日本選手権“最下位”から2年で“世界2位”へ。競泳・大橋悠依がヒロインになるまで
6月24日(日)に放送されたテレビ朝日のスポーツ情報番組『Get Sports』では、昨年2017年の世界水泳銀メダリストにして、今年2018年夏に行われるパンパシ水泳東京では金メダルの最有力候補となっている競泳・大橋悠依選手について特集した。
◆波瀾万丈の競泳人生を送る大橋悠依
今年3月、東洋大学の卒業式。同い年で同郷の陸上選手・桐生祥秀らと並び、はじける笑顔を覗かせていた競泳選手・大橋悠依(22歳)。
彼女は、大学での4年間をこう振り返った。
「4年前は、ここまでになれるとは思っていなかったですし、入学した頃は、4年の9月で普通に引退していると思っていました」
入学当時、全国的にはほぼ無名の選手だった大橋。大学2年の際に出場した日本選手権では最下位である40位を記録し、周囲に「水泳を辞めたい」と漏らすほどの“どん底”にいた。
それが2017年、初出場した世界水泳で、いきなり200m個人メドレー銀メダルを獲得。一躍、競泳界のニューヒロインとなったのだ。
彼女に何が起こったのか? いかにしてスターダムを駆け上がったのか?“遅れてきたニューヒロイン”誕生のヒミツと、その成長の過程に迫る。
◆「いかに楽に、速く泳げるか」
1995年(平成7年)10月18日、滋賀県彦根市で三姉妹の末っ子として生まれた大橋悠依。
姉の影響で、彼女が本格的に水泳を始めたのは小学校1年生の秋だった。しかし、練習は大の苦手。「いかに楽に、疲れず、速く泳げるか」ばかり考えていたという。
そんな彼女を指導していたのは、奥谷直史(おくたに・なおふみ)コーチ。彼が大橋に課したのは、水中を一直線に伸びながら進む練習だ。腕・肩甲骨から腰・脚までピンと伸ばし、そのままの姿勢で行けるところまで進む。これを何度も何度も繰り返させた。
一方で、1日の練習量はトップ選手の半分ほど。厳しい泳ぎ込みよりも、こうしたキレイな姿勢を保つことに費やしていたのだ。練習が苦手だった大橋にとって、うってつけの指導でもあった。
結果として身についたのが、本人曰く「水に優しい泳ぎ」。水面に対して平行な姿勢を保つことで、水の抵抗が最小限となる。つまり、無駄な力を使わずに推進力を得る泳ぎだった。
この泳ぎで、彼女は様々な大会で好成績を収めるまでになっていく。
◆名伯楽・平井伯昌コーチとの出会い
そんな大橋の才能に、早くから注目していた人物がいる。あの北島康介を育てた名伯楽にして、競泳日本代表で監督も務める平井伯昌(ひらい・のりまさ)だ。
「未完成だが、限りないポテンシャルを秘めている」――そう確信した平井コーチは、全国的には無名の高校生スイマーだった大橋を、自らが指導する東洋大学へ誘う。それに応え、2014年4月、大橋は晴れて平井コーチのもとへ。
しかし、ここから大橋にとって苦難の日々が待っていた。
最初のアクシデントは、入学して間もない大学1年の6月。自らの不注意から、左ヒザの骨を痛めるケガ(※膝蓋骨脱臼<しつがいこつだっきゅう>)を負ってしまったのだ。
これによって、足に大きな負荷をかけることができなくなった大橋。他の選手が走り込みを行っている傍らで、ひとつ別メニューのウォーキングの日々だった。
さらに、大学2年に上がる直前の春頃、追い打ちをかける苦難が降りかかる。「いつもと同じように泳いでいるのに、息切れがひどく、すぐ疲れ、タイムも落ちる一方」――原因不明の体調不良が襲ったのだ。
そんななか、大学2年の4月に行われた日本選手権に出場した大橋。前述の通り、参加選手中最下位となる40位を記録し、まさにどん底の日々となった。
「水泳を辞めたい」――この頃、彼女は平井コーチにそう話したという。これを平井は一喝。まず、うまくいかないときにすぐ態度に表れてしまうような精神面を鍛えるよう諭した。
そんな助言が胸に響き、徐々に笑顔を取り戻していった大橋。「それまでは、自分のダメな部分探しばかりしていたけど、自分でもできるということも少しずつ増えて、前向きになるようになった」――必死に、どん底から這い上がろうともがいていた。
その後、体調不良の原因が「重度の貧血」と判明。食生活を改善していくことで、状態も徐々に回復していく。タイムも、日に日に上向いていった。
