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「七色の声を持つ男」山寺宏一、声優になったきっかけ&原点を語る

日本で最も有名な声優の一人で「七色の声を持つ男」と称される山寺宏一さん。

ハリウッドスターではエディ・マーフィーにジム・キャリー、アニメではドナルド・ダックに『宇宙戦艦ヤマト』デスラー総統、『アンパンマン』では12役以上のキャラクターを演じ分ける“神業”ぶり。声優の枠を超えて司会業から、三谷幸喜作品の常連になるなど俳優としても幅広く活躍されている山寺さんにインタビュー。

◆幼いころからモノマネ好きが声優の世界へ…

-「七色の声を持つ男」と言われてますが、七色どころではない神業ですね-
「いえいえ、全然です。僕はもうそれを特徴にやっていくしかないので。

一色でやれるほどの存在感も演技力もないものですから。何とか工夫して自分の持っているスキルを使って色々やるというのが、僕の唯一の武器ですので、それで何とかやっている次第です」

-まさに天才という感じですが、この世界に入るきっかけは?-
「宮城県の東北学院大学の『落語研究会』に入ったことが、この仕事をするきっかけです。

入る前は落語の『ら』の字も知らなかったんですけど、面白そうだなと思って。ものまねが好きな少年だったので、喋ったり、色々な登場人物を演じるのがちょっと面白いかなと思ったんです」

-ものまねをされるようになったのは、テレビなどを見てですか?-
「そうですね。幼い頃から本当に好きだったですね、ものまねが。ものまね番組が昔はもっとたくさんあったので、プロの方や色々な歌手の方がやっているのを見て、面白いなあと思って。物心ついたらやっていました」

-近所でも評判だったんじゃないですか-
「いえ、そんなことはなかったです。内向的な子どもでしたので、そんなみんなの前でやるということはあまりなかったです。家族とか、ごく親しい友だちの前でしかやっていませんでした」

-お友だちは何て言ってました?-
「自分でもそれが特徴だと気づかなかったんですけど、ある日、クラスの子に『色々な声を出すのが面白い』って言われたんですね。それで『ああ、そうなんだ、自分は』って思って。みんなそれはできるけど、やってないだけだと思っていたんですよね。そしたらみんなはやらないのではなく、やれないらしくて…。『じゃあ、それが僕の特徴なんだ、個性なんだ』って思うようになりました。それが小学校4年生ぐらいでしたね」

-それで、声優さんになろうと思ったのは?-
「小さい頃は声優という職業のことを知りませんでしたから、大学の『落語研究会』で活動している最中です。就職活動するときに、やりたいことがなかったので、まあ落語家は無理だろうけど、声優って何かやれそうだなと思ったんです」

-親御さんは何かおっしゃってました?-
「就職したほうが良いんじゃないかと言ってましたけど、やるならやってみればって。大学卒業までは親のすねをかじっているような人間だったので、『やれるだけやってみろ』と。『一回家を出て修業してこい』ということで背中を押してくれたんです」

※山寺宏一 プロフィール
1961年6月17日生まれ。宮城県塩竃市出身。声優、俳優、ナレーター、司会者、ラジオのDJなど幅広い分野で活躍。エディ・マーフィー、ジム・キャリー、ブラッド・ピットなどハリウッドスターの声も多数担当。人間だけでなく、動物や楽器の音色も変幻自在の声で表現。演技力と声の幅が非常に広いことで知られている。

◆賄い付きのうなぎ屋さんでアルバイト

-上京してからはバイトをしながら俳優養成所に?-
「そうです。うなぎ屋さんでバイトしていました。大学時代は色々やったんですけど、東京に来てからはうなぎ屋さんのバイト以外はしてないですね。声優として食べていけるようになるまでずっとそこでお世話になっていました。

お金がなくなると親に『ちょっと今月まずいんだ』って言ったりとか、バイトの賃金を上げてもらったりして。養成所内の公演があったりしたものですから、やりくりしながら、まあたいした苦労もせずに…。(笑)色々恵まれていましたね」

-人並み外れた才能もあったと思いますが-
「いやいや。バイト先に恵まれたというのが一番大きかったと思いますね。養成所を卒業してすぐに直結している事務所にオーディションで入って、そのまま数年で、生活ができるぐらいまで仕事がいただけるようになりました」

-あの野沢雅子さんも山寺さんのことを最初から「この子はすごい」とおっしゃっていたと聞いています-
「いえいえ、マコさんにはホントにいつも励ましていただいていて、デビュー間もない頃一緒にレギュラーをやらせていただいてから、ずっとお世話になっていましたね」

-声優さんは今、花形職業となっていますが、当時はいかがでした?-
「今とは全然状況が違いますね。世間の扱いも違うでしょうし、僕らがデビューする前にもコンサートをやったり、イベントをやるとたくさんのファンが集まるというスターの先輩はいらっしゃいましたけど、それとはまたちょっと違いますよね。

