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育成枠から侍ジャパンへ。SB同期・千賀滉大と甲斐拓也、プロ入りへの知られざるドラマ

3月3日(土)、ナゴヤドームにて行われる「野球・侍ジャパンシリーズ2018」の日本×オーストラリア戦。

稲葉ジャパン初となるフル代表が集結するこの一戦だが、1月23日に発表された本シリーズの日本代表第1次メンバー6人に揃って入っていた“バッテリー”が、福岡ソフトバンクホークスの千賀滉大投手と甲斐拓也捕手の育成出身の2人だ。

©テレビ朝日

25歳で同い年、育成ドラフト同期でもあるこの2人。そのプロ入りまでには、それぞれ知られざるドラマがあった。

 

◆甲斐拓也、「心」のルーティン

昨年、育成出身選手として初となるゴールデングラブ賞とベストナインのダブル受賞を果たし、いまや12球団ナンバーワンとも言われる肩を誇る甲斐拓也。

そんな甲斐には、試合中に必ず行うルーティンがある。それは、守備につくたびにベースに「心」の一文字を書くというもの。甲斐拓也の象徴ともなっている、この「心」。そのルーツは、高校時代にまで遡る。

大分県大分市出身の甲斐は、子供の頃から常に3歳上の兄の背中を追ってきた。甲斐が入学した高校は、憧れの兄も通っていた楊志館(ようしかん)高校。「楊志館高校で出会った人たちがいなければ、今の僕はありません」と話す甲斐だが、そんな同校の部室にも「心」という直筆の一文字が飾られている。

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これを書いた人物は、同校で甲斐の2学年先輩だったマネージャー、大﨑耀子(あきこ)さんだ。

甲斐が、「あれだけ野球を愛して、本当に野球のためにやってきた人っていうのを、僕は初めて見ました」と振り返る耀子さん。彼女が甲斐に与えた影響とは。

 

◆大﨑耀子さん、3年生の夏

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野球が、そして楊志館高校の野球部が大好きだった耀子さん。彼女は、高校2年生の夏にガンであることが発覚した。

突然の出来事だったが、そのとき彼女によぎったのは、「病気がショックだったんじゃなくて、3カ月入院するということは夏の大会に出られないということなので、それだけがショックでした」という思い。いかに部を愛していたかが伝わってくる。

そこからの長期の闘病生活、耀子さんは、野球部に戻ることを光に戦い続けた。そして、ガンが発覚してから1年後の3年生の6月、耀子さんは病状が回復しないまま野球部に復帰することを決断する。

「みんなと夏を迎えられることがイチバン嬉しいです」――そうして迎えた念願の夏、大分大会の初戦、耀子さんは公式戦で初めてベンチに入った。そして、当時1年生だった甲斐は、そんな耀子さんの姿を同じベンチの中で見ていた。

甲斐:「あっこさんの姿を見て、今考えたら、自分じゃとてもじゃないですけど無理だなと思う。やっぱ、あっこさんすごいな。本当に強い人だったんだなと」

しかし、結果は初戦敗退。耀子さんはこのとき、「マネージャーずっとやっていて、つらいとかやめたいとか一度も思ったことないくらい、野球部が大好きでした。一緒に2年半、このチームでやれたことが、これからも自分の誇りになると思う」と話した。

その3カ月後、耀子さんは天国へと旅立つ。17歳だった。

楊志館高校に飾られる「心」の一文字。これは、耀子さんがガンを告知された直後に野球部に送った直筆のメッセージだ。それが、いまの甲斐のルーティンにも繋がっている。

甲斐:「(昨季)工藤監督と話をさせてもらう機会があって、『イチバン大事なのは気持ちなんだ』と。ピッチャーを勝たせたい、この試合になんとか勝ちたいという気持ちがイチバン大事なんだと。その時に繋がったのが、高校の時のマネージャーの方。あっこさんのそういう姿も見てきてますし、なんか重なったんです。それが(ルーティンの)始まりですね」

 

◆恩師が切り開いてくれた未来

そしてもうひとり、楊志館高校で甲斐に大きな影響を与えた人物。それは、当時の監督、宮地弘明さんだ。

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甲斐の3年生の夏、その高校野球の結末は、残酷なものだった。

甲斐:「3年間そのために、その大会のためにと言ってもいいぐらいみんなで頑張ってきたんですけど、1試合で終わってしまったっていう感覚と、何のためにしてきたんだろうなという感覚と。これからどうしようかなと、本当に悔しかったですね」

地方大会で初戦敗退。最後の夏に結果を出せなかったことで進路が決まらず、野球を続ける道が真っ暗になった。

甲斐は、宮地さんに涙ながらに思いをぶつける。「これからどうしたら良いんだ」、「俺から野球を取ったらどうなるんだ」と。これを受けて宮地さんは、驚きの行動に出た。全国的に無名だった甲斐を、なんとプロのスカウトに売り込んだのだ。

なぜ、そこまで甲斐の未来を後押ししたのか? 宮地さんには、忘れられない思い出がある。監督人生の中で唯一、甲斐だけに課した「タイヤ引き100周」という猛練習。甲斐はこのとき、不満を漏らすことなく黙々とやりきった。その姿に、宮地さんは心を打たれたという。

宮地さん:「人一倍負けず嫌いですし、人一倍野球が好きですし、そういう想いは伝わってきました。私もなんとかしないといけないなという風に、改めて確認しました」

そして、その思いがプロへの道を開く。ソフトバンクのスカウトが甲斐のプレーを視察し、この年から採用された3軍制度の目玉として、育成ドラフト6位で甲斐を指名したのだ。

