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高橋和也、人気絶頂時にジャニーズ事務所を退所。渡米、長男誕生…24歳のときが「ものすごいターニングポイント」

1988年、ロックバンド・男闘呼組のメンバーとしてジャニーズ事務所からデビューした高橋和也(当時の芸名は高橋一也)さん。

1993年に事務所退所後、アメリカ留学を経て、俳優として活動するとともに複数のバンドを結成してミュージシャンとしても活躍。連続テレビ小説『やんちゃくれ』(NHK)、映画『KAMIKAZE TAXI』(原田眞人監督)、映画『ハッシュ!』(橋口亮輔監督)、映画『そこのみにて光輝く』(呉美保監督)など多くのドラマ、映画に出演。韓国の俳優イ・ビョンホンの吹き替えをはじめ、声優としても定評がある。

2022年10月15日(土)と16日(日)には、2023年8月まで期間限定で活動を再開した男闘呼組のライブを行い話題に。現在、映画『追想ジャーニー』(谷健二監督)が公開中の高橋和也さんにインタビュー。

 

◆“たのきんトリオ”に憧れてジャニーズ事務所のオーディションを受けることに

高橋さんは、カントリーミュージック愛好家でライブハウス兼バー「マローネ」などを経営する父親の影響で、子どもの頃から音楽は身近にあったという。

「オヤジはバーをいくつか経営していたから、忙しくてほとんど家に帰ってこない感じだったからね。小学校3年生に上がる頃に妹ができるまで、ずっとひとりっ子みたいな状態だったけど、あまり手がかからない、いい子だったんじゃないかな」

-ギターをはじめたのはいつからですか?-

「僕は最初ドラムをやりたかったので、ドラムからはじめたんですよ。中学生くらいになるとレコードとか聴くようになるじゃないですか。それでパンクロックを初めて聴いて、すごい衝撃を受けちゃって。セックス・ピストルズのポール・クックというドラマーに憧れてドラムをはじめたんです」

-将来はミュージシャンになろうと?-

「そうですね。小学生のときに、たのきんトリオが出てきて純粋に憧れたというか。普通っぽくて、いとこのお兄さんみたいな感じですごい親近感があって、自分もああいうふうになりたいなあって思ったかな」

-それでオーディションを受けることに?-

「そう。行くんだったらやっぱりジャニーズ事務所だなと思って、中学のときに友人と履歴書を送ったんだけど、友人は受かって僕は落ちたんですよ。だけど、その友人が直前になって、『第二次審査に行かない』って言い出したから、『じゃあ俺が行く』って代わりに押しかけて行ったの」

-落ちたからと行かなかったら、今の高橋さんはいないわけですよね-

「そう。今の僕はないですね。でも、第二次審査の場所がわかったということ。場所がわかるんだからそこに行こうと思って行って、ジャニー(喜多川)さんには『You、呼んでないよ』って言われたけど、『どうしてもやりたいんです』って強引にお願いして通うようになったという感じです」

-ジャニーさんが認めてくれたわけですね-

「そう。応募したときの写真があまりよくなかったんですよ。それで、のちにジャニーさんに『Youダメだよ、こんな写真じゃ。もっとちゃんとした写真を送ってこいよ。でも、Youドラムをやっているんだ。だったら、うちにギターをやっている成田(昭次)くんがいるから、彼と一緒にバンドをやったら?』という感じで男闘呼組が最初スタートして」

-岡本健一さん、前田耕陽さんの4人で男闘呼組としてデビューしたときは?-

「無我夢中ですよね。自分がアイドルになりたいと思ったことがどんどん実現していくのと同時に、嵐のようなスケジュールで、とにかく忙しくて。でも、すごく楽しかったし、充実していました」

-ドラマや映画にもすぐに出演されて-

「そう。15歳のときかな? テレビドラマに初めて出たんだけど、スタジオのセットが新鮮でした。そっくりそのままあるわけじゃないですか。

たとえば教室のセットだったら教室がそのままあって、同級生役の子たちが一緒にいる。自分が行っている学校と同じようなものが全部スタジオの中に作られているという不思議な世界で。現実の世界とドラマの中の学校、虚構の世界のふたつが同時に自分の中にあるという感じでした」

