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高島礼子、カーレースに参戦するため“キャンギャル”に。23歳で芸能界を目指したのは「もうおばさんだなと思って(笑)」

1988年、『暴れん坊将軍III』の御庭番・梢役で女優デビューし、『陽炎』シリーズや4代目“極妻”として『極道の妻たち 赤い殺意』(関本郁夫監督)以降のシリーズ5作に主演した高島礼子さん。

2000年に公開された映画『長崎ぶらぶら節』(深町幸男監督)で第24回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞、『監察医・篠宮葉月 死体は語る』シリーズ(テレビ東京系)、舞台『御宿かわせみ』など多くの映画、テレビ、舞台に出演。2023年2月24日(金)に映画『いちばん逢いたいひと』(丈監督)の公開が控えている高島礼子さんにインタビュー。

 

◆高校時代から車好きでA級ライセンスを取得

神奈川県横浜市で生まれ育った高島さんは、小さい頃は内向的で、とても人前に出るような仕事を目指すタイプではなかったという。

大の車好きで高校卒業後、自動車関連会社に就職。21歳のときにA級ライセンスを取得し、レースにも参戦していた。

「父がとにかく厳しくて、テレビも大河ドラマと『暴れん坊将軍』くらいしか見てはいけなかったんですよ。一度母と野球を観ていたときに父が帰ってきちゃって、すごく怒られた記憶があります。

父が厳しすぎるというか、うるさかったので、早く自立したく、高校生のときからずっとアルバイトをしていたんです。早く自分でどうにかしたいと思って。

それを後押ししてくれたのが母で。母はどちらかと言うと、女性の自立をすごく応援してくれる人だったんですよ。だから、その対比の中で私は『お母さん、ありがとう』みたいな感じでした」

-高校卒業後に就職されましたが、お父さまは?-

「大学に行けとは言っていました。父からすると、『大学4年間遊ばせてやろうって言っているのに、何が不満で行かないんだ?』という感じだったんですけど、早く働きたかったので就職しました。そこでもう父とはほとんど断絶ですね、大学に行かなかった時点で」

-そのときには、もう車に興味があったわけですね-

「ありました。16歳で原付バイクの免許を取って、その辺りから自分で運転してどこかへ行ける便利さや楽しさを知ってしまって、18歳で車の免許を取りました。

高校時代から車に興味があって、レーサーになりたいと思っていたんですけど、そういう夢は今考えると『何だったんだろう?』という感じですね(笑)。

ただ、やっぱり自動車レースには、そう簡単に出られるものではなくて、お金もすごくかかるので、結構母から援助してもらったりしていました」

-その当時はレーサーになろうと?-

「はい。でも、その活動は、お金がかかりすぎるんですよ。だからレーサーになりたいという気持ちは途中でなくなりました。ただ、レースに出たかったんですよね。

先輩がレースに出るときに手伝ったり、メンテナンスにお付き合いしたりして、みんなで集まって車の話をしてレースの話をして…というのが、レーサーになるという夢よりも、だんだん楽しくなるわけですよ(笑)

集団で何かを作り上げるということがすごく好きだったんですね。みんなで集まって色々やっているのが好きだったし、とても楽しかった」

-A級ライセンスも取得されて-

「取りました。国内で開催する公のレースに参加する資格として、A級ライセンスが必要だったので。友人がみんな取っていました。

その頃はまだ女性でA級ライセンスを持っているというのが珍しかったので、今やったらいいんじゃないかということで私も取りました。やっぱりその頃から仲間が大事でしたね」

※高島礼子プロフィル
1964年7月25日生まれ。神奈川県出身。1988年に「とらばーゆ」のCMで注目を集め、『暴れん坊将軍III』で女優デビュー。1993年、映画『さまよえる脳髄』(萩庭貞明監督)で映画初主演。『特命リサーチ200X』(日本テレビ系)、映画『陽炎』シリーズ、映画『極道の妻たち』シリーズ、映画『おみおくり』(伊藤秀裕監督)、『のり子、ソウルへ行く!』(KBS)、ミュージカル『東京ラブストーリー』など出演作多数。2023年2月24日(金)に公開される映画『いちばん逢いたいひと』では白血病を発症した主人公の母親役を演じている。

