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優木まおみが救世主!生島ヒロシ、バブル崩壊で背負った借金8億円を完済

TBSの人気アナウンサーとして活躍し、フリーに転身後は、ラジオ、テレビ、イベント、講演会等、幅広い分野で活躍中の生島ヒロシさん。ファイナンシャルプランナーをはじめ、数々の資格を取得し、浅野温子さん、優木まおみさん、中村里砂さん、朝比奈彩さんなど多くの人気タレントを抱える芸能プロダクションの会長…さまざまな顔を持つ生島さんだが、実は“芸能界喧嘩最強伝説”のひとりだった…。

(アメリカ時代)

◆生島ヒロシ(67)、“気仙沼のプリンス”の仰天アメリカ生活

小学校に入学したときに写真館で撮ってもらった写真がきっかけで、地元では“気仙沼のプリンス”と言われていた生島さん。高校卒業後、法政大学経営学部に入学するが、20歳のときに大学紛争を機に、突然、単身渡米を決意する。

-アメリカに行くことにされた理由は?-
「松方弘樹さんの弟の目黒祐樹さんの留学体験談と、ある大学の先生が、留学で飛行機のなかで億万長者に会って、その人の家にずっと住み込んで大学を卒業したという本を読んで、海外留学を決意したの。

僕にもそういうことが起きるだろう。人にも起きることは自分にも起きると勝手に思っていて。その頃、色々と悩んでいたからね、学生運動のこともあって…。それでパパっと『よし、行く』って決めたんだけど、あの決断はやっぱりすごかった」

-渡航費などはどうされたのですか-
「お金はあまりなかったんですけど、とにかく色々アルバイトをして。

もともと大学に入ったとき、僕は仕送りがないから、バイトをしていて、3年生になったときには、もう授業に行かなくて毎日バイトしていたんですよね。それで、30万か40万貯めて。あの頃飛行機代が高くて、ハワイの往復で20万くらいかかっちゃったんですよね。

一応、往復は買っておいたんですけど、着いたらすぐに売っちゃったから、実質はいわゆる片道切符みたいな感じで、所持金が残り10万ぐらいだったのかな。

当時1ドルが360円の頃だったので、結構カツカツで行って、向こうで何か仕事をしながらやろうとは思っていたので。今考えるとムチャクチャだよね。(笑)」

-あの時代にというのはかなり勇気がいりますね-
「そうですね。まあ若さゆえというか…。でも、あの決断がないと、今の僕はないから。そういう点では人生というのは、勝負をかけるときにはかけなきゃいけないなと思っていて。それは後々、TBSを辞めて独立するということにも繋がってくるしね」

-最初に行ったのがハワイ-
「そう。働きながら何とかなると思っていたんだけど、言葉は喋れないし、ビザもないから働くこともできない。そしたらたまたま知り合った人が、『サンフランシスコに行こう。向こうにはアダルトスクールという無料の学校があるし、学生ビザがあるとバイトもできるから』って教えてくれたの。

親切な人だなと思って一緒に行ったんだけど、ホテルの部屋に入った途端、その人がいきなり怒り出しちゃってね。飛行機で隣の席にいた男性と話をしたのが気に入らなかったみたいで、『何であんな男と話をするんだ』って。

それでしばらくして旅の疲れで寝ちゃったからカバンのなかをちょっと見てみたら“白い粉”がいっぱい入っていてビックリ。『これはやばい』と思って、ソーッと自分の荷物を持って逃げ出しましたよ。フロントで宿代の半分だけ払って」

-危機一髪の状態でもちゃんと半分払ったんですか?-
「うちはおばあちゃんの教えが『立つ鳥跡を濁さず』だったからね(笑)」

-それにしても危なかったですね-
「20歳そこそこだったからゲイの人たちのことも何もわからなかったしね。

ほかにも『家に遊びにおいで』と言われたから、『親切な人がいるもんだなあ』と思って行ったら、いきなり抱きついてこられちゃってね。2mくらい身長がある大きな人で、慌てて逃げ出したということもありましたね。常に間一髪(笑)」

※生島ヒロシ プロフィール
1950年12月24日生まれ。宮城県気仙沼市出身。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科卒業。TBSアナウンサー16期生。テレビ、ラジオ、講演、イベント等、幅広く活動。東北福祉大学客員教授。ファイナンシャルプランナー、防災士資格をはじめ、多くの資格を取得している。

