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俳優・山西惇、会社員と二足の草鞋だった劇団時代。先輩・生瀬勝久の言葉で退職を決意「食うくらいならなんとかなるで!」

ドラマ『相棒』シリーズ(テレビ朝日)で特命係の部屋にパンダのカップを持って「暇か?」とやって来る角田六郎課長役でおなじみの山西惇(やまにし・あつし)さん。

『Dr.コトー診療所』(フジテレビ系)、映画『サラリーマンNEO 劇場版(笑)』(吉田照幸監督)、映画『イニシエーション・ラブ』(堤幸彦監督)などに出演。京都大学卒業の“インテリ俳優”としても知られ、『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』(テレビ朝日系)などクイズ番組にも多数出演。

2024年、『エンジェルス・イン・アメリカ』、『闇に咲く花』で第31回読売演劇大賞最優秀男優賞、第74回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。8月3日(土)と4日(日)、ナイロン100℃ 49th SESSION『江戸時代の思い出』(作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)に出演。9月13日(金)には映画『シサム』(中尾浩之監督)が公開される山西惇さんにインタビュー。

 

◆高校の文化祭でピンク・レディーに

京都で生まれ育った山西さんは、小さいときはテレビが大好きなテレビっ子だったという。

「『仮面ライダー』とか『ザ・ドリフターズ』が好きでよく見ていて、いろんなことを想像して楽しむのが好きな子どもだったような気がします」

――小さい頃、将来は何になりたいと思っていたのですか?

「とくには考えてはなかったですね。自分の周りは親戚の人たちもみんな会社員の人が多かったから、わりと普通にそうなるんだろうなっていう風に思っていたような気がします」

――お勉強は元々得意だったのですか?

「小学校が私立の女子高の付属だったので、小学校だけ共学で中学からは女子校になっちゃう学校だったんです。だから、受験するか、地元の中学に行くかなんですけど、家の周りには友だちが全然いなかったので、なんとなく受験するっていう手もあるのかなっていうのを4年生ぐらいから思いはじめてですね。勉強しはじめたら何か楽しくて(笑)。多分生涯で小学4年生ぐらいから6年生にかけてが、一番勉強したと思います。

今でもそうなんですけど、前の日にわからなかったことが次の日にわかるとか、スポーツと同じ感覚で、今日から急にこれできるようになったみたいなことが楽しかったんですよね」

――高校時代はバンド活動もされていたとか。

「中学に入って深夜ラジオを聞くようになって、それでだんだんと音楽が好きになって…という感じですね。僕は、楽器は全然できないんです(笑)。小さい頃はちょっとオルガンを習ったりしたんですけど、結局あまり身につかなくて。ギターも練習してみたけど、あんまりできなかったから、結局バンドではボーカルをやっていたんです。

だから、楽器ができる人に対するコンプレックスというのは、今もすごくあります。うちの妻は保育士さんだからピアノが弾けるので、今教えてもらってちょっと練習しているんですよ。

『怪物』(是枝裕和監督)という映画で使われていた坂本龍一さんの『Aqua』という曲がめちゃくちゃいいので何とか弾けるようになりたいと思って。たまたまうちに妻が保育士試験のために買ったキーボードがあるので、妻に教えてもらってちょっとずつ練習しているんです」

――男の人でキーボードが弾けるってカッコいいですよね。マスターしてぜひバラエティ番組などで演奏してほしいです。

「それはどうでしょうかね(笑)。弾けるようになるといいんですけど。そんなに難しくないかなと思ったんですけど、途中からすごく難しくなるんですよ。一応楽譜を取り寄せてやっています」

――お芝居との出会いは?

