとしたことも…
―今、イベントが終わったばかりですが、いかがでした?―
「楽しかったですね。今の時代を生きる若者たちの視線を感じてね。彼らに自分がどういう風に映っているのかという、そういう緊迫感、緊張感が良いですね。
若者たちの勇気というか、空気感を感じる場所になるべく参加して、今の時代の流れのなかに身を置いておきたいなあと思いますね」
―TVCMでは破天荒な熱血教師役ですね―
「撮影は暑さとの戦いでしたね。長時間太陽の下で汗ビッショリ。洞窟の場面は涼しかったけど、今年は本当に暑い。でも酷暑に燃えていますよ。刺激のない人生は面白くないからね(笑)。
でも、若い人たちを見ていると、自分の若い頃を思い出しますね。デビューして54年ですが、あっという間だったなあ」
―俳優を目指して上京されて―
「私は愛媛の田舎育ちだったので、唯一の娯楽と言うと、映画とかテレビだったんですよ。やっぱり1番多かったのは映画の影響ですね。映画に魅せられて、とにかく映画が見たくて、貧乏だったから映画を見る金を稼ぐのにアルバイトをしてね。
とにかく映画ざんまいで、それが目的だったからバイトも一生懸命やれたと言う感じでした」
―どんなアルバイトをされていたんですか?―
「ありとあらゆるバイトをしました。すごかったですよ。稲刈り、脱穀、穴掘りなどの日雇い作業。あとは配達、飲み物やアイスクリームを売ったり、ボートや和船をこいだり、あらゆるバイトをほとんどやりました」
―武道もやってらしたんですよね―
「もちろん。父が警察官で武道家でしたからね。私が小学校6年生のときに突然失踪してしまったんですけど、小さい頃から父の教えを受けて武道の基礎的なものを教わっていたので、関心と興味がどんどん高まって、高校時代は2年間ぐらい柔道部のキャプテンもやってました。
そこで本当に汗を流したというか、そういう仲間と一緒に夏休みなどはバイトに行ったりして、力仕事しながらお金を稼いで、そのお金で好きなものを買ったり、映画を見たり…そういう青春でしたね」
―武道の師範になるという道もあったのでは?―
「そのときにはそういう気持ちはまったくなかったですね。武道場の雰囲気は好きだったし、田舎の習慣とか慣習とか伝統、そういうものは良かったんだけど、一つの狭い街のなかで自分が一生を終えることには違和感があったので、夢がどんどんどんどん外に向かって膨らんじゃって、田舎にずっといることが苦痛だった。
だから、チャンスあれば外に行こうと思っていて、やっぱり映像の世界が一番の後押しになりましたね」
◇
―計画をたてられての上京でした?―
「いやいや、そんなのは何もなかったですね。何もわからない無謀な出発でした。後先を考えないで夢だけを抱えて、外の世界の怖さも知らないで冒険したというか、チャレンジしたようなものだから、すさまじいショックとダメージでした。
家は父が出奔した後だったので、もう母に苦労をかけているのが忍びなくて、これ以上母にすがるのは良くないと思い、バイトで貯めた金が3万円。
それと、ジーパンとワイシャツ、武道着とカメラを入れたナップザック1個持ってね。映像の世界に憧れていたからカメラに興味を持って、中古のカメラを買っていたんですよ。それに父からもらった時計があったので、その時計と自分がバイトして買った革靴。
その革靴は履きすぎて穴が開いていて、そこから水が入ってくるんだけど、そこにいろいろ敷いて、何とかそれを履いて東京に出て行ったって言うのかな。それが、僕のスタートでした。
よくあんな無謀なことをしたなって今は思います。でも、そこには一つの懸念もなかったんですよ。まさかそんな大変な世界が待っているとは思ってもいなかったんですから子供ですよね(笑)」
―東京に着いてからは?―
「お金はすぐになくなってしまいましたし、大変でしたね。食べることができなくなったときに、カメラも腕時計も質屋に入れて金に換えて食べることに使ってしまったんですけど、ボロボロになった黒帯と白い血だらけの武道着は引き取ってもらえなかったんですよ(笑)。
質屋の店主に怒られましたね。『これはとっておきなさい。これは無理だよ。これは君の青春だろう』って説教されて。その武道着だけは、今でも大事に持っていますよ。
当時はからだがちっちゃかったんだね。今ではもう入りませんけど、捨てきれなくて。武道着は破れたり、血の塊がくっついてるんだけど、ボロボロになったそのときのことを思い出すんですよね、青春のメモリーを」
―上京当初はかなり大変だったようですね―
「そうですね。野宿もしましたし、3、4日食べなくて空腹で倒れそうになったこともありました。傷もの野菜や野菜くず、魚屋さんで捨てる部分を譲ってもらったり…。
あるとき、雀を見つけて捕まえたんです、食べようと思って。でも、田舎の雀と違い、あまりに痩せこけてボロボロでみすぼらしくてね。自分の姿とだぶって見えてしまって、結局、逃がしました。あれは恥ずかしかったなあ」
※藤岡弘、プロフィル
1946年2月19日生まれ。愛媛県出身。19歳のときに上京。1965年、松竹入社。映画『アンコ椿は恋の花』でデビュー。映画『若いしぶき』で初主演。1971年、テレビ『仮面ライダー』の主人公・本郷猛/仮面ライダー1号役で一躍人気スター俳優に。
映画『日本沈没』、NHK大河ドラマ『勝海舟』の坂本龍馬役、ドラマ『特捜最前線』(テレビ朝日系)など映画、ドラマに多数出演。俳優、タレント、武道家、声優、歌手、ナレーター、実業家、ボランティア活動など、幅広い分野で活躍中。
◆バイトのかけもちに明け暮れていたとき、運命の出会いが