-ドラマの中の学校も青春の一部という感じでしょうね-

「そうですね。同年代の子たちばかりだったから、よく一緒に遊びに行ったりしました。撮影が始まると、結局朝早くから夜遅くまでずっと撮影じゃないですか。待ち時間も多いから自然と仲良くなりますよね。

撮影が忙しくて実際の学校にはなかなか行けなくなってしまったので、撮影の学校のほうがだんだん本当の学校みたいになっていっちゃって…。でも、自分としては望んだ世界だったから全然後悔はしてなかったし、むしろもっといろんなことをやりたいという思いでしたね」

※高橋和也プロフィル
1969年5月20日生まれ。東京都出身。1988年、男闘呼組としてデビュー。第30回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。メンバー4人で主演した映画『ロックよ、静かに流れよ』(長崎俊一監督)で第43回毎日映画コンクールのスポニチグランプリ新人賞&第10回ヨコハマ映画祭新人賞を受賞。1993年、ジャニーズ事務所退所後、アメリカに留学。帰国後、俳優、ミュージシャンとして活動。大河ドラマ『風林火山』(NHK)、『マルタイの女』(伊丹十三監督)、『きみはいい子』(呉美保監督)、『新聞記者』(藤井道人監督)、舞台『リトル・ヴォイス』など多くのドラマ、映画、舞台に出演。イ・ビョンホンの吹き替えも多く担当している。

 

◆人気絶頂時にジャニーズ事務所を退所。渡米することに

男闘呼組は、第30回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞し、『NHK紅白歌合戦』にも出演。メンバー4人で映画『ロックよ、静かに流れよ』(長崎俊一監督)に主演するなど、トップアイドルとして人気を集めることに。

-アイドルとして人気が出て注目を集めるようになったとき、将来についてはどのように考えていたのですか-

「この仕事が大好きだから、他のことは何も考えなかったですよね。とにかく好きなことをやりたいということで、ドラマも音楽活動もそうだし、映画にも出たいと思っていました。そのうち舞台もやるようになって、舞台もおもしろいと思って、楽しくてしょうがなかったです」

-1993年、ジャニーズ事務所を辞めることになったわけですが、それは全然予期してなかったことだったのですか-

「そうです。24歳のときにジャニーズ事務所をやめるということになって。それで男闘呼組として一番最後に仕事をしていたのが、アメリカの演出家ロバート・アラン・アッカーマンの『スラブ・ボーイズ』という舞台だったんです。

それでアッカーマンに『実はこの仕事で僕は男闘呼組を去ることになったんです』って言ったら、『だったらハリウッドに来て勉強したほうがいい』って誘ってくれたので、舞台が終わってすぐに、アメリカに行きました」

-タイミング的にすごい出会いでしたね-

「そうですね。だから僕はものすごくラッキーな男だなって思う。必ず何かが終わるときに新しい人に出会えたりとか、自分を導いてくれる人、救ってくれる人に出会えたということが、すごくラッキーだったなと思います」

-決断力もすごいですね。すぐにアメリカに行くことにされて-

「切り替えが早いんですよ。全然違う文化の中でいろいろと勉強になったし、アメリカはすごく楽しかったですよ。

僕らの世代、80年代ってアメリカの映画や音楽にすごい影響受けているんですよね。好きなものはほとんどアメリカから来ていたから、そこに行けるといううれしさが大きかったです」

-アメリカではどんな生活をされていたのですか?-

「学校にも行ったし、映画の撮影のお手伝いをしたり、チョイ役で出させてもらったり、シンガーソングライターも目指していたから、作詞や作曲もしていた。

経験を積むということが自分の中で大切だったから、何でも自分でやってみたかったし、列車に乗って大陸横断をやったり、いろんなものを見てみたい、吸収したいという思いがありましたね。

そうこうしているときにカミさんのお腹(なか)に長男がいるということがわかって。まだ結婚はしていなかったけど、アメリカにいるときに長男が宿ったということがわかったので、これはもう日本に帰らなきゃと思って。

だから、そのときにもし長男がお腹に宿っていなかったら、ずっとアメリカにいたかもしれないし、全然違う人生になっていたと思うんですけど、『子どもが生まれる。自分は父親になるんだ』という、その覚悟をするためにも大陸横断の旅をやりたかったんですよ。独身最後のやりたいこと、区切りをつけてこの旅が終わったら自分は父親になるために日本に帰ると。そういうつもりだったですね。

