タモリの“愛情”でブレーク!ノッチのキャラクターを作った「いじり」
今年芸能活動30周年を迎えた「デンジャラス」のノッチさん。ここ数年は奥様の友美さんとともにテレビ出演することも多く、恐妻家キャラも定着。再ブレークのきっかけとなったオバマさんのモノマネもマラソンやトライアスロンを始めたのも奥様のアイデア。
さまざまなレースに参加するだけでなく、「救命手当普及員」と「日本健康生活推進協会健康マスター」の資格も取得し、幅広い分野で活動しているが、お笑い芸人になった理由とは…
◆実業団の陸上選手になるはずが、芸人になった理由とは
―芸能活動を始めて30年ですが、芸人になろうと思われたきっかけは?-
「僕は中学の陸上大会(愛媛)で、3000m障害で四国3位に入った経験もあったので、高校は陸上漬けの生活でした。でも、実業団を目指していたけどダメだったんです。みんなストイックに練習していたので、ムードメーカーの役割というか、クラブのメンバーとかを笑わせるのは好きだったんですよ。それでイケるんじゃないかなと思って。
実業団のテストに全部落ちたときに陸上の先生に部室で『先生、お時間ありますか。僕、お笑い芸人になりたいんですけど』って真剣に言ったら、先生が僕の目を真顔で見て『お前は面白くない!』って言ったんですよ(笑)。その反動です。あのときに先生が笑いながら『お前は面白いから大丈夫だと思うよ』って言っていたら、芸人にはなってなかったと思います」
-部室でみんなに色々やってみせていたときにはウケていたんですか-
「まあまあです。失笑ぐらい(笑)」
-「デンジャラス」の相方の安田和博さんと出会ったのは?-
「陸上の先生に面白くないと言われた反動で東京に出て来て、『劇団七曜日』に入ってからです。上京して最初に入ったのは東京ヴォードヴィルショーでしたけど。だから佐藤B作さんは今でも僕のことを本名の望(のぞむ)って言います。ノッチとかオバマとか関係ない(笑)30年以上前で研究生もいっぱいいたんですけど、おぼえて下さっていてありがたいですね」
-ノッチという芸名はどのようにして-
「マッチさん(近藤真彦)のニセモノで、ノッチというコントのキャラクターだったんですよ。それで『タモリのボキャブラ天国』に出たときに、タモリさんが『お前はノッチなんて名前はどうでも良いんだけど、話しながら右手を動かすのはやめろ、見ていると腹がたってくる』って言うから、次のときも『ノッチでーす。タモリさん聞いて下さい』ってやると『だから、それやめろ』って言う…そのやり取りがだんだんウケてきたんですよ。
それで、スタッフの方が、『今度は両手でやって下さい。そうするとタモリさんがきっとまた怒りますから』って。それをフューチャーしてもらって。それはタモリさんの愛情ですよね。『やめろ』と言ってるけど本当は『やれ』という…。
だから『ノッチでーす』というのを作って下さったのは、全部タモリさんですよ。毎回、『ノッチってやつがいるんだけど、クセで手をこうやって動かすからイライラして話が入ってこない。だからやめろって言ってるんだ』ってタモリさんが言って下さって(笑)」
-タモリさんがいじって下さったおかげで広く知られるようになって-
「そうです。それからノッチというキャラクターができましたから。それもまた他人頼みですよね(笑)。節目節目に、どなたかがフッと助けて下さっています」
-今、「デンジャラス」としての活動は?-
「ライブ自体は卒業したのでやってないんですけど、営業とかイベントには行っています。
安田君はテレビ番組の構成作家もやっているんですよ。この間も安田君が構成作家をやった番組に出させてもらいました(笑)。すごく良い関係で感謝しています」
◆ノッチ、アイアンマンのレースであわや死亡事故に…?
