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小学生なのに過労で緊急搬送…フィンガー5・晃「あと1歩で死にそうだった」

沖縄が返還された1972年、「フィンガー5」として再デビューした5人。グループ名は、アメリカで大ヒットを飛ばしていた「ジャクソン5」を意識したもの。1973年「個人授業」が大ヒットを記録。一躍トップスターの仲間入りを果たした。晃さんのトレードマークである大きなサングラスも大流行。ハイトーンボイスのパワフルな歌い方、息の合ったダンスなど、画期的な音楽スタイルで日本中を魅了した。

◆女性タレントの楽屋に出入り自由、着替えも…

-ものすごい人気でしたが、売れているという意識はありました?-
「全くなかったね。ちょっと人より歌がうまいから仕事をしているという感じ」

-テレビや雑誌の表紙などにも引っ張りだこだったと思いますが-
「自分の番組を見たことないし、今もほとんど見ない。何でかと言ったら、撮った時点でもう終わっているから。撮る時点で完璧にある程度仕込んできてない限りは、見ていくら反省しても無駄。うちの親父がそういう教えだったのよ。『お前たちはたまたま歌がうまくて仕事をしてるけど、根っこは普通の人間なんだよ。ステージをおりたらただのクソガキなんだからね』ってしか親父は言ってないし、ほめられたことが一回もない、うちの親父に。見ないし、聴かないし。子どもたちの世話になるのが大嫌いだったからね」

-売れたら舞い上がったりする人もいますが、全くそんなことはなかったんですね-
「親父が空手の先生で、返還前に琉球政府の警察官に教えていた人なのよ。だからもう格闘家。芸能界なんて小馬鹿にしまくっているわけ。たまたま子どもたちが好きなものが音楽で、本当は許せないけど、多数決だということで、黙って子どもたちの成長を見守っていたの。だから、売れようが何しようが全く興味がない。売れているときに『早く沖縄に帰ろう』って言っていたし、変わってるよね。もうちょっとしっかりしてくれていたら、僕もお金持ちだったかなって(笑)」

-でも、お兄さまがしっかりしてらしたようですし-
「兄貴は自分が使うために管理していただけだから。僕、自分の通帳を見たけど、自分のために使ったことは一回もないの。すごい洋服を買ったとか、すごいものを買ったとかないし、形のある物はひとつも残ってない。自分のお財布なんて持ったことがないんだから。持つ必要がない。使う暇がないんだから。ただただ忙しかった」

-その当時、子どもらしい楽しみはありました?-
「アイドルのお尻を触るぐらいかな(笑)シャレだよ、ちょっとね」

-歌っている曲と同じように、実際もちょっとおませな小学生だったんですね-
「そのまんまだったね。(笑)でも、そのおかげでみんなすごい仲良しだった。僕のことは無警戒だもん。まあ、頭だけは大人だったね。知識はいっぱいでね。だって、僕は女性の楽屋、出入り自由。みんな僕の目の前で着替えるんだもん。ラッキーだよ(笑)」

◆小学生の晃の過労救急搬送は国会でも問題に

-ヒット曲を連発して何年か超多忙な毎日が続くわけですが、その間も自分たちがやりたい音楽とは違うという意識はあったんですか-
「途中からね。アメリカに行ったあたり(75年~76年)からレコード会社を移籍したんだけど、洋楽を全く知らないような人が、プロデューサーになっちゃったもんだから、最悪。その辺からもうやめようかなって思っていたね。日本人は何で成長しないんだろうって思って。ソウルのソの字も知らないんだもん」

-人気絶頂のときにアメリカに長期間行くというのは驚きでした-
「逃げたのよ。からだが持たなかったから。何回も過労で倒れて救急車で運ばれているしね。あのまま日本にいたら、僕は確実に死んでいたと思う。もう命の極限で、あと1歩で死にそうだった。小学生が過労で死にたくないよね」

-救急搬送されたことは、テレビや新聞でも取り上げられましたね-
「国会でまで取り上げられたんだよ。それで僕は、NHKの紅白に出てないんだから。本当は出る予定だったのよ。ところが、国会である政治家が『晃が過労で倒れた。あんな仕事なんかさせるんじゃない。児童福祉法違反、どうなってるんだ』なんて騒ぎ始めちゃったものだから、紅白に出られなくなっちゃったんだよね」

-それにしても、小学生が過労というのは異常事態ですね-
「救急車で運ばれたのは4回だけど、楽屋で倒れたり、そんなのはしょっちゅうだった。ガリガリに痩せて体重が30何キロしかないんだよ。食べるものも食べてないから。食べている時間がないの。食べたってカップラーメンだからね。すぐ次の仕事が待ってるんだもん。あんな過酷な仕事はないよ」

