“絶対的エース”内海哲也、選手にもファンにも愛された理由。引退まで“背中”で伝え続けた19年間「本当に幸せ者だ」
テレビ朝日のスポーツ番組『GET SPORTS』では、今シーズンで引退した西武ライオンズ・内海哲也投手を特集した。
10月2日、読売ジャイアンツと埼玉西武ライオンズによる二軍公式戦が行われたジャイアンツ球場。
そこに現れたのは、西武で引退試合を行ったはずの内海哲也(40歳)。特別に用意された“異例のラスト登板”だった。
それは、内海が巨人時代にプロ人生をスタートさせたのがこの場所だったから。思い出のマウンドで、巨人ファンにも最後の姿を届けた。
「最初に投げた球場がジャイアンツ球場で、最後に投げたのもジャイアンツ球場っていうことで。本当にありがたいし、幸せ者だなとかみしめながら歩きました」(内海)
内海はなぜ、ここまで愛されたのか。
絶対的エースを目指し、見せ続けた背中。新天地でもがく日々の中でも“貫いたもの”があった。
◆“絶対的なエース”を目指したジャイアンツ時代
引退登板となった9月19日。
西武の本拠地ベルーナドームに詰めかけたファンの前で、内海の一軍での最後の投球。
140キロにも満たないストレートだったが、それでも球場は拍手に包まれる。
試合後には西武ファンだけでなく、多くの巨人ファンが内海の最後の姿を見守った。
「引退試合、引退セレモニーをやっていただける選手って本当に少ないと思いますし、しかもライオンズで2勝しかしてないのに、ああいう素晴らしいセレモニーをしていただいて、本当に幸せ者だなと思いました」(内海)
2003年、内海はドラフト自由獲得枠で巨人に入団。社会人出身の左腕として2007年に頭角を表し、初の最多奪三振を獲得。14勝をあげる。
当時、巨人には上原浩治、髙橋尚成ら生え抜きの投手陣がローテーションに君臨するなか、内海もその一角へさらなる期待がかけられていた。
そして2010年、内海を大きく変える出来事が。
「選手会長になったときと、尚成さんらが抜けたときがほぼ同時期。そういう“責任”というのも、選手会長をまさか僕がやると思ってなかったので、頑張らないといけないっていう気持ちになりましたね」(内海)
選手会長を務めることになり、チームの中心としての役割を求められた。
しかし、その責任感とは裏腹に結果がついてこず、防御率は2.96を記録した前年から4.38と大きく下回ってしまう。
優勝争いの最中にあった9月には、最下位・横浜ベイスターズを相手に試合をつくれず、4回途中6失点でノックアウト。
当時、原辰徳監督は内海に対して「論ずるに値しない」という言葉を残していた。
「ショックという言葉を通り越した感情でしたね。ジャイアンツのエースといわれるところまで、絶対に君臨してやろうという思いがさらに強くなりました」(内海)
◆「背中で見せる」理想のリーダー像
翌年1月の自主トレ。内海に“ある変化”があった。
徹底した走り込みと過酷な筋力トレーニングに取り組み、“絶対的なエース”を目指して行動で示す。
自主トレをともにしていた当時の後輩たちは、
「(内海は)自分が行動してついてこさせるような先輩。口ではやれとか言わないのに」(現巨人投手コーチ・山口鉄也)
「一言も文句をいわずに背中で引っ張っていく。この人についていけば間違いないという、偉大な先輩だと思います」(元巨人投手・東野峻)
とコメントを残している。
チームを引っ張るためには、まずは自分が「背中で見せる」。それこそ、新たに内海が目指したリーダー像だった。
そしてシーズン中の試合前にも、誰よりも走り込む内海の姿が。これには、ある人物の影響があったという。
「きっかけは現横浜DeNAベイスターズの監督・三浦大輔さん。東京ドームで巨人の練習が始まる前にもうスタンドを走っている姿を見て、長く結果を残してる方はみんなが知らないところで努力されているんだなって。もうこれだと思いました。これをやらないと、この世界では長く続けていけない」(内海)
三浦大輔から学んだ野球への姿勢。内海もまた一番早く球場入りし、練習を行うように。その姿勢は現役を終える最後まで貫いた。
2011年には、前年の悔しさを晴らすかのように大躍進。18勝をあげ、自身初の最多勝を獲得した。さらに、翌年にも安定した投球で15勝。左ピッチャーとしては、巨人の球団史上初となる2年連続の最多勝を獲得し、チームをリーグ優勝・日本一に導いた。