2011年、『行列のできる法律相談所』の番組企画で「第25回指宿トライアスロン大会」と「2011佐渡国際トライアスロン大会」に出場。プライベートでもマラソンやトライアスロンの大会に出場するようになるが、2015年、予期せぬアクシデントに見舞われる。
-マラソンやトライアスロンの大会にも出場されていますが、倒れたこともあったそうですね-
「2015年、宮古島でアイアンマンのレース中に死にかけたことがありました。脳が覚醒しているから、自分では大丈夫だと思っているんですけど、だんだん視野が狭くなってきて、これはヤバいなって…。それで救護所に行ったら、応急手当の先生たちがパニックになってるんですよ。脈と心拍数などを診ていた先生たちが、ブワーって動き出して、『搬送、搬送、搬送』って言って。
でも、ほかにも何人もいるから、搬送されるのは自分じゃないと思っていたんですけど、『搬送しますね』って言われて、それが自分だとわかったときにヤバいって(笑)。それで一緒に行っていた友人の医者が来て、『ノッチさん、落ち着いて下さい。今から搬送かもしれないので』って言うんですよ」
-そのときには自分ではそんなに悪い状態だとは感じてなかったんですか-
「感じてないです。先生が僕の顔の前で指を出して『これ何本に見えますか?』ってやったりしてました。でも視野は狭いんですよ。『AED、AED』って言ってるから、『えっ?僕ですか?』って思って…」
-かなり危険な状態じゃないですか-
「そうなんです。飛行機のチケットも取っているのに、病院に搬送されると24時間以上帰って来られないんですよ。とりあえずOS1(経口補水液)を吐いても良いから一気に飲んで下さいと言われて、飲んで吐いてを繰り返して…。
それで搬送する先生たちが来て、『私の目の前でOS1を飲んで下さい』って言われたので飲んで、吐きたいのを我慢していたら『OKです。搬送しません』って。その先生たちが去った瞬間、ブワーっと吐きましたけどね(笑)。
それで一緒に行っていた友だちの医者に点滴などの治療をしてもらいました。脱水症状もあるんですけど、心臓の鼓動が弱い状態だったみたいです」
-自覚症状はありました?-
「全然なかったです。『何なの? こんなに変なコントみたいなことしなくても良いのに』って思っていました。点滴を2時間ぐらいして、3時間ぐらいしたらだいぶからだも落ち着いてきたので、次の日の夕方に帰ってきたんです」
◆ノッチ、死の淵から復活で「救命救急」に目覚める
-色々な資格も取得されていますね-
「『救命手当普及員』と『日本健康生活推進協会健康マスター』の資格を取りました。『上級救命技能士』の資格をとって、さらに『救命手当普及員』『上級救命普及員』と続けてみました。
東京消防庁に行ってたんですよ、講習に通って。毎朝8時から5時まで2週間、東京消防庁に通って勉強しました。一般の企業の方が多くいらしてたんですけど、『僕らは会社から行けと言われて来ているんですけど、ノッチさんは何ですか? 何に使うんですか?』って聞かれました」
-取得しようと思った理由は宮古島でのことがきっかけですか?-
「そうです。トライスロンで死にかけたところを助けていただいたので、知識と資格を持っていたほうが良いなあと思って」
-難しかったですか-
「はい。消防庁の方も丁寧(ていねい)に教えて下さいましたけど、難しかったです。応急手当も大切なのは励まし続けることなんです。一回ダメになられている方でも励まし続けることによって、立ち上がってくるんですよね、人間というのは。
僕も自分が倒れたそのときに救護とか、みなさんの力っていうのは大切なんだなあって実感しました。それで、たまたま次のレースに参加したときに、家族で観光に来ていた方がいて、一緒に走っていたんですけど、その方が途中で具合が悪くなってしまって、『ノッチさん、ここで棄権するのって恥ずかしいですかね』って聞いてきたんです。だから『全然恥ずかしいことなんてないですよ。また次のチャンスがあるし、僕も何回も途中でやめていますから』って言ったんです。
でも、『家族もみんな来ていて、ここで辞めることはできない。恥ずかしいんですよ』って言うので『大丈夫です。是非ストップして下さい。ストップする勇気も大切ですよ』って言ったら『ありがとうございます』って言ってリタイアしたんですけど」
-経験があるだけに説得力がありますね-
「はい。その方も辞めた瞬間に倒れて、すぐに救護のひとが来て運ばれたんですけど、危なかったです。だから、これ大事だなあと思って。それで救急救命士になるには消防士じゃないとならないけど、それに携わることは何かあるんじゃないかと聞いてみたら、AEDを使える救急救命の資格は取れるというので、『よし、取ろう』って」
