俳優・井浦新、映画『ピンポン』のヒット後に休業した理由「このまま役者をしたら…」
ARATA名義でファッションモデルとして『MEN‘S NON‐NO』をはじめ、数多くのファッション誌の表紙を飾り、カンヌ映画祭パルム・ドール賞を受賞した是枝裕和監督の映画『ワンダフルライフ』(1999年公開)で俳優デビューにして映画初主演。
映画『ピンポン』(02年)で注目を集め、数々の映画に出演。2011年、映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』で三島由紀夫を演じるにあたり、アルファベットの名前はふさわしくないとARATAから本名の井浦新に改名。単館系からメジャー作品までジャンルを問わず、唯一無二の存在感を放っている井浦さんにインタビュー。
◆映画『ピンポン』のヒットが“俳優人生スタート”での挫折?
-今年で俳優になられて20年ですね-
「そうです。僕のなかでは役者という意識は全くなかったので、最初は記念になればという感じだったんです。それが今も続いているわけですから面白いものですね。たまたま是枝裕和監督が『ワンダフルライフ』という映画で呼んで下さったのがきっかけだったんですけど、役者を続けたいというより、映画作りの現場への感動のほうが大きかったんです。
『映画を作る現場には、また呼ばれたら来られるんだなあ』って。ありがたいことにインディペンデント映画(自主制作映画)の素晴らしい監督の方たちに出会って来て、1本目が是枝監督で2本目が青山真治監督の『シェイディー・グローヴ』、3本目でまた是枝監督の『DISTANCE』」
-そして、4本目が『ピンポン』ですが、そのあと俳優業をお休みされていた時期があったそうですね-
「はい。『ピンポン』の後、3年ぐらい。ちょっと疲れちゃってやめてました。もともと役者志望というわけではなかったし、『ピンポン』も単館で上映されていた映画だったんですけど、やっぱり色んな意味でチャレンジさせていただいた作品で、疲れちゃったんですよね(笑)。
たとえば、宣伝活動など現場以外での稼働がすごくあったりすることに、『あれっ? 役者ってこういう仕事なのかな?』って思ったりして…。役者って、本当はそれも仕事だったんですけど、僕はまだ知らなかったんですよね。『これって自分がやりたいって思っていたことじゃないし、やっぱり自分が来るところじゃなかったなあ』って一回休んじゃったんです」
※『ピンポン』=『タイタニック』のVFXに参加した曽利文彦監督が松本大洋の同名人気コミックを実写映画化。卓球に懸ける男子高校生の青春を描いたこの映画で、井浦さんは、冷静沈着で心優しいメガネ男子・スマイルを演じた。
-『ピンポン』では「メガネ男子」として注目を集めました-
「そういうのも全然知らなかったです。逆に僕にとっては当時『ピンポン』がNGワードみたいになっちゃって…。あの作品で出会った仲間たちやスタッフの人たちとの撮影中の思い出というのは最高のものしかないんですけど、何か心が一回疲れちゃったら、そういう大切なものさえも全部どこかにいっちゃいそうになったりしていて…。
何か僕のなかでは、『もう「ピンポン」のことは言わないで下さい』という感じになっていたんです。そのときは僕のなかに役者で勝負していこうという気持ちも全くなかったから、このまま自分がいるところじゃないと思ってしまって…。そういう時期があったんですよ」
-仕事のオファーもかなりあったと思いますが-
「すべて断ってもらいました。『ピンポン』には窪塚洋介君や大倉孝二君など同世代の俳優が出ていたんですけど、彼らはもう役者ひとすじでしたから。それなのに、まだ役者でやっていくという覚悟がない僕がこのまま役者をしたら映画に失礼だと思ったので」
※井浦新プロフィル
1974年9月15日生まれ。東京都出身。1998年に映画『ワンダフルライフ』に初主演。以降、映画を中心にドラマ、ナレーションなど幅広く活動。公開待機作に映画『止められるか、俺たちを』『赤い雪 RED SNOW』『菊とギロチン』など。7月期ドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』(フジテレビ・カンテレ系)に出演。
◆巨匠、若松孝二監督との出会いでARATAな役者へ成長
俳優を休業していた3年間はデザイナーとして服作りに専念していた井浦さん。熱烈オファーを受け、主演映画『青い車』(04年・奥原浩志監督)でスクリーンに復帰。最初は断るつもりだったが、3年間役者として活動していない自分を強く求めてくれる人たちに興味が湧いて会うことにしたのが復帰のきっかけだったという。
以降、数々の映画に出演し、2008年には初めて自分から望んでオーディションを受けた若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』に出演。晩年の若松監督の5作品すべてに出演している井浦さんは“若松監督の秘蔵っ子”とも称されている。
