俳優・田中要次、12月8日に会社を辞めた理由「絶対にこの日しかないと思った」
木村拓哉さん主演ドラマ『HERO』のバーのマスター役でおなじみの俳優・田中要次さん。何をオーダーされてもクールに「あるよ!」と応じる姿は、回を重ねるごとに話題を集め、楽しみな名物シーンに。今や映画、ドラマ、CM、バラエティー番組に引っ張りだこの田中さんだが、意外なことに俳優を志したのは27歳のときだった。
※『HERO』=木村拓哉さん演じる型破りな検察官・久利生公平と、彼が勤務する東京地検城西支部の同僚たちが事件解決に挑む姿を描き、高視聴率をたたきだした人気ドラマ。
◆田中要次、女子が目的で演劇部に入部したけど…
-役者になりたいと思ったのはいつ頃からだったんですか-
「初めて役者として起用されたときはまだサラリーマンだったんですけど、撮影に参加して、あまりにも楽しかったものですから、『もう1回撮影現場に戻りたいなあ』って思って。戻りたいというのも変なんですけど、そっちに気持ちが傾き出しちゃったということですね」
-高校時代に演劇部に入ってらしたそうですね-
「その頃は全然役者になりたいなんて考えてなかったんですけどね。別の学校に行った友だちが演劇部に入って、『お前も演劇部に入れよ。そしたら合同の発表会とかで会えるんじゃないか』みたいなことを言われたのと、あとは僕が入った学校が、林業系だったので、生徒がほとんど男子。
女子がいるクラブはどこかなあってリサーチしたら演劇部だったんです。放課後くらい女子といたいなと思って(笑)。そんな感じで演劇部に入って、1回文化祭で舞台に立ってみたんですけど、肌に合わないなあと思ってやめました(笑)」
-入った動機が思春期の男子っぽいですよね。放課後くらい女子と…って-
「放課後くらいという思いはありましたよ。“アフター5”と言うのですかね? 放課後は5時じゃないか~(笑)」
-学生が“アフター5”というのも微妙だと思いますが-
「幸いにして今ではどこでも男女がいますけど。そのあと、高校を卒業して国鉄に入ったんですけど、国鉄も男ばかりでしたからね。それもやっぱりずっといられなかった理由の一つかもしれない(笑)」
-退社された1990年12月8日、その日にはこだわりがあったと聞いていますが-
「何となく、その年の年末にやめようと思って、ちょっとカッコつけて、『ジョン・レノンの死んだ日の12月8日に会社をやめてやろう』ってシャレで言ったんですよ。でも、僕はそんなにジョン・レノンを大好きで何でも語れるというほど詳しいわけではなかったので、『何でジョン・レノンって言っちゃったんだろう?』って思いながら、ふと、その日って鉄道に入ってからどれぐらいの日数になるんだろうと思って計算してみたんですよ。
8月8日生まれだったから、8という数字がポンと出やすかっただけなんですけど、『あれ?ひょっとして…』と思って調べてみたら、8年と8ヵ月と8日だということがわかったので、絶対にこの日にやめるしかないと思ったんです。
何か、万が一、その選択が失敗していても、笑い話になるなと思ったんですよ。『カッコつけてその日にやめたは良いけど、こんな風になっちゃいました』みたいなね(笑)」
-その選択は正解でしたね-
「今やウリになっているというね(笑)」
-ちゃんと計算してらしたんですね-
「そこはね。でも、上京したのは良いけど、なかなか良いアパートが見つからなくてね。結局、住むところも数字、番地で決めたんですよ。今と違って当時はネットがないから賃貸情報誌を買って、部屋を見せてもらったんだけど、イマイチで。
情報誌を見て不動産屋さんに電話して番地だけ教えてもらった物件が、まだ人が住んでいるから見られないと言われたんですけど、番地が2-18-18だったんですよ。イチかバチかという感じが良いなあと思って(笑)。イチかバチかが2つ並んでいるのがね(笑)」
-なかを見ないで決めちゃったんですか?-
「そう。数字で選んだという感じ。で、ちょうど、90年の年末ですから、まだ27か。その年のクリスマスの日に引っ越してきて初めて部屋のなかを見たんです。鍵をもらって」
-チャレンジャーですね-