「高校の文化祭で、展示と仮装と演劇のうちの何か一つやらなきゃいけなかったんですね。仮装は、昔は仮装行列をしていたらしいんですけど、僕が入った頃はコント。グループになってコントを自分たちで考えてやる。それを年に一回の楽しみにして、友だちとああだこうだ言いながらコントを作って発表したというのが原点と言えば原点かもしれない。

うちの学校の伝統で、ウケないことをやると客席中で『シーッ!』って言うんですよ。客席中で(笑)。中1のときからずっとやっていたんですけど、中1のときなんかはもう『シーッ!』の連続でした」

――それはショックですよね。

「でも、まだ何もわかってないから、テレビで見た受け売りのことを真似してやっているだけみたいな感じだったので、そりゃあつまらないですよね。それが徐々に徐々に何か鍛えられて(笑)。

中1からはじめて2年になって、ちょっとずつ先輩方を見ていたら『おもしろいこと考えるなあ』という人もいっぱいいたので、見よう見まねでやるようになって。現実にあったことをモチーフにしてコントをやったりして。男子校でしたから、とりあえず女装をするとウケる部分があってですね(笑)。なので、芸能界の裏話みたいな設定にしてやったりしていました」

――山西さんは何をされたのですか?

「僕は友だちとピンク・レディーをやりました。それはちょっとウケましたけど、先生方にはとても評判が悪くて(笑)。『勝手に好きなことばかりやりやがるから、事前に台本出せ』って言われて、先生に提出する用の台本は別に作って本番はまったく違うことをやったりしていたので、また怒られて(笑)」

※山西惇(やまにし・あつし)プロフィル
1962年12月12日生まれ。京都府出身。京都大学工学部在学中に劇団そとばこまちに所属。京大卒業後、就職2年目に再び劇団そとばこまちに参加。1992年、退社して芝居に専念することに。2001年に退団後、映像、舞台で活躍。『相棒』、連続テレビ小説『まんぷく』(NHK)、『99.9-刑事専門弁護士-完全新作SP 新たな出会い篇』(TBS系)、映画『Dr.コトー診療所』(中江功監督)、舞台・こまつ座『日本人のへそ』などに出演。第31回読売演劇大賞最優秀男優賞、第74回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。ナイロン100℃ 49th SESSION『江戸時代の思い出』の兵庫公演が2024年8月3日(土)と4日(日)、北九州公演が8月10日(土)と11日(日)に行われる。9月13日(金)に映画『シサム』が公開。11月にはリーディングアクト『一富士茄子牛焦げルギー』に出演する。

 

◆劇団そとばこまちの舞台に衝撃

1981年、山西さんは現役で京都大学工学部石油化学科に入学する。

「僕が小学3、4年のとき、父親が脱サラして自分で建築事務所を作ったんです。それがいい仕事だなと思って建築学科を受けたんですけど見事に落ちてしまって、第二志望の石油化学科というところに引っかかって。

浪人してもう一回受験しても京大に合格するなんて、もう二度とないことだろうなと思ったからなんとなく入ったんですけど、そこでちょっと目標を見失ったっていうか。『建築家にもなれないし、俺はどうするんだ?』って。

それで、音楽も好きだし、映画も好きだし、お芝居も好きだから、何か色々見て回ろうかなと思って、大学に入ってすぐに劇団そとばこまちの芝居を見たときに、『自分が文化祭でやっていたようなことをこんなにレベル高くやっている人たちいるんだ』と思ってすごい衝撃を受けて入りました」

――ちょうど学生演劇ブームで注目されていた時代ですね。

「そうです。僕が入ったときの座長さんは辰巳琢郎さんで、そのときはまだ学生だったんですけど、阪急ファイブの小劇場『オレンジルーム』で上演していたんですよ。それで、大学の自治会から『何かお前たちはちょっと商業に傾いているんじゃないか?もうサークルとして認められないよ』みたいな感じで(大学から)追い出されかけているときでした。

だから、僕がそとばこまちに入って最初にやったのは不動産屋さんに電話して稽古場探し。大学を追い出されるので、自分たちで稽古場を探してくれっていうのが、僕たち新人に与えられた仕事でした。それで、維持費は劇団員から会費をいくら集めるとこの金額になって…って計算するんです」

――稽古場をちゃんと外で構えて…となると学生演劇の枠を完全に超えていますね。

「そうですね。辰巳さんのその頃のあだ名が“社長”でしたからね(笑)。そういうことにすごく長けていて、阪急のところに行って舞台をやったりというのも全部計算されてやっていました」

――辰巳さんは4年くらい先輩になるのですか?

