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林家たい平、先が見えなかった修業時代。耐えられたのは“不退転”の気持ち「ここで辞めてしまったら落語家になれない」

美術大学でデザインの勉強をしていた3年生のときにラジオで柳家小さん師匠の「粗忽長屋(そこつながや)」を聞いたことがきっかけで落語家になる決意をした林家たい平さん。

大学卒業後、幼い頃から家族そろって『笑点』(日本テレビ系)で見ていた林家こん平師匠に弟子入りすることに。厳しい修業時代を経て、2000年に真打に昇進。

自らの独演会や全国での落語会など精力的に活動し、著書も多数。落語家としてだけでなく、タレント、歌手、俳優、ラジオパーソナリティー、ナレーター、文筆家、武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科客員教授、YouTubeなど幅広い分野で活躍中。

 

◆オレンジが好きな人に悪い人はいない

たい平さんが落語家になるという話をしたところ、母親は「やりたいことをやりなさい」と言ってくれたが、テーラーを営む職人気質の父親には猛反対されたという。

「母親は芸事(げいごと)が好きでしたし、なんとなく薄々感づいていたみたいなので『やりたいんだったらやれば?私は応援するから』ということだったんですけど、父親には勘当同然の勢いで反対されました。

僕には兄と姉がいるんですけど、大学まで出してもらったのは僕だけなので、『広告代理店だとか大会社に入って両親の面倒も見るから』と言っていたのが、落語家ですからね。ずっと大反対していました。

でも、落語家になることに反対なのではなくて、自分一人ぐらい反対していたほうが僕のやる気に火をつけるというか、『なにクソ!』と思って頑張れるだろうという、父親らしい優しさがあって反対していたんだと思います」

1987年、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科を卒業したたい平さんは、林家こん平師匠に弟子入りすることに。

「うちの母親がオレンジ色が大好きで、よくオレンジの服を着ていて、僕に買ってくれる服もオレンジ色の服が多かったので文句を言ったら、『オレンジが好きな人に悪い人はいないのよ』って(笑)。

子どもの頃から家族みんなで『笑点』を見ていたので、オレンジ色の着物を着た“林家こん平”が強烈に印象に残っていましたし、お客さんを楽しませようというパワーがブラウン管から伝わってきていました。

お弟子さんたちから漏れ聞こえてくる話からも『芸人らしい芸人』の匂いを感じたので、こん平師匠の一番近くで学びたいと思ったんです」

-それでこん平師匠に弟子入りすることに?-

「はい。根岸の大師匠(林家三平)のお宅で、大師匠のおかみ(海老名香葉子)さんと、こん平師匠に『入門させてください』とお願いすることができました。

ただ、僕の場合、秩父から通うことはできませんし、大学卒業後も親から仕送りをもらってアパートを借りることもできないので、そのことを師匠に話したら『根岸の大師匠の家に住み込みで働かせてもらいなさい』と言ってくださって。

大師匠は亡くなっていましたが、ひとりだけ兄弟子が住み込んでいたんですね。もう少しでその先輩が二ツ目になって独立するので、大師匠宅に住み込みでの修業を許されることになったんです」

 

◆先が見えず不安だった修業時代。屋上でひとり泣いたことも

根岸の大師匠宅に住み込みで修業を許されたたい平さんだったが、これは「行儀見習い」という扱いで、「弟子にする」という入門許可ではなかったという。

「最初の1年間は弟子にもしてくれないし、名前もくださらない『行儀見習い』で、ただひたすら毎朝早く起きて掃除、洗濯、お使いという、お手伝いさんのような生活でした」

-1日のスケジュールはどんな感じでした?-

「朝7時に起きて家中を掃除することから一日が始まるんですけど、皆さんが寝ている時間なので掃除機は使わずにほうき、はたき、雑巾(ぞうきん)がけのみで、玄関まわりを掃除して洗車をしてから朝食。

そのあと窓ふき、おかみさんやご家族のほうの部屋の片づけと掃除、お風呂の掃除。お昼ご飯を食べた後は、庭や駐車場の草むしり、買い物に行って夕食の準備。

夜はお客さまが見えるので、接待のお手伝いをして、仕事が全部終わるのが夜中の2時くらいという感じでした。そんな毎日が6年半ほど続きました」

-かなりきついですね-

「そうですね。いつ落語家にさせてくれるのかもわからないし、期限を切って、1年頑張ったら弟子にするというわけでもないので、『これは何年続くのかなあ』って思いながらやっていたんですけど、1年ちょっとで弟子にすると言ってくださいました」

-「林家たい平」というお名前をいただいたのは?-

「1年ちょっとを終えて弟子になってからです」

-それまでものすごく不安だったと思いますが、モチベーションを維持できたのは?-

「それはもう落語家になりたいという思いだけですよね。ここで辞めてしまったらもう落語家にはなれない。不退転の気持ちだけです。

大学時代の友だちから『デザイン事務所でこんなポスターを作った』とか、『こんなCMに関わっている』というような声を聞いて、いっぱいいろんなものを見て聞いて自分を成長させる一番良い時期に、掃除、洗濯、お使いで不安にはなりましたけど、それ以上に落語家になってからの夢のほうが大きかったので、そこはブレることがなかったです」

