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石倉三郎、今でも「夢じゃないか」と思う恩人・高倉健さんとの出会い。喫茶店で名乗ってもいないのに「サブちゃん、こっちにおいでよ」

高倉健さんの紹介で東映東京撮影所の大部屋俳優となった後、レオナルド熊さんと結成した「ラッキーパンチ」、「コント・レオナルド」として人気を集めた石倉三郎さん。

コンビを解消後、映画『哀しい気分でジョーク』(瀬川昌治監督)、映画『四十七人の刺客』(市川崑監督)、連続テレビ小説『ひらり』(NHK)、『下町ロケット』(TBS系)など多くの映画、テレビに出演。2016年には、『つむぐもの』(犬童一利監督)で映画初主演を果たす。料理上手としても知られ、料理本を出版するなど幅広い分野で活躍。

2023年5月12日(金)から映画『それいけ!ゲートボールさくら組』(野田孝則監督)が公開される石倉三郎さんにインタビュー。

 

◆「おもしろい」と言われ俳優になろうと決意

小豆島で生まれ育った石倉さんは、小学生の頃からよく映画館に通っていたという。

「小さいときはガキ大将でした。貧乏だったからおもしろくなくて、毎日毎日暴れているみたいな、そんな子でした。学校に行くと、わりと静かにしているんですよ。そんないやらしい子でしたね(笑)」

-小さい頃から映画館によく行かれていたそうですね-

「僕より14歳上の長男が、高校を出てから洋画専門の映画館で映写技師をやっていたんです。それで、おふくろは近所にある3本立てで日本の映画ばかりやっている映画館でお茶子、場内案内係をやっていて、そこに毎晩のように行っていたんですよ。

小学生は、学校が推薦する映画しか観ちゃいけなかったから、見つかったら大変だったんだけど、それを覚悟でドキドキしながら毎晩行っていました。3本立てで日替わりですから毎日変わるんですよ。だからもうどれぐらい観たかわからないくらい観ましたよ(笑)」

学校から帰るとすぐにチャンバラごっこ。映画を観ていた石倉さんが、いつも主人公をやっていたという。小豆島で中学1年生まで暮らした後、大阪へ引っ越すことに。

「大阪でも相変わらず貧乏暮らしでね。小学校の頃から新聞配達をしたりしていましたけど、中学校でも新聞配達や牛乳を配ったり、米屋のバイトとか色々やりましたよ。

それで就職をしたんだけど、結局機械を扱う職工さんだから、油で爪が汚くなるんですよ。俺は神経質だから、それがイヤでね。毎日毎日たわしで爪の汚れをとっていたんだけど、そんな生活がイヤでね。『先行き出世もできないし、金も稼げないし、どうしようもねえなあ』って思いながらやっていたんですよ。

そうしたら、ある日会社の偉い人に『君は、忘年会や新年会のときにひとりで笑いをさらっていておもしろいから営業に向いている。名古屋の営業マンに空きができたから行かないか』って言われたんですよ。

このぐらいの大人が俺のことをおもしろいって言うんだから、いけるんじゃないかって、そのときに役者になろうかなって思ったんですよね」

-それはいくつのときですか?-

「18ぐらい。それで『会社を辞めて役者になる』って言ったら兄貴が『てめえ、この野郎。出て行け』って怒ってね。最終的にはおふくろに仕送りをすることを条件に兄貴が許してくれたんですよね。

それで、東京に出る資金を作らなきゃいけないので、キャバレーのボーイをやったり、色々しながら金を貯めて、20歳のときに東京に出てきたんですよ」

※石倉三郎プロフィル
1946年12月16日生まれ。香川県出身。1967年、高倉健さんの紹介で東映東京撮影所の大部屋俳優に。任侠映画などの端役を務めるが、1970年退社。舞台に転向。1981年、レオナルド熊さんと結成した「コント・レオナルド」で大ブレイクするが、1985年に解散。1992年、連続テレビ小説『ひらり』でヒロインの叔父・銀次を演じて話題に。『とんぼ』(TBS系)、『八丁堀の七人』(テレビ朝日系)、映画『座頭市』(北野武監督)、映画『あなたへ』(降旗康男監督)などテレビ、映画に多数出演。2023年5月12日(金)に映画『それいけ!ゲートボールさくら組』の公開が控えている。