僕が一番最初にサインした女の子がカミさんなんですよ。15歳のときに『サインしてください』って最初に頼んできた子がカミさん。ファン第1号だからね。それで僕の子どもを6人も生んでくれて」

-帰国して父親になることに…若いときからしっかりしていたのですね-

「そうですか(笑)。15歳から芸能界にいたから、そういう意味では早熟ではあったと思うんですよ。いろんな大人の世界を見たし、同世代の24歳に比べたら考え方も大人だったと思う。

なにしろその時点では、自分が一番大切だと思っていた男闘呼組を失ったときで、ものすごい喪失感があったし、いやがおうにも鍛えられたときだったんですよね、精神的にも。

だから24歳から25歳になる間というのは、ものすごいターニングポイントで、いろんなことが目まぐるしく自分の人生の中で起きて変わっていったときだったので。自分の中でも何か生まれ変わるような気持ちはありました」

 

◆ミュージシャン、俳優として新たなスタート

1994年、アメリカから帰国した高橋さんは、自分のバンドでライブを行う。そして現在の事務所に所属し、本格的に俳優として歩んでいくことに…。

「日本に帰ってきて最初にやったことがライブでした。全部オリジナル曲で。そのライブを今の事務所の社長が観て、『俳優になったらいろんなことができるなあ、こいつは』と思ってくれたみたいです。

父に勧められて事務所の社長に連絡してお会いすることになったんですけど、そのときに僕は『俳優という仕事は、セリフを与えられて、それを覚えて人の言葉を語る仕事。でも、人の言葉ばかり語っていると、自分の言葉で自分の言いたいことを語りたくなる。

それが自分にとって、自作の歌だったりするから、僕はどっちもやらないと自分の中で成立しない。バランスが取れない。それで、自分の言葉だけ語っているとボキャブラリーの少なさとか、伝えたいことが伝えられない自分の稚拙さがあるから、新しい脚本に出会って新しい言葉を習得したり、刺激を受けたい。その両方ですよね。

取り入れることと吐き出すことと、その両方がないとダメなんだ』という話をしたら、すごく社長も気に入ってくれて、『何ができるかわからないけど一緒にやってみようか』って。それで、今の事務所にお世話になることになって、俳優としてのスタートがそこから始まりました」

-10代の頃から映画やドラマにも色々出演されていたので、下地はあったのでは?-

「でも、本当の意味での“職業俳優”になるには、知らないことがやっぱり多かったですよ、最初はね。できないことのほうが多かった。やっぱり男闘呼組の一也だから、男闘呼組の一也が演じているキャラクターという範囲での俳優。

男闘呼組の一也というものをなくして、俳優・高橋和也はどんなものを表現できるのかと言われたときに引き出しがないわけですよ。男闘呼組という看板がなくなったときに、高橋和也というのは、25歳のまだ引き出しの少ない若手の駆け出しの俳優だった。だからその頃は苦労しましたね。よく監督に怒られていました」

高橋さんは苦悩しながらも一つひとつの仕事と真摯に向き合い、1994年には、映画『通天の角』(祭主恭嗣監督)に主演。そして『KAMIKAZE TAXI』、『ハッシュ!』、『EDEN』(武正晴監督)など話題作に出演することに。次回はその撮影エピソードも紹介。(津島令子)

ヘアメイク:鎌田順子(JUNO)

©『追想ジャーニー』製作委員会

※映画『追想ジャーニー』
池袋シネマ・ロサにて公開中
配給:セブンフィルム
監督:谷健二
出演:藤原大祐 高橋和也 佐津川愛美 真凛 髙石あかり 岡本莉音 伊礼姫奈 外山誠二

母親とケンカし、居眠りをしてしまった高校生の文也(藤原大祐)は、気がつくと舞台の上にいて、目の前には見知らぬ男(高橋和也)が。男は、自分は30年後の文也だと話す。文也が今いる舞台は、さまざまな思い出を追想し、そのとき選択した内容を変えられる場所。よりよい人生を送るために、自分の未来を変えることができるのだが…。