◆「アイ・アム・ブラックベルト」でモテモテ

イチゴ農園、皿洗い、ディズニーランドホテル…さまざまなアルバイトに挑戦した生島さんだったが、英語もまだあまり喋ることができず失敗の連続。しかし、高校時代からやっていた空手がきっかけで周囲の見る目に変化が。

アルバイトで空手ショーに出演することになり、まだ下積み時代だったショー・コスギと共演。黒帯の空手着姿で「アイ・アム・ブラックベルト」と言うだけでモテモテだったという。

-黒帯の効果はかなりありました?-
「すごかったですよ。モテモテ。『オー、ブラックベルト』ってね。空手着を着て、黒帯を締めてるだけで女の子が近づいて来てましたからね(笑)」

-学校には通っていたんですか-
「渡米して1年間はとにかくバイトしてお金を貯めて、短大に入ったんだけど、途中で4年制の大学に転入したんですよ。ただ、学費が高くてね。空手を教えたり、ショーに出ているだけではお金にならない。

それで芝刈り会社『ヒロ生島ガーデニングカンパニー』を設立して庭師の仕事を始めたんだけど、芝刈りが下手すぎちゃってね。(笑)どんどんお客さんがいなくなっちゃって、すぐに倒産の危機」

-大変じゃないですか-
「どうしようかって真っ青でしたね。何とか4、5ヶ月後には芝刈りの技術もついて持ち直しましたけど」

-それで生活が安定して大学生活も続けられたわけですか-
「そうです。アメリカは語学が下手な人をケアするシステムがちゃんとしているから、語学力もついていくしね」

-アナウンサーになろうと思ったのはいつ頃からですか-
「アメリカにいたとき、ラジオのニュースが24時間やっていて、めちゃめちゃ面白かったんですよ。それで、自分も日本に帰ったら、ニュースを伝えるキャスターになりたいと思うようになったの。

僕ね、アメリカのクイズ番組でMCデビューもしたんですよ。日系チャンネルで日本語の放送だったんだけど、日系社会のアイドルになっちゃいましたよ(笑)」

(TBS時代)

◆生島ヒロシ、TBS入社試験で暴言連発!?

キャスターの面白さを知った生島さんは、1975年、24歳で帰国。TBSの入社試験を受けることに。新卒という規定資格外だったが、経歴が面白いということで特別に受験できることになったという。

-入社試験はいかがでした?-
「僕以外はみんなスーツ姿だったんだけど、ネクタイの締め方がわからなかったから、僕だけパンタロンに厚底ブーツでね、アメリカ生活で性格が変わってイケイケになっているから言いたい放題。『TBSの生島で終わりたくない』『日本の終身雇用制度は長くは続かない』『ニュース番組をもっと長くやったら視聴率が取れる』なんてね(笑)」

-そんなことを言ったんですか?-
「そう。信じられないよね。まだ合格したわけでもないのに(笑)」

-局サイドも思い切った決断でしたよね-
「一応、3人はキープしていたので、僕はおまけ入社で4人目。これはもうどうなっても良いというところもあったんじゃないかしらね(笑)」

-おまけで入れたはずの人が一番人気者になったわけですか-
「よくあるじゃないですか。うちの優木まおみちゃんなんかもそうだけど、アナウンサー試験に最後まで残って落とされて、結局フリーになって最初は苦労したけど、活躍しているというか。だからちょっとはずれているというか、多少危険なかおりがあるほうが、フリーになったときはかえって有利なのかもしれないですよね」

-最初から、TBSを辞めることは決めてました?-
「決めてましたけど、やっぱり、居心地が良いじゃないですか。あの当時はアルバイトは入ってくるわ、周りはTBSのアナウンサーだということでチヤホヤするし…。

だけど、10年くらいやったときに『このままで良いのかな?』というのが、より強くなってきたので、これは有言実行しなきゃいけないなと。

そう思ってアンテナをたてていると、有名な放送作家の人が近づいてきて、フジテレビで朝の時間帯の番組を作るからやらないかと言われて『ええ、本当ですか?』って感じで。フジテレビの編成と課長、部長、局長、全部OKを取ったから、やりましょうと言われてからも、正直、ずいぶん悩みましたけどね。まあ、何となくマンネリを感じていたし、平成元年でちょうどキリも良かったので『ヨシ!』と(笑)」

-実際、フリーになっていかがでした?-
「やっぱり面白かったけど、その分大変なこともいっぱい。フリーになって順風満帆だったから、もう色んな番組が来て一気に増えちゃって、マスコミにも狙われたし、叩かれたし…。色々と大変だったけど、いくしかないからね」

◆年収が30倍になるも借金が8億円!