 

◆レース費用を捻出するためレースクイーンに

仕事をしながらカーレースに参戦していた高島さんだったが、レース費用を捻出するためにキャンペーンガールとモデルとして活動することに。

「本当にお金がかかったので、捻出するためにキャンギャルをやるようになって、サーキット場に通って人と触れ合っているうちに、内気で内向的だった少女がだんだん気が強くなってきたというか…。やっぱり色々あって、結構いじめられたりしたんですよね。

でも、そのときに友だちが助けてくれたので、『やっぱり、仲間ってうれしいなあ』って。それで、だんだん『負けていられない』というのと、『いじめに対抗するには、自分が強くなればいいんだ』みたいなことで、逆に強くなりすぎちゃったかもしれない(笑)。

当時はバブルの時代で、すごくギャラが良かったんですよ。ラッキーなことに、『そんなにレースが好きだったら、レースはできないけど、キャビンレーシング事務局でアルバイトさせてもいいわよ』って言ってくださったので、キャンギャルをやりながらキャビンレーシング事務局で働いていたんですよ。すごくいい環境で働かせていただいて」

-それが芸能界にとなったのは?-

「1年半キャンギャルをやらせていただいたんですけど、『レースができないんだったらここにいてもなあ』という感じになって。だんだん裏方じゃないですけど、そっちが楽しくなっちゃったんですよ。

年齢も重ねていくじゃないですか。今はある程度年齢がいった人でも認められる時代になりましたけど、当時は、22歳、23歳というのは、もう終わりという感じだったんですよね。

『23歳というのはモデルとして終わっていて仕事もあまりないし、レースも23歳からどうのこうのというのもないだろう』って、当時はすごく思っていたんですよね。もうおばさんだなって思っていたので(笑)。今思えばなんてバカなことを思っていたんだろうっていう感じですけど。

今さらレース界に入っても勝てないだろうし、当時キャンギャルだった友だちがたくさんいたので、モデル事務所をご紹介していただいてモデル活動をしていこうと。レース関係の仕事につけないのであれば、いいやっていう結構浅はかな考えで(笑)」

 

◆唯一観ることを許されていた『暴れん坊将軍』に出演

1988年、高島さんは「とらばーゆ」のCMでデビューし、注目を集めることに。

「当時はまだバブルで景気のいいときだったので、1日にオーディションがたくさんあって、たまたまリクルートのCMに合格して、それをたまたま見てくださっていた松平健さんとチーフプロデューサーの近藤さんが同時に見初めてくださったみたいで、事務所に問い合わせがあったんです。

『暴れん坊将軍』と言えば、唯一親から観ることを許されていた番組だし、断る理由がない。『何だかよくわからないけど、松平健さんにお会いできる』みたいな、ミーハー感覚で(笑)。ぜひやらせていただきたいと。一応オーディションみたいなのもあったんですけど、そのまますんなり決まってしまったというか」

-いきなり京都の太秦撮影所、厳しいことで知られていますが、どうでした?-

「おかげさまで、それが初めての芸能界だったので。『芸能界ってチャラいイメージがあるけど、こんなに厳しいんだ』って(笑)。

それまで、自分が自由に好き勝手に生きて、自分の意見を押し通していた人生だったんですよね。ところが、役者の世界に入った瞬間、何か一言言ったら100返ってくるみたいな厳しい世界に初めて出会いました。

でも、厳しい分、松平さんとか、番組関係者の方たちがものすごい愛を持って、こんなに芝居も立ち回りもできない私にものすごいチャンスをくださったという感謝があるわけですよ。