「その頃はね、半分ヤケクソだったので、勝負に出れたという感じがありますかね。どうせ守りに入っても、どんどん悪くなる一方だみたいな気持ちが強かったから。だったらダメ元でやっちゃえみたいな感じでしたね(笑)」
※田中要次プロフィル
1963年8月8日生まれ。長野県出身。1982年、高校卒業後、日本国有鉄道長野鉄道管理局に就職。1987年、国鉄の民営化にともないJR東海の社員に。1990年に退職して上京。映画『鮫肌男と桃尻女』、タランティーノ監督の米映画『キル・ビル』、NHK連続ドラマ『べっぴんさん』など映画、ドラマに多数出演。『HERO』のマスター役で人気を博し、バラエティー番組でも活躍。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』では4日間で60km以上を歩くというハードなロケも行っている。
◆初めてのカメラテストは竹中直人と「生え際」のおかげ?
-毎月お給料がもらえるサラリーマンをやめて先が見えない俳優に…というのはすごい大きな賭けですよねー
「そうですね。だから、前向きなようで、半分身投げ気分でしたね。おふくろはもうキレて逆上して食器を投げてきましたし…」
-それでもやりたいという思いが強かったですか-
「何ですかね。何か止められなくなっちゃったというか…」
-俳優養成所に通うのではなく、まずスタッフとしてスタートですか?-
「そうです。僕がまだサラリーマンだったときに初めて参加した作品で照明を担当されていた方のところで照明機材の製作をまず手伝いに行って、その1ヶ月後くらいに『竹中直人が映画(無能の人)を撮るけど、その現場についてくるか?』って言われて行くことになったんです。
そしたらカメラテストのときに『生え際が竹中に似ているからちょっとモデルになって』って言われて、後日それを見た竹中さんが『何か面白い顔をしているな。ちょっとどこかで出てもらおう』って話になったんです」
-初めて竹中さんの現場にスタッフとして行って出演されることに?-
「そうです。でも、それから30年半ぐらい、ちょうど竹中さん監督の2作目『119』まで照明とか録音とかをやって、それで食いつないでいました」
◇
-撮影スタッフ以外のバイトはどんなことをされていたのですか?-
「宅配便、皮のキーホルダーの版押し、エレベーターの扉のクロス貼り、解体、クラブの厨房バーテンダー、最後はバイク便でした。バイク便は長かったですね。撮影スタッフをやめてからメインになったのがバイク便ライダーで、3年ちょっと続いたかな。
98年ぐらいにお付き合いさせてもらった女性に、朝まで飲んだ後、『今からバイトに行かなきゃ』って言ったら、『やめちゃえば?ご飯ぐらいだったら私が食べさせてあげるから』って言われたんですよ。
それで『言ったな。今の言葉、俺は聞き逃さないぞ』って、ある意味、それまでの恋愛の反逆のように(笑)。その日のうちにバイト先に行ってやめちゃいました。もしかしたら彼女は酔っ払った勢いで言っただけだったかもしれませんね(笑)」
-もうやめたいという思いもずっとあったんですか-
「それもあったんでしょうね。でも、とにかくそのときはバイトをやめることで役者として大成したいというよりは、そのことを言ってくれた彼女を逃したくないという気持ちのほうが強かったんですよね(笑)」
-バイトをやめたことを知ったとき、彼女は?-
「ビックリしていましたよ。『バイトやめてきた』って言ったら『えーっ?』って(笑)。事務所からも『まだバイトしててよ』って言われました」
-でも、やめて役者に専念されて-
「そうですね。もうスタッフもやってないから、役者の仕事がもらえなかったら撮影現場に戻れないと思ったからね。そりゃあ当然すぐにはうまくいかないけど、でも、おのずとそれまで知り合っていた監督とかにね、何か情報入ったら、『僕を出して下さい』って電話をしてみたりとか、何か、やっぱりそれまで以上に役者の仕事に対しての思いが強くなるというか。気がついたらどうにかバイトしなくても生活できるようになっていました」
◆『HERO』のマッチョな衣装にビックリ!