-倒れても状況は改善されなかったんですか?-
「医者はマネジャーに『この子死んじゃうよ。あんた何やってるの?』って怒っていたけどね。大人は汚いよ。倒れて点滴を打たれているのに、マネジャーは『晃、点滴をしたからもう大丈夫。すごいだろう?元気になるからね。さあ、仕事に行こう』って。倒れているのに連れて行くんだよ。もう本当に死にそうだった」

-ひどい話ですね-
「鬼だよ。おかしいでしょう?どこかでお金を稼いでいるやつがいるんだよ。僕だって大人になると、本当のことを全部言っちゃうからね(笑)」

-お金やスケジュールのことはお兄さんが管理されていたのでは?-
「兄貴もよくだまされていたからね。マネジャーにお金を持ち逃げされたりしてね。何か意味不明なところでお金がなくなってるんだよね、うちは。あぶく銭だから」

-入ってくるお金が多くても出ていくお金も多かったんでしょうね-
「だって、お金があるところにみんな寄ってくるからさ。うちは田舎者だからさ、おだてられると、みんなくっついて行っちゃうんだよね。変なものに投資したりとかね。

本当に儲からないよ。商売なんてやっちゃダメ」

◆「フィンガー5」人気絶頂時にアメリカへ

-アメリカでの生活はどうでした?-
「面白かったね。すごい面白かった。自分はちっちゃいなあと思ったね。外国の人はすごいと思ったよ。要するに音楽的なことなんだけど、黒人さんは歩いているときから、もうリズムを取ってるんだよね。8ビートで歩いているんだから、日本人がソウル頑張ったってものまねしかできないと思った。本当に原点を追求していかないと、負けちゃうと思ったもん。だから、日本人がソウルをやったら、こうなるんだというのをやったほうが良いと思った。それまでは単純に目指せば良かったんだけど、そうじゃなくて、日本人としてソウルをやれたら、僕がやったらこうなるんだという方向にしないと、太刀打ちできないと思った」

-ご兄弟のなかでは将来の方向性については話されていたんですか-
「そこに関しては兄弟みんな一致してるから、『違うよね』って。自分たちがやりたかったこととは別になってるから、何とか修正しようと努力はしたんだけどね」

-大衆のニーズもありますしね。求められていたイメージが-
「多分ね。先を行き過ぎちゃったんだよね。あまりにも先をやり過ぎちゃったものだから、付いてこられない。今はソウルなんて普通になったけど、僕がやっていたときなんて、ソウルのことは誰も知らなかったもん」

-それまでの日本の音楽シーンになかったから新鮮で衝撃的でしたね-
「育ちがね。たまたま沖縄で生まれたということが一番じゃないかな。日本で生まれたら無理だと思うよ。お金もドルだったし、音楽も食べ物も沖縄は完璧にアメリカだったからね」

-それで自分たちの求める音楽をということに?-
「やってたんだけど、やり過ぎて売れなくなっちゃった。あとね、日本というのは、心変わりが早すぎる。半年間アメリカに行っていたら、もう俺たちの時代じゃなくなってたよ」

◆声変わりを遅らせるために女性ホルモンを投与?

-デビュー後、少しして変声期ですか?-
「そう。喉の調子が悪いから、渋谷にある耳鼻咽喉科に通っていたんだけど、マネジャーが『何とかなりませんか?成長を抑えることができませんか?』って言ってたの。そしたらホルモン剤を打つしかないという話になって、僕が嫌だって言ったの。だって、女性ホルモンを打つからのどちんこが出なくなる、毛が生えなくなる、男の大事なところが小さくなる、乳首が出て女っぽくなっちゃうって言うからさ」

-そんなに恐ろしいことがあったんですか-
「マネジャーがうまいこと言うんだよね。『晃、良い歌を歌いたいだろう?今声の調子が悪いけど、この注射を打つと結構良い歌が歌えるんだ』なんて言うんだよ。大人って汚いから(笑)」

-ひどいですね。未成年だから親の承諾も必要なはずですが-
「いや、あれはそういう感じじゃなかった。だって親は知らなかったもん」

-それじゃあ晃さんが嫌だと言ってなかったら、ご両親も知らないまま打たれていたかもしれないということですか-
「打たれていた可能性が高いと思う。そういう状況だったから。鬼だよね」

◆音楽活動休止、営業マンになるもどん底生活に…

しばらくして音楽活動を一時休止。晃さんは、正男さんの経営する喫茶店を手伝った後、電気屋に就職。飛び込みの営業マンになるも、前年まで歌手として活躍していただけに、自分が置かれている状況を受け入れられず、精神的に疲れ果ててノイローゼ状態に。当然のごとく売り上げはなく、給料も出なくなり、ガスや水道も止められるという事態になってしまう。