「僕にとって是枝裕和監督と若松孝二監督との出会いは大きかったです。若松監督の映画にはいつか出させていただきたいと思ってたんです。『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は、初めて自分からオーディションを受けさせて欲しいと動いた作品でした。若松監督がこの作品を撮ることを知って、すぐに若松プロダクションに電話したんですけど、電話に出たのが監督だったので直談判しました。オーディションを受けて映画に参加できることになったときは、本当にうれしかったです」
-撮影現場はいかがでした?-
「当時はまだARATAという名前でやっていましたし、現場にいた役者たちの目は厳しかったですね。『何でこんなやつがいるんだ?』って感じで。でも、そのおかげで『絶対に負けるもんか』って火がつきました。そんな闘志むき出しの魂をぶつけ合うような現場でしたから、今でも同志だと思える人ができました」
-若松監督は現場ではどんな感じでした?-
「初めて役者、スタッフが全員集められると、いきなりけんか腰で登場して、ひとりひとりにダメ出しを始めたんです。僕は『おまえ、そんなチャラチャラした頭で、ふざけんな!』って言われたので、すぐに頭を丸めました。でも、後日、『おまえは芝居もヘタクソで全然ダメだけど、自分なりの反応をすぐに返してきたやつは珍しい。俺は、思ったらパッと行動するやつが好きなんだ』とおっしゃって下さって、その言葉にこたえたいと思いました」
-若松監督の晩年の5作品すべてに出演されていますね-
「僕の人生を変えてしまうくらいの経験をさせていただきました。突然オファーがきて、一作一作、新しい気持ちで挑んで、怒鳴られて、怒鳴られて、本当に怒鳴られていました。でも、毎回クランクアップすると、『あぁ、終わってしまった…』と、茫然自失になるほど夢中にさせられる現場。僕はそんな若松組の現場が大好きでした」
-若松監督の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』では改名もされました-
「この作品が完成したときのエンドロールのことが頭をよぎったんです。史実に基づいて製作され、主人公は文豪でもある三島由紀夫。それだけにARATAというアルファベット表記の名前が最初に出てきたら、自分だったらちょっと残念な気持ちになるなと思ったんです。これが若松監督の作品でもあるし、良い機会じゃないかと思って」
-監督には改名の相談をされたのですか-
「はい。『この作品から本名に戻してもいいですか?』と相談したら、『それだったらおまえ、井浦新って、誰が三島やっているのかわからないじゃないか!』と怒られたんですけど、『でも、そういう気持ちは、オレは嫌いじゃない』と言ってくれました」
-ここ数年はテレビドラマへの出演もされていますが、それも若松監督の影響だそうですね-
「それまではテレビドラマのことは考えもしなかったんですけど、監督と現場でふたりきりになったときに『君はもっと色んなことをやりなさい。仕事なんて選んじゃいけない。カッコつけちゃダメ。何でもやりなさい』って言われたんです。その言葉が今も心の支えです」
※若松監督は2012年10月12日にタクシーにはねられ、17日に亡くなった。井浦さんは事故に遭った日も新宿で会っていて、監督は次回作について目を輝かせて熱く語っていたという。今年、若松プロダクションは映画製作再始動第1弾作品として『止められるか、俺たちを』を製作。1969年に若松プロダクションの門を叩いた少女の目を通して、若松とともに青春を映画に捧げた若者たちの姿を描くこの作品で、井浦さんは若松監督を演じる。
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今年はすでに3本の映画が公開され、6月30日(土)には主演映画『返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す』、7月7日(土)には映画『菊とギロチン』の公開が控えている井浦さん。次回後編では撮影秘話、2児の父親としての顔を紹介。(津島令子)
ヘアメイク/Atsushi Momiyama(BARBER BOYS)
スタイリング/UENO KENTARO(KEN OFFICE)
※『菊とギロチン』
7月7日(土)よりテアトル新宿他全国順次公開
関東大震災後の大正時代末期を舞台に、当時実在した「女相撲興行」の力士たちと実在のアナキスト・グループ「ギロチン社」の青年たちが出会い、「自由な世界に生きること」を求めて闘いに挑む姿を描く。
監督:瀬々敬久 出演:木竜麻生、東出昌大、寛 一 郎、韓英恵、渋川清彦、井浦新