-転機になった作品というと、やはり『HERO』ですか-
「そうですね。『HERO』が大きいですね。その前に石井克人監督の『鮫肌男と桃尻女』(1999年)という映画があって、あれで割りと映画、CMに認知されるようになったというか、起用されやすくなったみたいですね。
石井さんはCM監督なので、そのおかげでほかのCM監督も呼んで下さるようになって、NTTグループのCMで僕がやったのが1年続いたのも大きかったですね。それで『コイツ誰だ?』みたいなことになっていったわけで」
-『HERO』のマスター役のお話が来たときはいかがでした?-
「最初は今までとそんなに変わらないポジションの役かなと思いました。レギュラーとは言われたんですけど、衣装合わせもなかったんですよ。だから、お店の奥でシェーカーを振ってるぐらいの役なんだろうなと思って現場に行ったら、あのコスチュームが用意されていて、『このマッチョっぽい衣装は何だろう?普通じゃないな』って。(笑)
それで、セリフは一言だけで『ビール』って書いてあったんですよ。お店の人がただ、『ビール』って言って出すことはないじゃないですか。だから『はい、ビール』ってリハーサルで出したら監督から『“はい”はいりません』って言われたので、とにかく無口なんだな、このマスターはって思ったんですよ。そうやって回を重ねるうちに、3、4回目あたりから『あるよ!』に固定されたんですよね」
-『HERO』の名物シーンとして話題になりました-
「そうですね。それまでは映画館に行って、ちょっと振り向かれたりする程度だったのが、駅と自分の家の動線の中でも急に人の反応が違ったから、ちょっと怖くなりました。コンビニに行きたくても表にいた学生に騒がれたから行けないみたいなね。ちょっと自意識過剰になっちゃって(笑)」
-それに慣れるまではどのくらいかかりました?-
「2年ぐらいかな? メガネをダテでかけ出したときから大丈夫になっていきました。メガネのフレームがあることで、自分が何かの中にいるみたいな感じになるんですよ。不思議なもので、これで自分の精神のバランスをとっているみたい。変なたとえだけど、ウルトラアイを掛けて変身してウルトラセブンになっているみたいな感じ?(笑)。
それにメガネのテンプル(つる)が厚いと真横の人の顔が見えないから、横からの視線が、まず気にならなくなった。結局、自分の視界を狭くしたということなんですけどね」
-ある意味、一種の防具ということでしょうか。こだわっていることはありますか?-
「カラーリングだけは特注で、『アイアンマン』カラーにしてるんです。自分は赤とゴールドのカラーリングを自分のカラーにしようかと思って、まず型を選んで、それをこのカラーに塗ってもらっています。
八嶋(智人)君のメガネのフレームが白だったり、メガネを掛けている方々が自分の色を持っているので、僕も何か色を決めたほうが良いと思って。単純に『アイアンマン』の色が好きだからなんですけどね(笑)」
◇
特注のカラーリングを施したというメガネがとても良く似合う。次回後編では大の猫好きとして知られる素顔、特殊メイクも施し、国内外の映画祭でも話題を集めた初主演映画『蠱毒 ミートボールマシン』の撮影裏話を紹介。(津島令子)
※映画『愛しのアイリーン』(9月14日公開)
※ドラマ WOWOW 連続ドラマW『イアリー 見えない顔』(8月4日スタート)
※ドラマWOWOW 連続ドラマW『真犯人』(9月23日スタート)