そして、大学3年の終わりには、トップ選手だけが派遣される高地での合宿に初めて招集。ようやく、本当の意味でのスタートラインに立つことができたのだ。
◆遅咲きの“ニューヒロイン”誕生
大学4年になったばかりの4月。日本選手権。この年(2017年)7月に行われる、世界水泳ブダペストへの出場権をかけた大会である。
満を持してこの大会に臨んだ大橋は、400m個人メドレーで圧倒的な泳ぎを展開。2位以下を大きく引き離し、なんと日本記録を3秒24も更新しての初優勝を果たした。このタイムは、リオ五輪での銅メダルに相当する驚異的なもの。さらに、200m個人メドレーでも逆転で優勝し、その才能を一気に開花させた。
そして、初出場となった世界水泳。大橋は、200m個人メドレーでまたも日本記録を0秒54更新するタイムを叩き出し、銀メダルを獲得する。
2年前は日本の最下位40位だった彼女が、「世界の2番」に。こうして、遅咲きの“ニューヒロイン”が誕生したのだ。
◆“ニューヒロイン”から“エース”へ
そんな大橋悠依だが、ある課題とも向き合っている。それが浮き彫りになったのが、大活躍した昨年の世界水泳だ。
大会2日目に行われた200m個人メドレーで銀メダルを獲得したものの、最もメダルが期待された最終日の400m個人メドレーでは4位。メダルを逃している。敗因は、最終日まで気持ちとコンディションを維持することが出来なかったこと。大橋は、初の大舞台で、栄光とともに課題も持ち帰っていた。
そこで今シーズン、彼女が取り組んでいるのが、長丁場の世界大会を戦い抜くだけの“タフさ”を身につけることだ。
従来の個人メドレー2種目に加え、新たに200m自由形などへの参戦も決意。あえて過酷なスケジュールでレースに出場することを繰り返している。ときには、1日で200mのレースを6本泳ぐことも。
また、ここにきて大学1年のときに痛めた左ヒザの状態が上向き、およそ3年半ぶりに走り込み練習を再開するなど、ほとんど手つかずとなっていた脚力強化にも取り組めるようになった。これによって、タイム短縮のために重要なスタートやターンの際の“蹴り”にも力が増している。
こうした取り組みの成果が表れたのが、社会人となって初めて迎えた今年4月の日本選手権。8月のパンバシ水泳の出場権をかけた大会でもある。
6日間の大会で、3種目8レースに出場した大橋。大会3日目の200m自由形で2位となり、まずリレーでの出場権を獲得。
翌4日目の200m個人メドレーでは、2位以下を大きく引き離し堂々の連覇。そして最終6日目に、8レース目の400m個人メドレーに挑んだ。
精神的にも体力的にも最も厳しい状態でのメイン種目。それはまさに、昨年の世界水泳の際と同じ状況である。
ここで、最初のバタフライから積極的に飛び出した大橋。自らの日本記録を1秒近く上回りターンすると、苦手としている平泳ぎでも自己最速ラップを刻んでみせる。そして、最後の自由形でもスピードが衰えることなくゴール。
タイムは、4分30秒82。自身の日本記録を0秒6更新する、今季世界最高を叩き出しての優勝。課題を見事に克服し“タフさ”を身につけた大橋は、パンパシ水泳に向け大きな手応えを得た。
◆パンパシ水泳・金メダル、そして世界新記録へ
そんな彼女の前に立ちはだかる最大のライバルは、昨年の世界水泳400m個人メドレーで銅メダルを獲得しているカナダの21歳、シドニー・ピックレム。4位の大橋が、1秒半以上の差をつけられ敗れた相手である。この対決は、今夏のパンパシ水泳屈指の大一番となるのは間違いない。
「ピックレムに勝つのはもちろん、自分の持っている日本記録を更新して、4分30秒を切る泳ぎを見せたい」と意気込む大橋。さらには、「世界新記録も視野に入れていかないと、東京オリンピックでの金メダルはないと思っている」と高らかに宣言している。
8月のパンパシ水泳では、日本代表のキャプテンに就任した大橋悠依。“ニューヒロイン”から“日本のエース”となった彼女が、世界の頂へと挑む。<制作:Get Sports>
※番組情報:『Get Sports』
毎週日曜日深夜1時25分より放送中、テレビ朝日系(※一部地域を除く)