この年の優勝インタビューで原監督は、「今年のチームは阿部(慎之助)キャプテン、投手陣では内海。この2人を中心に、全員の力をひとつにして戦ってきました」と語っている。それは、一度は烙印を押された指揮官に称えられた瞬間だった。
「頑張ってきて良かったなと思いましたし、数々の行動があったので、本当にすべてが報われた瞬間でした」(内海)
ひたむきな姿勢でチームをまとめ、絶対的エースに。内海はファンにも愛される選手になっていった。
◆突然の移籍。苦しみの中で伝えた“ある想い”
巨人の生え抜き投手として誰よりも努力し、その背中でチームをけん引してきた内海。しかし、その絶対的エースに転機が訪れる。
2018年、キャッチャーの炭谷銀仁朗が西武から巨人へFA移籍。内海がその人的補償として、西武に移籍することになったのだ。
「当時は本当にショックでした。1週間ぐらい『ああ…』って感じで。言葉ではすごい前向きに言ってたんですけど、やっぱり未練じゃないですけど、びっくりした」(内海)
思わぬ形から新天地でのシーズンがスタート。その後、思うような結果を一軍で残せず、かつて2年連続最多勝にも輝いた男は、移籍後の4年間でわずか2勝。ほとんどは二軍での生活を余儀なくされた。
「選手としては本当に苦しかったです。期待されて、第二の人生じゃないですけど、花を咲かせたいなと思って頑張ったんですけど、なかなか難しかったですね」(内海)
そんな苦しい日々が続くなか、内海にはある思いも芽生えていた。
「やっぱり縁があってライオンズに移籍させてもらったので、ジャイアンツでやってきた経験だったり、若い頃に先輩に教えてもらったことだったりっていうのを“伝えていく”というか。そういう役割っていうのも求められてるんじゃないかなって」(内海)
巨人の頃はエースとして“背中”で伝えてきた内海。西武に来てからは“言葉”を交わし、後輩たちへアドバイスを送るようになった。
投手コーチ兼任となった今シーズンも、二軍のブルペンで精力的に思いを伝え続けた。
「存在感は存分にありますよ。やっぱりこれだけの成績を残しているピッチャーが自分のことだけじゃなくて若手のために時間を割いている。20勝、30勝くらいの価値はあるんじゃないですかね」(西口文也二軍監督)
そしてもちろん、選手としても練習中のランニングに内海のこだわりが出ていた。
「ランニングでフェンス沿いを走るときは、一番外側を走るんです。一番内側と一番外側を走るのでは距離も変わってきますし、それを毎日やると膨大な距離になる。その1本を無駄にしないというか」(内海)
◆内海哲也が愛された理由
そんな内海がとくに目をかけていたのが、内海と同じくフェンスぎりぎりを走る後輩。4年目の投手・渡邉勇太朗だ。
西武へ移籍した内海と同じタイミングでドラフト入団した渡邉は、誰よりも内海を慕い、その背中を追ってきた。
2021年8月、渡邉がつかんだプロ初勝利。そのヒーローインタビューで「この喜びを誰に伝えたいでしょうか?」と聞かれたときは、「ライオンズファンのみなさんと、両親と、家族と、親戚と、内海さんに伝えたいです」と答えるほどだった。
そんな師と仰ぐ内海の引退試合。後輩たちが見守るなか、そこには渡邉の姿も。
試合後の引退会見では、その渡邉から感謝の手紙のサプライズがあった。
「内海さんへ、19年間本当にお疲れさまでした。褒めてもらったこと、叱られたことなど数々の思い出が昨日のことのように思い浮かびます。内海さんに出会い、色々なことを教えていただいた4年間が自分の人生において一番の財産です。4年間本当にありがとうございました」(渡邉)
それはまさに、内海が球界に残してきたものが凝縮されたようなひと時だった。
「一軍で結果を残してナンボの世界で、この4年間でほとんど活躍できずに不甲斐ない思いしかないですけど、最後に後輩の選手があれだけ来てくれたっていうのは本当に感謝というか、うれしさというか…。そこでちょっとは報われた気持ちになりました」(内海)
内海哲也、40歳。プロ19年間で見せてきた“背中”。そして、後輩たちへ伝え続けてきた思い。だから内海哲也は、愛された。
※番組情報:『GET SPORTS』
毎週日曜 深夜1:25より放送中、テレビ朝日系(※一部地域を除く)