この頑張ってくださっている皆さんのために頑張らなきゃいけないという思いになって、それが太秦の厳しさを跳ね返してくれました。

もちろん松平さんとか皆さんが可愛がってくださったから、『健ちゃんの大事にしている暴れん坊の子や。しゃーない。可愛がってやるか』っていう感じになって、普通の人たちよりはすんなりだったと思います。でも、私はそれが初めてでほかを知らないので、それが普通だと思っていました」

-太秦の撮影所を普通だと思っていたら、もう何も怖くないという感じですね-

「そうですね(笑)。それが普通だと思っていて、楽しいこっち(東京)の仕事を知らなかったので。年齢ももう25歳でしたしね」

-時代劇の所作も殺陣も大変だったのでは?-

「プロデューサーさんに『現場で習ってください』と言われました。撮影に入る前に、一応立ち回りなどは一カ月くらい監督さんに特訓していただきましたけど、太秦撮影所はプロフェッショナルの集団なので、スパルタ教育をしていただきました。今思えば、太秦でデビューできて良かったと思います。

大変でしたけど、松平さんや船越英二さん、横内正さん、レギュラーの方たちが優しくて大事にしてくださって。私は御庭番だったので、『め組』じゃなかったんですけど」

-『暴れん坊将軍』の撮影はどれぐらいの期間でした?-

「それがあんなに長く感じたのに、実は1年半しかやっていないんです。私はちょうど500回記念のときにいたんですけど、2クールやって、次のパート4との間に半年間空くんですね。

でも、半年間遊ばせておくわけにはいかないということで、『将軍家光忍び旅』(テレビ朝日系)のレギュラーに入れてくださって、その間に新歌舞伎座で『暴れん坊将軍』の舞台をやることになって、そこにも出なさいということになって。

私が『現代劇やりたいです』って言ったら、石原プロさんがやっている『代表取締役刑事』(テレビ朝日系)にまで入れてくださって。すごく恵まれていました。

そのときにまたいろんな方と出会って、『暴れん坊将軍』を卒業することになるんですけど、『私は、お世話になった皆さんに何を返せるんでしょう?』って聞いたら、『それは、あんたが女優で成功することや。何年も暴れん坊で頑張ってきたって、その先どうなるかわからん。だったらあんたはそこを卒業してどこかの事務所に入って、ちゃんと女優として大成することが、『暴れん坊将軍』の皆さんにお返しすることやないか』というアドバイスをいただきまして、その通りかもしれないと」

-実際その通りにやってきてらっしゃいますね。すごい数のお仕事をされていて-

「そうですね。最初にレギュラーで『暴れん坊将軍』を半年間ずつ、2クールやっていたので、恵まれていましたね」

『暴れん坊将軍』を卒業した高島さんは、1993年に『さまよえる脳髄』で映画初主演を果たし、『陽炎2』(橋本以蔵監督)、『EM EMBALMING』(青山真治監督)など次々と主演作が続き、1999年、『極道の妻たち 赤い殺意』に主演することに。次回はその撮影エピソード&裏話も紹介。(津島令子)

ヘアメイク:佐々木大輔(TRINE)
スタイリスト:村井緑
衣装・ネックレス:MOGA(モガ)
アクセサリー(ピアス、リングブレスレット):ABISTE(アビステ)


© TT Global

※映画『いちばん逢いたいひと』
2023年2月24日(金)よりシネ・リーブルほかにて公開
配給・宣伝:渋谷プロダクション
監督:丈
出演:倉野尾成美(AKB48) 三浦浩一 不破万作 田中真弓 大森ヒロシ 丈 崔哲浩 中村玉緒(特別出演) 高島礼子

白血病を克服した少女と、そのドナーになった男の数奇な運命を、実話をもとに描いた奇跡の感動作。ある日突然、授業中に倒れた11歳の少女・楓(倉野尾成美)は、検査の結果「急性骨髄性白血病」と診断され、そこからつらく長い闘病生活が。同じ頃、IT企業を経営する柳井健吾(崔哲浩)は、最愛の娘を白血病で亡くしてしまい家庭は崩壊。そんな健吾にとって、唯一の誇れることは、見知らぬ人の骨髄ドナーになったということだったが…。