 

◆最中屋のおばちゃんの言葉がきっかけで人生が変わる

石倉さんは、週刊誌で新劇の劇団員募集記事を見て願書を出したところ、第一次試験に合格。劇団の二次試験に合わせて上京したという。

「兄貴に『俺一次試験は受かったからよ』って言ったら、『お前よ、こういうのはみんな受かるんだ。劇団はみんな金が欲しいんだ、バカ。お前の授業料が欲しいだけのことだ、この野郎』って冷静なんですよね。それで、もうそんなの関係ねえやって、20歳で上京。

ところが、劇団に行ってみると月謝が高くて払える目途(めど)もないし、アルバイトは一切禁止だというから諦めましたよ。

それで、当時憧れの三木のり平さんの家にも行ったんですよ。弟子入りしたくてね。でも、どうしても玄関チャイムを押せなかった。万が一、弟子入りできたとしてもバイトはまずできないでしょう? バイトができなかったらおふくろに仕送りできませんからね。

東京に出てきたものの何のアテもないし、どうしようかと思っていたら、兄貴が『あんこ屋、最中屋の主人のところに、お前も知っている仲間がいるからそこに行ってこい』って。そこの4畳半に住んでいる先輩に間借りして、その店で働くことになったんですよ。とりあえずバイトをしようと思って。それが出発ですよね」

-どこでも本当にまじめに勤務されていたようですね-

「それは一生懸命やりますよ。だっておふくろに金を送るのが条件で東京に来ていますから。仕送りだけは欠かしちゃいけないと思って、自分は食わなくても、まずおふくろに金は送りますよね。それは意地ですよ。意地だし、そういう親ですからね。当然ですよね」

-最中屋さんではどのくらいの期間働いていたのですか-

「3カ月ぐらいかな? それであんこを練っていたら、そこのおばさんが『兄ちゃん、俳優になるんだって? こんなところであんこを練っていたってどうしようもないよ。東京には青山というところがあって、そこにはスターがウヨウヨいるから、青山に行きゃいいじゃないか』って言うんですよ。

『スターがウヨウヨいたって、行ってどうするんだよ? 俺はスターに興味はないし』って思ったけど、『ここにいるよりはいいだろう』って言われて、休みの日曜日に青山に行ってみたんですよ。

それで5、6時間青山をウロウロしていたのかな。フッと見たらこじゃれたスーパーマーケットがありましてね。入り口の壁に芸能人の手形があるわけですよ。すごいなあと思って。

そうしたら、『従業員募集』って書いてあるんですよ。履歴書を持っていたからすぐに中二階の事務所に行ったら、事務所に裕ちゃん、石原裕次郎がいたんですよ。そこの社長が慶應で裕ちゃんと同級生だったんですよね。俺は『裕次郎だよ!』って思って(笑)。

それで、そのスーパーで働くことになって、しばらくしてからそこで出会った仲間と3人でアパートを借りて、そこからですよね、青山に住みだしたのは」

 

◆高倉健さんと喫茶店で…

石倉さんが働くことになったのは、かつて青山にあった日本で初めての24時間営業スーパーマーケット。そこで夕方5時から深夜1時まで勤務していたという。

「7時くらいから1時間休憩時間があるんですよ。外でメシを食って、喫茶店でコーヒーを飲んで1時間したらまた店に戻って仕事という感じだったんですけど、あるときメシを食って喫茶店に行ったら健さんがいるんですよ。

『うわーっ、高倉健だ。カッコいいなあ』って思ってね。すごいなあって思いながらコーヒーを飲んでいたんだけど、毎晩いるわけですよ。

『スターってこんなに暇なのかね?』って思ったんだけど、あとで考えたら、スターは自分のスケジュールは自分で決められるんだよね(笑)。それで、毎晩顔を合わせるから、1カ月くらいしたら『どうも』って言ったら、『よっ!』なんて言ってくれるようになってね。

それで2カ月ぐらい経って、たまたま昼間に行ったら健さんがいたんですよ。ひとりでいて、『サブちゃん、こっちにおいでよ』って言われて。『何で俺の名前を知ってるんだろう?』って思いながら『何でしょう?』みたいなことで、それが出会いなんですよ」