―藤岡さんと言えば、やはり『仮面ライダー』が浮かびますが、その前にすでに映画に出演されていたのですね―
「松竹の『アンコ椿は恋の花』でデビューして、何本か主演もやらせていただきました。松竹で期待していただけたのかな。女優さんとの組み合わせで3スターカップルのひと組として売り出されたんですよ。
竹脇無我さんと香山美子さんで“ダイナミック・カップル”、田村正和さんと中村晃子さんで“モズ・カップル”。僕は“チャーミング・カップル”という可愛いネーミングを付けられて、新藤恵美さんと一緒に」
―青春映画ですね―
「そうです。青春映画に主演させていただきながら映画のノウハウを教えていただいたんですけど、どうも松竹と言うのは女優王国でね。すばらしい老舗で、良いスタッフさんや監督がいるんだけど、自分がおぼっちゃま扱いされるのがどうも性に合わなくてね(笑)。
自分はもっと挑戦していくようなワイルドな感覚で青春を過ごしたいと思っていたけど、なかなかそういう役はきませんでしたね。隣の芝生はよく見えるじゃないけど、日活とか東映とかそういう役があったので、あわよくばという感じで、そこにも夢を感じてましたね(笑)」
―当時はまだ五社協定があったころですね―
「五社協定の1番厳しいときで、だんだんと映画界が斜陽になりつつある、ちょうど最後の時期でね。私の場合は、何とか別の分野で挑戦したいという思いがあって、ある方から教えてもらって受けたのが『仮面ライダー』のオーディションだったんですよね」
―「仮面ライダー」は東映ですね―
「そうです。それで、当時は松竹から奨学金が出ていたんですけど、受け取らないようにして、それを条件に話し合っていただこうという思いだったんです。それで他社にチャレンジしようと。
東映の重役さんが松竹まで話し合いに行ってくださって、『仮面ライダー』に出られるようになったんです。いろんな人との出会いによって挑戦できたというか、そこからまた私の人生が変わったんですよ」
※五社協定
1953年に、松竹、東宝、大映、新東宝、東映という当時の大手映画会社が、各社専属の監督や俳優の引き抜きと貸し出しを禁止、さらに所属していた映画会社を辞めてフリーになった俳優はどこも使わないという「映画界の鉄の掟」とも言われた申し合わせ。
◆仮面ライダーとして始動、そして大事故が…
―仮面ライダーに決まったと聞いたときはどうでした?―
「まさか私に決まるとは思っていませんでしたから驚きました。私よりはるかに名前の知られた俳優の方が有力な候補として残っていたらしいですからね。
まあ、武道の有段者でもあったという事と、からだが丈夫そうで、こいつはちょっと動かしても大丈夫なんじゃないかと思ったんですかね(笑)。あとは大型自動二輪の免許を持ってましたから、そういうのもあったのかな」
―主演俳優がスタントマンを使わず、スーツアクターもというのが驚きでした―
「当時はそれが当たり前のような感覚だったんですよね。僕自身はあまりそれに対して抵抗がなかったですし、ただその役がもらえるということの方がうれしくてね。
それもアクション物だということ、それだけで夢が膨らんで、よく考えると『ライダースーツを着て仮面をつけてって、あれ?僕の顔が出ないじゃないか』って、最初はびっくりしましたけどね(笑)。まぁその程度の認識で僕も甘いというかね」
―仮面ライダーのコスチュームを付けてのアクションはかなり難しいと思いますが―
「2輪に乗ってジャンプしたりとか、いろいろやりましたけど恐怖がありましたね。サイズを測ってからだに合わせてライダースーツと仮面を作ったんですけど、当時は、レザーだったんです。
ところが、どういう風にして戦うのかよくわからなかったので、きちんと背広のごとく採寸して、からだに合わせて作っちゃったんですよ。革は汗を吸い込むと縮んじゃうんですよね(笑)。そこを予測してなかったんです。
動き始めて汗をかいたら縮まっちゃってきついわけですよ。それに仮面もかぶらなきゃいけないから視界も悪いし、痛いし…。プラスチックで遮断されてますから、それも自分の吐く息で曇って見えなくなっちゃって。それでもアクションをやるという、すごい恐怖のなかでね」
―今では考えられないことですよね―
「そうですね。私の事故がきっかけで、これはいかんと。ライダースーツの開発にもものすごく積極的になってね。主役がそういう風になったらもう番組がなくなるかもしれないと言うことがわかってから、変身後をやるのは禁止になったんですよ。
だから、私以降は全部スタントマンがやるような形にして、番組を守ろうと言う体制に切り替わりました。まぁ当然ですよね」
―かなり大きな事故だったと聞いています-
「そうです。亡くなって当たり前みたいな事故でした。下り坂をバイクで走り下りるシーンでスリップしてコーナーを曲がり切れず、30mぐらい吹っ飛びましたからね。
柔道をやっていたから、無意識に頭を守って首の骨を折ってなかったというか、首から上が守られていたから生きていたんです。でも、首から下はズタズタでした」
◇
全身打撲に大腿骨粉砕骨折。大腿骨は骨折してバラバラに砕け、割れた骨の破片が筋肉に突き刺さっているという深刻な状態だったという。
次回は、当時の外科技術では完治は難しいと言われた藤岡さんがいかにして奇跡の復帰を遂げたのか。そして日本人として初めて全米映画俳優組合のメンバーとなった経緯も紹介。(津島令子)
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