-修業生活はかなりきつかったのでは?-

「そうですね。でも、厳しいことは全部忘れちゃうので(笑)。今考えると、誰もできない6年半の住み込みという経験をさせてもらえたのは、逆にありがたいことだったなあと思っています」

-6年半の住み込み生活というのはかなり長いほうなのでは-

「そうですね。普通は長くても4年とか5年くらい。僕はまず行儀見習いの1年ちょっとがあるし、前座の修業が終わった後もすぐにおうちを出るわけじゃなくて、『もう少しいてお掃除、洗濯お手伝いします』という『お礼奉公』もあったので、それも入れて6年半。

長いといえば長いですけど、その6年半ずっと嫌がらずに、おうちに居させてくれたということに感謝です。どこの馬の骨だかわからない若いやつがうちの中に一緒にいるわけですからね。それにはすごく感謝しています。

あの6年半がなかったら、多分今の自分はないんだなと思っているので、すごくいい時間でした」

-たい平さんは、電気関係のことから大工仕事、家事全般まで何でもできるんですね-

「はい、何でもできます。いまだにおかみ(海老名香葉子)さんから『あそこが壊れたからたい平直しに来て』って言われますもん(笑)。

『大工さんに頼んだほうがいいですよ』って言うと、『でも、あんたのほうが頼みやすいから』って(笑)。そうやってときどき連絡が来ます。今はコロナ禍なのでなかなか行けないですけど、コロナの前は釘を1本打つのに電話がかかってきたりしていました。

『それは今のお弟子さんでもできますよ』って言うと、『いや、たい平が来て打ってくれたほうがいい』って思ってくれているのはうれしいです。住み込みをした関係性の、特別な情の通い合わせ方というか、それはやっぱり全然違う世界ですかね」

-お風呂掃除も全部やってらしたそうですが、そのお風呂にはたい平さんは入るわけではなかったとか-

「入れないです。お風呂屋さんに行っていました。銭湯は仕舞(しまい)湯が夜中の12時くらいなので、12時から12時半くらいに。もう桶とかを洗いはじめている頃でしたけど、お風呂屋さんも僕が弟子だとわかっているので、特別に入らせてくれていました。それが自由時間でした。その時間以外は、何かしらの用事があったので。

お風呂から帰ってきても、まだお客さんがいるとそのまま寝ることはできないので、台所の隅に立って用事をして、お客さんが帰ってから片付けて寝るんです」

-すごい生活ですね。怒られたりすることは?-

「僕はあまり怒られたという思い出はないです。ただ、先が見えない修業だったので、ときどき精神的にきつくなって、そういうときにしばらく心を落ち着かせる意味で屋上の家庭菜園でメソメソしたりていたことはありました」

 

◆こん平師匠のアドバイスで真打になるのを1年先に延ばして

こん平師匠から「林家たい平」という名前をいただいて弟子になったものの、落語の稽古は修業の時間には入っていないため、自分で稽古時間を捻出(ねんしゅつ)しなければいけなかったという。

「お客さんが帰った午前2時くらいに自分の部屋に戻って稽古するしかないのですが、眠気のほうが勝っているので、そこから稽古しようなんて気持ちにもならなくて。

だから寄席の行き帰りとかですね。台東区の根岸から浅草の演芸ホールまでだと30分間、落語を稽古しながら歩いていくとか、そうやって自分で時間を作らないと、稽古の時間はないんですよ。

落語は、見て聞いて覚えたらいけないんです。お願いして稽古をつけてもらって『いいよ』って言われないとお客さんの前ではできないので」

-落語家になるという決意は一度もブレることはなく?-

「はい。一人前になったら、あれもしたいこれもしたいというのはいっぱいありましたから、そこに向けてその夢を見ていれば、つらいことがあっても苦にならなかったので。

とは言っても、前座の後半くらいになってくると、皆さんに可愛がっていただいて楽屋で働く仕事をたくさんいただいていたので、おうちにいる時間よりも楽屋で働いている時間、先輩の落語を聞いている時間のほうが多かったんです。だから修業の後半は苦しいとかつらいというのは一切なかったです」

1992年、たい平さんは二ツ目昇進。1993年に初めて出演したテレビ『NHK新人演芸大賞』で優秀賞を受賞する。1995年には『ふるさと愉快亭~小朝が参りました』(NHK)にレギュラー出演し、ラジオの仕事もはじめることに。そして2000年3月、真打に昇進する。

「最初に真打にという声がかかったときに師匠に『今真打になると、飛び越してしまう先輩の人数が多いので、後々あまりいいことがない。みんなに祝福されて真打になったほうがいい。あと1年待って、もっと実力をつけてからなったらどうだ? でも、1年待ったあと、お前を真打にという声がかからないかもしれないけどどうだ?』と言われたので、『師匠の言葉を信じます』って1年間待って、1年後に真打になったんです。

でも、その1年間は落語の稽古をいっぱいして、今、自分の得意なネタになっているのは、ほぼその時期に覚えた落語なので、師匠の言う通りにして本当によかったなと思っています。やっぱり師匠の見抜く力というのはすごいなあと思いました」