「そうです。僕が1回生のとき、5回生でした。それで生瀬(勝久)さんが2歳上で、本当に巡り合わせだなと思います」

――一度留年されたと聞きました。

「そうです。大学ではほとんど劇団だけで、活動は夜中まであるし、ほぼ稽古場に通っていました。それでも結構頑張って授業にも出ていたんですけど、石油化学科の必修科目は朝早くからなんですよ。それで、一個だけ落としてしまって2回生から3回生になれなかったんです」

――お芝居をされることについてご家族はどのように?

「これは後から聞いた話なんですけど、実はオヤジも学生の頃に演劇をやっていて母と出会ったって。なので、僕が大学に入って劇団に入ることにしたって言ったときに、2人で顔を見合わせて『とうとう来ちゃったね。それは反対できないね』って言ったという話はだいぶ後になって聞きました(笑)」

――それでは山西さんがテレビや映画に出演されるようになって喜んでいらしたでしょうね。

「そうですね。喜んでいたと思います。母親はとにかく2時間ドラマが大好きな人で、家にいるときにはずっと2時間ドラマが流れている感じでした。父親はクイズ番組が大好きで、クイズを見ながら(解答者より)先に答を言う人だったので、どっちも今の僕とつながっているというか(笑)。2人とも亡くなりましたけれども、何か親孝行できているのかなって。

でも、それで一回留年してしまって(笑)。お芝居があまりにも楽しすぎて好きになりすぎちゃって、これは仕事にするべきなのかなっていうのをすごく悩んだんですよね。

好きなことを仕事にしちゃうと、ちょっと嫌なこともやらなきゃいけなくなるんじゃないかって思って。楽しいことだけやっていきたいな、でもこれで食えるって感じがしないよなっていう思いがやっぱりどこかであって…。

先輩方が卒業すると就職して、今はマスコミで活躍している人もいっぱいいるんですけど、当時はそういう風な道はほとんどなかったので、プロの俳優になるってどうなんだろうなって。

当時、プロの俳優になった人って、辰巳(琢郎)さんしかいなかったから、自分にそこまでやれるのか、好きなことだけ楽しくやっていたほうがいいんじゃないかなっていう葛藤がすごくありました。それで、就職することにしたんです」

 

◆生瀬勝久に背中を押されて芝居に専念

山西さんは、教授の推薦で石油化学系の会社に就職し、合成潤滑油を研究する日々を送ることに。就職して2年目に生瀬勝久さんが劇団そとばこまちの座長に就任。山西さんも再び参加することに。

「就職して2年目のゴールデンウィークに辰巳さんが15周年記念にある作品をやりたいと。その作品は僕も好きだったので、ゴールデンウィークだったら何とか出られるかなと思って、『やらせてください』って参加したら、その公演が終わったときに先輩方がみんな辞めちゃって。

誰も継がないのであれば劇団は終わるということになってしまうから、それはもったいなくないですかっていう話になって。それで手を挙げたのが、僕と生瀬さんと、今『チコちゃんに叱られる!』(NHK)のプロデューサーをやっている小松(純也)さんの3人だったんです。

それで、生瀬さんが座長を引き継いで、小松さんが脚本を書いて僕が演出で、1本目の芝居をやろうという話になって。生瀬さんが座長になるんだったら一緒にやりたいなっていうのはすごく強くあったので、そこから始まって、会社に行きながら次の年は、年に6本芝居をやりました」

――年に6本だと劇団だけやっていても大変ですよね。よくからだを壊しませんでしたね。

「20代半ばで若かったですからね(笑)。平日は会社が終わったらすぐに京都まで行って終電まで稽古して、終電で帰って翌朝会社に行って…という感じで。土日はもう丸1日やっていましたね」

――そういう生活はどのくらいの期間続いたのですか?