-そこからどうやって脱したんですか-
「僕は何か救われてるんだよね。人生の岐路で誰か助けてくれるの。お金がなくてまともに食べられず死にかけていたとき、一緒につとめていた沖縄の人が新婚だというのに、『死相が出ているから、うちに来い』って言って、3日間泊めてくれて腹いっぱい食べさせてくれたんだよね。それで、『お前は自分がアイドルだと思っているから、プライドが邪魔しているんだろう?もう死にかけてるんだから全部捨てちゃえ。それを逆転の発想で営業に使え』って」

-知名度を利用してということですか-
「そう。『みんなお前のことを同情して家に入れてくれるよ。そこからお前の営業が始まる。みんなお前のことを聞いてくるよ。だって、去年まで歌手をやっていた人が、今何をやっているの?って。そしたら正直に思うところを話せば良いんだよ。そうすれば、黙ってテレビが売れるから』って。それでその通りにやってみたらバカ売れするのよ、テレビが。トップセールスマンになって店長候補になっちゃった」

-すごいですね-
「毎日『玉元君いる?』って会社に電話がかかってくるわけ。俺もう人気者になっちゃってさ。売れまくるわけだから。大変よ。もうスケジュール、どうしようかなと思ってさ。あそこも売らなくちゃいけない、こっちも売らなくちゃという感じでね。だから、いろんなときに助けてくれる人が現れる。それがなかったら、もう今頃は死んでるね」

トップ営業マンとして次期店長候補にまでなった晃さんだが、半年後、兄・正男さんが喫茶店の2号店を出すことになり、頼み込まれて手伝うことになる。結局、ほかの人にやってもらうことになり、晃さんは不動産の営業マンも経験した後、音楽活動を再開。

◆登山で滑落、危機一髪

-色々グループ名も変えて活動されて、今現在もミュージシャンとしてご活躍されていますが、今振り返るといかがですか?-
「ちょっと早かったね。スピードが。もっとゆっくりやれば良かった。落ち着きがないから変化を早くしようとするんだね。世の中を見てないから。もっと読まなきゃダメだよね、全体を」

-アイドルグループのプロデュースもされてますね-
「やる側もちょっとのぞいてみたかったし、少しでも刺激になれば、僕のためでもあるし。人を育てるということは、自分も育つことになるから。自分がいかに甘やかされて育ったかとか、人に対してきついことを言ってきたんだなってことがわかるわけよ、人を育てたときに。自分はガキの頃、さんざん暴言吐きまくっていたもんなあって思ってさ。(笑)くそ生意気だったなあって」

-これからはどのように?-
「今やっている音楽をまともな形に集約して、集大成でやれたら良いなあと思う。

色々と構想を練ってその方向に向かっているところ。大人の歌を歌わないとね。ちゃんと抑揚もあって、メロディーもちゃんと作って単純明快なやつを」

-今、一番の楽しみは?-
「登山。せっかちだからあちこち登っちゃう。きっかけは靴。仕事用の靴を買いに行ったら、カッコ良い登山靴が『買ってくれ』って言うんだよね。(笑)それで一回登山でも行ってみるかって」

-それで本格的な登山ですか-
「そう。最初に行ったのが御嶽山だったんだけど、ロープウェイを知らずに下から登っちゃって、挫折するのが嫌いだから一応行ったのよ。だけど、自分はこんなに体力がないんだって思ってブチ切れたの、自分に。それでトレーニングも始めた」

-やると決めたら徹底していますね-
「器用じゃないんだよ。だから、始めて1年半しか経ってないけど、ひとりで奥多摩全部登った。秩父も行ったし、八ヶ岳、槍ヶ岳、赤岳もね」

-ひとりで登山は不安じゃないですか-
「多分人間はね、決まってるんだと思うよ。死ぬ人はいつか死ぬし、生きる人はどんなことがあっても生きるんだよ。去年僕は、30mくらい滑落したんだけど、木に引っ掛かって助かったの。やばかったよ。死にたくないもん、山でなんて。どうせ死ぬならステージの上でマイクを握って死にたい」

音楽に対する熱い思いが伝わる。ソロ活動のほかに、江木俊夫さん、あいざき進也さん、高道(狩人)さんと「s4」を結成。さらに、あべ静江さん、伊藤咲子さんをはじめ70年代に一世を風靡(ふうび)したアイドルが集結する「同窓会コンサート」など、幅広く音楽活動を展開。パワフルな歌声に魅了される。(津島令子)

※晃バンドライブ情報
1月21日(日)ルート66(川崎・新百合ヶ丘)
2月25日(日)ショックオン川口(埼玉・川口)他

※「同窓会コンサート」
2月9日(金)いわき芸術文化交流館アリオス(福島)
2月10日(土)南相馬市民文化会館(福島)他

※「夢 歌謡祭出演日程」
1月23日(火)神奈川県立青少年センター(神奈川)
2月1日(木)相模原南市民ホール(神奈川) 他

その他詳しくは…晃さんのブログをご覧ください。

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