-すごいですよね-

「いやいや、すごいなんてものじゃないですよ。今思っても夢じゃないかと思いますよ。あんなことが本当にあったんですかねって。だから結局、そこでいろいろ話をしていてね。

それで即ですよ。『役者になりたいんだって? じゃあ東映に来るか?』って。『いやあ、俺は素人ですから』って言ったら、『俺だって最初は素人だよ』って言われて。

おふくろに金を送らなきゃいけないからバイトをやめられないことを伝えたら、バイトを続けてもいいし、東映で映画に出たらギャラがもらえるということも聞いたので、入れてもらって、そこから東映で始まるわけですよね。

だから今思うと、最中屋のおばちゃんが『青山へ行け』って言ったのは大正解だったんだよね(笑)」

-でも、健さんの紹介だということで、他の大部屋の俳優さんたちに嫉妬されたのでは?-

「いやあ、それはもうひどかったですよ。半端じゃないですよ。今思い出してもイヤですよね。でも、それはしょうがないですけど、いやでしたよ」

-石倉三郎という芸名にされたのは、東映時代ですか?-

「そうです。本名は『石原三郎』なんだけど、東映の事務員に、同じ石原というのがいて、電話の呼び出しなんかで『石原さーん』って流れると俺も行くじゃない。そうすると『おめえじゃないよ、バカ。ややこしいから名前を変えろ』ってなったんですよ。

芸名なんて考えたこともないからね。どうしようと思っていたら『健さんの紹介で東映に来たんだから健さんから名前をもらえ』って言うんですよ。それで『石倉三郎』になって健さんに報告に行きましたよ。『石原という名前が二人おりまして、今日から名前を変えました。健さんの倉の字をちょうだいしまして石倉三郎にしたんです』って言ったら『そうかい、そうかい。わかった。いいよ』って言ってくれましたよ」

高倉健さんの紹介で東映の大部屋俳優になった石倉さんだったが、3年半で退社することになったという。

「東映には3年半でした。4年いると専属になれるんですよ。専属ということは東映の社員なんです。社員だと給料とボーナスが出るんです。それプラス役手当てが出るから、余裕でメシが食えるんですよ。結婚しようが何しようがね。

だから専属になるために、みんな4年間辛抱するんですけど、俺はとてもじゃないけど、こんなところに4年間もいたくないと思っていたし、専属になってもしょうがねえやって思ってね」

-(紹介してくれた)高倉健さんにはどのように?-

「健さんに『実はこういうわけでして…』って言ったら『どうしても辞めるのか?』って言われたので、『はい。干されていますし、もうダメですから』って言って。

『そうか。じゃあ、もう東映を辞めて役者も辞めるのか?』って聞かれたので、『いいえ、役者は続けたいんです』って言ったら、『頑張れ。よくやくざの世界で膝まで泥沼に浸かって…っていうけど、サブちゃん、首まで泥沼に浸かる覚悟はあるか?』って言ったんですよ。

『あります』と言って東映を辞めたんです。だから、役者として何とかするまでは辞められなかったんですよね、健さんの手前があるから、どんなことがあってもやらないといけないと思って。でも、そのおかげで何とかメシが食えるようになりましたからね」

東映を辞めた石倉さんは、商業演劇の舞台の端役を約4年間務めた後、約2年間、坂本九さんのショーの司会をすることに。1981年に「コント・レオナルド」としてブレイクし、1985年に解散後は、映画『哀しい気分でジョーク』、連続テレビ小説『ひらり』などに出演し、俳優として注目を集める。

次回はその舞台裏、23年ぶりに高倉健さんと共演した映画『四十七人の刺客』の撮影エピソードも紹介。(津島令子)

©2023「それいけ!ゲートボールさくら組」製作委員会

※映画『それいけ!ゲートボールさくら組』
2023年5月12日(金)より公開
配給:東京テアトル
監督・脚本・編集:野田孝則
出演:藤竜也 石倉三郎 大門正明 森次晃嗣 小倉一郎 田中美里 本田望結 木村理恵 特別出演:毒蝮三太夫 友情出演:三遊亭円楽 山口果林

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