「4年近くです。きつかったですけど、やっぱり楽しいからっていう感じで(笑)」

――会社を辞めて劇団で…とは思ってなかったのですか?

「食えるイメージがあまりなかったので(笑)。にっちもさっちもいかなくなる状態まではという感じでしたけど、生瀬さんが座長になって初めて東京の本多劇場で芝居をやるということになって、それはすごいことだと。

自分たちのそれまでの作品の中で一番自信があるものを持っていけることになったのですが、それが会社のハワイ研修の期間と重なってしまって。どうにもならなくなってしまったので、会社を辞めることにしました」

――会社を辞めるきっかけとなったのは、生瀬さんだったとか。

「そうです。生瀬さんは全然記憶にないって言うんですけど、悩んでいた僕に車の中で『食うくらいなら、なんとかなるで!』って言ったんですよ。それで会社に『辞めます』って言いました」

――結果的には大成功でしたよね。

「いやいや、今、その頃の27、8の自分に何て言うかって聞かれたら『やめておけ』って言うと思いますよ(笑)。本当にここまで、60になるまでやってこられたのが、いまだにちょっと不思議で。自分の力だけではとてもここまで来られなかったですから、本当に周りに助けられたという気持ちしかないので」

――会社を辞めてから生活はどのように?

「会社を辞めたのが1992年で、お芝居をしながらアルバイト。というか、今もずっと同じ事務所なんですけど、うちの事務所はそとばこまちの先輩が作った事務所なんです。それで社長さんが『役者の仕事がないときは事務所を手伝ってくれればいい』っていう風に言ってくれたので、とても助かりました。

わりと恵まれた状況で芝居に専念することができたし、ちょうどうまい具合に関西の小劇場ブームというのが来て、大阪でローカルの深夜のコント番組とか、リポーターの仕事、ラジオのレギュラーなどが決まったので、『本当に食うぐらいなんとかなるって、その通りなんや』って、ちょっと思っちゃったですね(笑)」

山西さんは、2001年に生瀬さんと劇団そとばこまちを辞めるまで、ともに多くの舞台を製作。同年、『相棒 pre season』第2話に出演し、2002年には『相棒』が連続ドラマに。パンダのコーヒーカップを手に、「暇か?」と特命係の部屋にふらりと現れる角田課長として人気を集めることに。

次回は撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

※ナイロン100℃ 49th SESSION『江戸時代の思い出』
作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:三宅弘城 みのすけ 犬山イヌコ 峯村リエ 大倉孝二 池田成志 坂井真紀 奥菜恵 山西惇ほか

劇団初の時代劇!一体誰のどんな思い出なのか?誰も予想していなかった展開に…。
・2024年8月3日(土)
12:30開演 芸術文化センター 阪急中ホール
18:30開演 芸術文化センター 阪急中ホール
・2024年8月4日(日)
12:30開演 芸術文化センター 阪急中ホール
・2024年8月10日(土)
12:30開演 J:COM北九州芸術劇場 中劇場
18:00開演 J:COM北九州芸術劇場 中劇場
・2024年8月11日(日)
12:30開演 J:COM北九州芸術劇場 中劇場

©映画「シサム」製作委員会

※映画『シサム』
2024年9月13日(金)公開
配給:NAKACHIKA PICTURES
監督:中尾浩之
出演:寛一郎 三浦貴大 和田正人 山西惇 緒形直人ほか

蝦夷地と呼ばれた現在の北海道を領有した松前藩が、アイヌとの交易をおこなっていた史実を基に、アイヌと和人との対立の歴史を描いた歴史スペクタル映画。江戸時代前期。松前藩士の息子である孝二郎(寛一郎)と兄の栄之助(三浦貴大)は、アイヌとの交易で得た品を他藩に売る仕事をしている。ある日、栄之助が使用人・善助(和田正人)に殺されてしまう。孝二郎は、復讐のため善助を追って蝦夷地へ向かうが…。