1980年代に比べて声優の数が何倍とか何十倍とかじゃなくて何百倍もいるんじゃないですかね、多分」

-昔は売れている人と全く仕事がない人に分かれていたのでは?-
「どうなんですかね。昔は声優の数が少なかったですからね。仕事がない人は今のほうがたくさんいると思いますよ。今も昔も、みんな平等ではないですからね、この仕事は。でも、今のほうが格差がすごいんじゃないですかね」

-数がすごいですものね-
「はい、数がもうとんでもない。その分、ネットやゲームなど色々なメディアというか、活躍の場も広がって、そういう意味では仕事も多くなっているのかもしれませんが、それ以上に人が多くなっていますよね。昔はアニメーションも主に子ども向けに作られていて、大人向けのものは数が少なかったんですが、今は最初からそういう作品も多くなりましたけど」

-声優になられてからは仕事がない時期などはなかったのでしょうか-
「おかげさまでね。多少の増減はもちろんありますよ。この仕事ですからね(笑)でも、あまり気にしたことはないですね。『あれ?何か今月休み多くない?』って心配になることはありますけどね。『あれ?大丈夫?』って(笑)」

© Kokoro Film Partners

◆東日本大震災を風化させないために

2008年から宮城県ゆかりのアーティストで作った「みやぎびっきの会」に参加し、チャリティーコンサートを数多く実施。東日本大震災後、「びっきこども基金」を設立し、支援を続けている山寺さん。東日本大震災から6年目の岩手・宮城・福島で、前を向いて生きようとする人々の姿を追ったドキュメンタリー映画『一陽来復 (いちようらいふく)Life Goes On』(3月3日公開)では、藤原紀香さんとともにナレーションを担当している。

-映画『一陽来復 (いちようらいふく)Life Goes On』が公開になります-
「作品を見させていただいて胸を打たれました。東京の生活が長くなりましたけど、宮城県出身ですし、東北人だと思っていますので、このナレーションの仕事はやらせていただけてありがたかったです」

-映画の中でも「風化させてはいけない。なかったことにはしたくない」という地元の方々の言葉がありました-
「そうですね。僕もついこの間まで宮城に実家がありましたし、友だちもたくさんいるのでしょっちゅう行きますが、2年目くらいから『東京の人たちはもう震災のこと何にも思ってないんだべ』って言われたんですね。『テレビでもあまりやらなくなったし、もう大丈夫だと思ってるんだべ』って。『そんなことねえよ』って言っていながらも、僕は向こうで生活してないわけですからね。本当のところはわかるわけがない。

『風化なんてさせるもんか』って言いながらも、だんだん時間が経っていくと、やっぱりずれてきてしまう自分に腹がたったり、友達にそれを言われて恥ずかしかったということがあります。

だから今、この作品が完成して、東北の皆さんが今どう前を向いて生きているかということを見ていただけるということは、非常に大切なことだと思います」

-あれから7年になるのですね-
「あのとき、日本は災害が多いとは言っても、自分が生きているときにこんなことが日本に起きるのか、『このことを絶対に忘れないようにして、できる限りのことをしよう』って、たくさんの人が思ったと思うんですけど…。

自分の反省も含めて、『そうだ、みんなここでずっと生きて、やっと今、一歩踏み出そうとしているし、人それぞれ色々な状況があるんだ』ということを知ることは大事なことだなと思います」

-山寺さんのような方がナレーションを担当されているということで、メディアに取り上げられる機会も増えると思います-
「いえいえ、お役に立てるかどうかわかりませんが、どんどん広がっていけばいいなと思います。絶望に打ちひしがれながらも、一筋の光を見いだし懸命に前を向いて歩く方々の姿に心を打たれます。とにかく見ていただきたい一本です!」

ナレーションは復興支援に自ら動いている人にお願いしたいということで山寺さんに依頼したという尹美亜監督。「ボランティア活動をあまり表に出さず、ライフワークのように取り組んでいらっしゃる寡黙な姿を尊敬していました」と話す。

次回後編では18年半もの間、司会をつとめた『おはスタ』、ハリウッドスターの声を担当しての思い、意外な一面も紹介。(津島令子)

© Kokoro Film Partners

『一陽来復 (いちようらいふく)Life Goes On』
(3月3日・土曜日よりヒューマントラストシネマ有楽町他で公開)
監督:尹美亜 配給:平成プロジェクト

津波で子どもを亡くし支えあって生きる夫婦。語り部となったホテルマン。写真の中で生き続けるパパと、そろばんが大好きな少女。田んぼを耕し続けた農家。被ばくした牛の世話を続ける牛飼い…それぞれの復興の形を映し出すドキュメンタリー映画。