-たい平さんが真打になったとき師匠は?-

「あまり褒めない師匠でしたけど、それはすごく喜んでくださったのかなあ。師匠の誕生日に真打のパーティーをしました」

-たい平さんのお仕事に関して師匠は何かおっしゃっていたのですか-

「寄席に出ているときに師匠がトリを取っていて、その前に僕が出たりしていたので、そういうときは袖で見てくれたりはしていましたけど、何も言わなかったです。

色々言いすぎるとその師匠の型から抜け出せなくなっちゃって、その師匠のミニチュアにしかならないので、よっぽど間違っている場合以外は、ほかの師匠もあまり言わないと思います」

 

◆こん平師匠の代打で『笑点』に出演することに

2004年、こん平師匠が声帯を患い入院。年末からたい平さんが師匠の代打として『笑点』に出演することに。

-こん平師匠の代わりにたい平さんが出演されるということは、最初から決まっていたわけではないのですか?-

「はい。若手大喜利に出演する僕らのところに『笑点』のプロデューサーがやって来て、『座布団が一番多かった人にこん平師匠の代打としてレギュラー大喜利に出演してもらいます』と言われて、リアルに最後までわからないという感じでした」

-若手大喜利に出演していたこん平師匠のお弟子さんはたい平さんだけだったそうですね-

「はい。だから『何とかしなきゃ』って思えば思うほど力が入っちゃって、全然おもしろいことが言えなくて。若手大喜利の司会が(春風亭)昇太兄さんで、弟子師匠の関係性というか、思いというのがわかるので、昇太兄さんも『多分たい平はこん平師匠の席を自分で守りたいんだろうけど、その気持ちが強すぎて、おもしろいことを今日は全然言えないんだなあ』って思っていたと思います。

そんななかで昇太兄さんがどうしたらいいだろうって思ったときに、『あいつには座布団をあげられないから、他の人の座布団を取っていこう』って。それで、僕は座布団3、4枚で優勝したんですよね。

僕の隣の先輩とかは、『何でおもしろいことを言っているのに座布団を取っていくんだよ』って言っていました(笑)。

でも、多分先輩たちもみんな『たい平が代打で師匠の席に座るのがいいんじゃないか』って思ってくれていたと思うし、そういう気持ちでいてくれたんじゃないかな」

-それでたい平さんに決まってすぐに『笑点』に?-

「はい。決まってから30分もしないうちに、師匠のこん平の寸法のままのオレンジ色の着物を着せられたので、ちょっとツンツルテンだったんですけど、考える間とか喜ぶ間とか、そんなのもなく、第1回目を収録しました」

-いきなりで緊張されたでしょうね-

「はい。それはもう、子どもの頃から見ていた『笑点』の風景を横で見るということは、あまりないことですよね。

あまりに緊張していたので、『チャラーンな弟子のたい平でーす』というところを『チャラーンな弟子のこん平でーす』って言っていましたからね(笑)。

自分では『たい平です』と言ったつもりだったんですけど、多分オレンジ色の着物を着た時点で、オレンジはこん平というのが子どもの頃から頭の中にあって、それがそのまま出たんでしょうね。

そうしたら(三遊亭)楽太郎師匠、今の円楽師匠が、『お前はもう師匠の名前を継ごうとしているのかよ。悪いやつだなあ』って(笑)。それが第1回目でした。

だからもうびっくりですよね。最近高校生とかに『子どもの頃から見ています』って言われて、『ああ、うちの師匠のこん平?』って言ったら、『いや、子どもの頃からたい平さんでした』って言われて(笑)。『ああそうか、もうそうなるんだ』って。

僕ももう17年目ですから17歳の高校生だと、物心ついたときから僕が出ていましたよね。自分も子どもの頃から『笑点』を見ていたわけですから、不思議な気持ちです」

2006年、こん平師匠の降板により『笑点』の大喜利のレギュラーメンバーになったたい平さんは、同年『芝浜ゆらゆら』でCDデビュー。2010年には、武蔵野美術大学客員教授(芸術文化学科)に就任するなど活躍の場を広げていく。

次回後編では、こん平師匠の思い出、主演映画『でくの空』の撮影エピソード、YouTubeなども紹介。(津島令子)

©2022 チョコレートボックス合同会社

※映画『でくの空』
ユナイテッド・シネマ ウニクス秩父及びユナイテッド・シネマ ウニクス上里にて先行公開中。2022年8月26日(金)よりアップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
配給:アルミード
監督:島春迦
出演:林家たい平 結城美栄子 熊谷真実 林家ペー 池田愛ほか
埼玉県・寄居町や秩父市を舞台にした、仕事中の事故で部下を亡くした男の心の再生の物語。電気工事店を営んでいた周介(林家たい平)は、長年ともに働いてきた従業員を工事中の事故で亡くしてしまったことから店をたたむ。妻子と別居して父(林家ペー)の元に身を寄せ、姉(熊谷真実)が営むよろず代行屋を手伝うことになった周介は、何かと亡くなった従業員の母・冴月(結城美栄子)の世話を焼こうとするが…。