-資格を取ったことで何か変わりました?-
「たとえばマラソンなどのゲストランナーとしてイベントで呼んでいただいたりして、そのあとにトークショーがあるんですね。そのときに質問コーナーがあったりして、資格を取る前は走ることばかり話していたんですけど、今ではどういうものを食べたり、どういうことをしたら良いのかということなども話せるようになりました」
◆マラソンを始めたのは一番お金がかからなかったから
-30年前にお笑いの世界に入ったときは、今のように仕事としてもマラソンを続けている自分を想像できました?-
「全然です。中学生のころから陸上部で実業団に行って落ちて、アスリートで脱落したので、20年間ぐらい走っていませんでした。『タモリのボキャブラ天国』が終わって仕事がなくなって、グダグダしていたら体重が86kgぐらいまでになっちゃったんですよ。
そんな時、ボキャブラのディレクターさんが、仕事がなくてかわいそうだということで、番組に呼んで下さったんですけど、太りすぎて衣装も合わなくて、そのディレクターさんのアロハシャツを借りて出たんですよ。それで帰ってからその話をしたら嫁さんが『そんなことじゃダメだ! 走れ』って。それからです」
-20年やっていなくても走れるものですか-
「全然走れなかったです。体重もあるし膝も痛いし…。最初は1km走っただけで、『ハーハー』って感じだったんですけど、それがだんだん走れるようになって。40歳を過ぎてから走って、体重を16kgぐらい落としました。それで、ちょうどそのときにオバマさんに似ているっていうのがシンクロして…。本当にマラソンがなかったら、今の僕はなかったと言っても過言ではないです」
-芸人として何をウリにしていくのか、マラソンも奥様のアイデアだったんですね-
「はい。そのときも色々公約があったんですよ。『何ができるか、やりたいことを全部書け』って言われたので、タップダンス、トランペット、ピアノとか色々書いたんですけど、『これはダメ、高い。お金がかかる』って消されて。
その中にマラソンも書いていたんですけど、『マラソンだったらシューズだけあれば良いから、これ二重丸』って(笑)。それでケガをしちゃいけないからって、すぐにすごく良いシューズを買ってくれたんです。あの一足は忘れられないですね」
-大会の前のお食事も栄養のバランスを考えて作って下さっているそうですね-
「総監督です、本当に。レース中も色々サポートしてもらってるんですけど、結構おおざっぱなところもあるんですよ(笑)。水泳4km、自転車180km、最後のランが42.195kmというトライアスロンのレース中はなかなか食事がとれないので、『20km地点で必ず、アミノ酸とゼリーとドリンク、すべて用意しておいてくれ』って言ってたんですよ。
そしたら『わかった。絶対まかせておいて』って言っていたので、何とかフラフラでたどり着いて『アミノ酸ちょうだい』って言ったら『食べた』って言うんですよ。それで『じゃあ、ゼリーは?』って言ったら『ごめん、食べた』って。『えーっ、じゃあドリンクくれる?』って聞いたら『のどが渇いたから全部飲んじゃった』って…。
信じられないでしょう?それで『フリスク(タブレット菓子)ならあるよ』って。仕方がないからフリスクを20錠くらいもらって、最後の20km僕はフリスクですよ(笑)」
-大丈夫でした?-
「何とかエイドステーションにたどり着いて、大会で用意されているものをいただいたんですけど、もうフラフラ状態でした」
-奥様ユニークですね-
「本当に有り得ないですよ。『暑いから食べた』ってどういうことだ?って(笑)。それ僕の大事な大事な補給食なんですから信じられない。でも、そのときにはフラフラだから怒る体力はありませんでした(笑)」
-奥様はかなりきついこともおっしゃっていますけど、愛が感じられて良いですねー
「ありがとうございます。僕の仕事が特殊なので、それがわかってくれてますからね。あまり家にばかりいると怒られます。『外に行きなよ』って」
-今後も奥様と2ショットでのテレビ出演はありそうですか-
「毎回『なるべくひとりで頑張って下さい』と言われています(笑)」
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トライアスロンの大会は年に2回、マラソン大会はゲストランナーも含めて年に5本くらい出場しているというノッチさん。夢は2020年に開催される東京オリンピックのレポーター。何らかの形で携わられれば良いなと目を輝かせる。奥様という最強のサポーターに支えられ、夢の実現に向けて挑戦の日々が続く。(津島令子)