入社13年目の1989年、生島さんはTBSを退社。フリーとなり、事務所(生島企画室)を立ち上げる。年収は大幅にアップするが…。

-収入は大きく変わったでしょうね-
「TBS時代の年収1200万がフリーになって1億2000万に。2年目には2億4000万。3年目に3億6000万。それからだいたい安定するんですけど、ひとりだけでそれだけ稼げるんだと思いましたね」

-フリーになった最初の年にいきなり10倍、ビックリしませんでした?-
「全然計算してないんだけど、でも税金のことを考えてなかったので、税金を払うために借金をするんですよね。

それで、弟も税理士資格をかじっていたにも関わらず、全然考えてなくて、銀行に行って…。

だから、僕は長嶋一茂君には感謝されてるんだけど、自分の体験から『野球選手を辞めてタレントになったら収入が増えるだろうけど、例えば1億円入ってきたら5千万円は、税金に取られるようなイメージでいたほうが良い。

それを考えた上で、残り5千万でやりくりを考えるというのが良いんだよ』って言ったら、それは、すごい助かったっていまだに言われますよ。いくら稼いだって、半分は税金だと思ってますから」

-収入も多くなったけど、出ていくお金も多かったでしょうね-
「バブルに踊った世代ですからね。絶好調でガンガンいけると思っていた。借金をすればお金が増えて戻ってくると言われ、世田谷に4億円の自宅、恵比寿に2億円のマンション(事務所)、そのほかワンルームマンションを7、8個持っていたかな。借金が約8億円あったんですよね」

-金額が大きすぎて想像つかないです-
「忙しくて、お金がいくら入ってきたなんて全く考えてないし、そのときは不動産はどんどん値上がりすると思っていたからね。

実際、それまでは2500万円で買ったマンションが7500万円に、5000万円で買ったのが1億5000万円くらいで売れていたから、『良いんじゃない』って、ろくに見ないで、どんどん買っていた。色んな人がいるわけですよ。今稼いでると思ったら寄って来て、おいしいように言われて。そしてバブルが崩壊。

投資のはずが、買ったマンションの値段がどんどん下がっちゃって、気が付いたら会社のなかのお金も結構ザルみたいな状態になっていて…。毎月の支払いが何百万だから、入って来るけど右から左に出ていくという感じで、余裕が全くない状態。もうどうしようという感じでしたね」

-どのようにして乗り切ったんですか-
「僕も一生懸命働きましたけど、救世主は優木まおみちゃん。事務所のオーディションで集まった200人のなかにアナウンサー志望の彼女がいたんですよ。一番光っていたからグラビアもこなすマルチタレントとして出したら、『エロかしこい』で大ブレイク。ビックリしました(笑)」

-すごいですね。8億円あったという借金は?-
「完済しました。一生懸命やっていれば、良いことがあるだろうということで。あと、やっぱり弟がそばにいてくれたことがすごく助かりましたね。途中、ちょっと変なマネジャーが何人か来てしまって、僕の知らないところで、トラブルが起きたり、色んなことがあったけど、それは授業料ですね、仕方ないです」

生島さんは長男で、事務所は次男の隆さんが社長をつとめ、生島さんの長男の勇輝さん(ケイダッシュ所属)と次男の翔さんも俳優として活動。「最高に良い夢を見るのも良いけど、最悪どうするのか。良い面と悪い面、両方を考えておかないとダメだといつも話している」と父親としての顔ものぞかせる。次回後編では“芸能界喧嘩最強伝説”の真相、プライベートも紹介。(津島令子)

※パフォーマンスグル-プGRINDER-MAN(グラインダーマン)の新作パフォーマンス公演「シー・ソー」(生島翔 出演)
2月9日(金)~2月11日(日)シアタートラム