甲斐:「自分ではどうすることも出来なかったんですけど、宮地先生の力を借りて、宮地先生の力で僕の道を作ってくれたのかなと。楊志館に行ってないと、僕の今の野球はないと思いますし、その中でも宮地先生に出会ってなければ、今の僕はないと思うので、本当に宮地先生に出会えてよかったなと思います」

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未来を切り開いてくれた恩師。そして、「心」を託してくれた先輩マネージャー。楊志館高校で出会った人たちが、甲斐がプロ入り後、“育成ドラフト”、“最下位指名”、そして“背番号3ケタ「130」”から這い上がる力となっていった

そしていま、侍ジャパン、東京オリンピックの正捕手候補に指名されるほど、そのシンデレラストーリーは輝きを増している。

 

◆監督と出会った初日にピッチャー転向。千賀滉大の運命

そんな甲斐拓也とソフトバンクでバッテリーを組む育成同期の投手、千賀滉大。

代名詞“お化けフォーク”を武器に、昨年のWBCでは日本人唯一のベストナインに選ばれた。しかし彼はもともと、高校で野球をするつもりはなかったという。

千賀の故郷は、みかんの生産地として有名な愛知県の蒲郡(がまごおり)市。母校は、当時第2志望で入学したという蒲郡高校だ。甲子園に一度も出場したことがない同校だが、千賀も甲斐と同じように、「蒲郡高校に進学していなければ、今の僕はありません」と母校への思いを強く口にする。

他の部活に入ろうとすら考えていた千賀の運命を変えた人。それはやはり、監督。蒲郡高校元監督の金子博志さん(現・豊橋商業監督)だ。

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金子さんは、“体験”という形で千賀が野球部のグラウンドに顔を出した日のことをこう振り返る。

金子さん:「キャッチボールで1球2球投げたところで、球筋が違うなと。他のスタッフに話をしながら、この子が入ってくれたらピッチャーで行きたいねって、その段階でスタッフの中で決めてましたね」

瞬時にその才能を見抜き、手離さなかった。しかしこのとき、千賀にピッチャー経験はない。千賀は、やるならば経験のある内野をやりたかったというが、「内野をやっていました。内野をやりたいです」と言う千賀の言葉と同時に、監督からは「ピッチャーだ」の一言。

この、出会った初日でのピッチャー転向の指示から数カ月、千賀は金子監督に導かれるがまま、1年生の秋にはあっという間にチームのエースとなっていたという。

しかし、3年生の夏。エース千賀の蒲郡高校は、愛知大会3回戦敗退。千賀自身、「とにかくやってやろうという気持ちだったんですけど、あっという間に終わったなという形でした」と振り返るが、金子さんが見つけた才能は、高校野球では華を咲かすことはできなかった。

 

◆本人がイチバン驚いたプロ入り

しかしこのとき、千賀本人も知らないところで、思わぬ人物が彼の運命を動かしていた。

3回戦敗退した夏の大会から1カ月が過ぎたころ。名古屋にあるスポーツ店・西正ベースボールショップの店主である西川正二(まさじ)さんが、「億稼ぐピッチャーを見つけた」とプロのスカウトに連絡をする。そのピッチャーこそが、千賀なのだ。

西川正二さんの長男・史時(ふみとき)さんは、当時のことについて、「誰かスカウトの人だと思うんですけど、話している時にそら嬉しそうに興奮しながら、“億稼ぐピッチャーを見つけてきた。これはやっぱりプロに持っていかないかん”って(話してた)」と振り返る。

このとき西川さんが興奮して売り込んでいたのは、当時のソフトバンクの小川スカウト部長(現・2軍監督)だった。小川部長は西川さんに選手を見る確かな目があることがわかっており、この“売り込み”をきっかけに千賀は育成枠でドラフト指名されることとなった。

育成枠ではあったものの、千賀はこのとき全国的に無名なピッチャー。誰より驚いたのが、事情を知らない千賀本人だった。

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千賀:「嬉しさよりも、“えっ”ていう感じが大きかったですね。“本当に?”っていう疑いしかなかったですし、正直高校生のときに野球らしい野球をやれてなかったので」

そして千賀は、自身をソフトバンクに売り込んでくれたスポーツ店主・西川さんの存在は、プロ入り後に知ったという。

千賀:「不思議でしたね、そういう風に見てくれる人がいたことが。本人が言うのもおかしいと思うんですけど、本当に恵まれていると思います。蒲郡という、愛知のなかでも田舎の町からここまでこれたっていうのは、いろんな出会いに恵まれたと思いますし、人の運が良いのかなと思ってます」

こうして、高校入学時には野球部に入るつもりもなかった男が、プロ野球選手になったのだ。そしてプロ入り後、千賀はある“球種”と出会う。それが代名詞“お化けフォーク”。千賀は、育成枠から一気に侍ジャパンまで駆け上がった。

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しかし、その“生みの親”ともいえるスポーツ店主・西川さんは、千賀がドラフト指名された1年後に他界。千賀は、西川さんが最後に発掘した才能だった。長男・史時さんは話す。

史時さん:「(千賀が)入団された時は喜んでましたね。いま生きてるんであれば、“俺の言ったとおりだろう”と笑いながら、自慢しながら喋っているんだろうなというのは思いますね」

千賀は毎年1月1日、故郷・蒲郡にある神社を走る。高校1年生から現在に至るまで続けていることだ。

どれだけ登りつめても、年のはじめにスタート地点として戻る原点、蒲郡。千賀のグラブには、そんな故郷・蒲郡市の市章と市の形が編みこまれている。

※試合情報:「野球・侍ジャパンシリーズ2018」日本×オーストラリア
3月3日(土)よる6時56分~ テレビ朝日系列地上波にて生中継
(9時54分以降、試合が続いている場合は、引き続きBS朝日で試合終了まで放送)

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