林家たい平、落語との衝撃的な出会いは大学3年。その直前にはラジオ落語に「わー、落語だ。つまんないだろうなあ」
長寿番組『笑点』(日本テレビ系)の大喜利レギュラーメンバーとして知られ、老若男女問わず絶大な人気を誇る落語家・林家たい平さん。
NHK新人演芸大賞優秀賞をはじめ多くの賞を受賞し、自らの独演会や全国での落語会など精力的に活動。さらにタレント、歌手、俳優、ラジオパーソナリティー、ナレーターとしてテレビ、ラジオ、映画、CMに多数出演。
2010年から武蔵野美術大学客員教授(芸術文化学科)に就任し講義も担当。YouTubeチャンネルも大好評で幅広い分野で才能を発揮している。2022年8月26日(金)には、主演映画『でくの空』(島春迦監督)の東京公開も控えている林家たい平さんにインタビュー。
◆小さい頃からモノマネと歌で人気者
1964年、たい平さんは埼玉県秩父市でテーラーを営む職人気質の父親と社交的で明るい母親の次男として誕生。「明るい子に育って世の中を明るくする人になって欲しい」という願いから「明(あきら)」と名付けられたという。
「うちがテーラーを営んでいたので、ひっきりなしに家族以外の人が出入りをしていましたし、そういう意味では大人に囲まれて育っていたので、ちょっとおませさんで、ひょうきんな子どもだったと思います。うちに来る大人たちを喜ばせるために、よくいろんな人のモノマネをしたり、歌を歌ったりしていました」
-小さいときから芸達者だったのですね-
「芸達者というほどではないですけど、うちの夕食には必ず知らない人というか、お客さまがいたんですね。母親が『今日家で飲んでいったら?』って誘っていたので、毎晩のようにお客さんがうちの家族と一緒に夕食を食べながらお酒を飲んでいて。
それで僕がモノマネをしたり、歌を歌ったりすると喜んでくれて、お酒も入ってお客さんが気持ちよくなると、『じゃあ、スーツを一着作るか』って言ってくれる。毎日がそういう感じでした」
-とても良いご家庭ですね-
「本当にそう思います。笑いが絶えない、必ず誰かがいる、いつも人が集まる家でした。お客さんがいてニコニコしていると、僕たちも『勉強しろ』とか、『早く寝なさい』とか言われなくて、みんなでワイワイガヤガヤずっといられるので、『みんなで笑っていられるって僕にとっても幸せなことだな』って、多分子どもの頃から感じていたんだと思います」
-絵も小さいときからお上手だったのですか-
「いいえ。絵はあまり上手ではなかったというか、兄がものを作ったり絵を描くことがすごく上手で、子どもの頃からかなわないとわかっていたので、ものを作ったり、絵を描くことが得意だとは感じていませんでした」
たい平さんが中学3年生になったとき、『3年B組金八先生』(TBS系)の放送が始まり、学校の教師になりたいと思うようになったという。
「金八先生は、汗を流して涙を流して一緒に成長していくという、すごく純粋な教師像だったので、とても良い仕事だなあと思って。
高校で担任の先生に相談したら、自分と同じ美術の教師になる道があるよと言われて。他の人より絵が上手だから、少し勉強すれば美術大学に入れるんじゃないかって言ってくれたので、それから美術の勉強をするようになりました」
高校3年生のときには落語研究会の後輩に「色物が欲しいから出てください」と頼まれて文化祭の舞台に立ったりしていたが、落語にはまったく興味がなかったという。
「高校の中ではわりと賑やかな存在だったので、友だちと漫才をやったりしていました。ちょうど『イモ欽トリオ』が流行(はや)っていたので、友だちと3人でトリオを組んで学校の中を回ったりだとか、そんなことはずっとやっていました」
※林家たい平プロフィル
1964年12月6日生まれ。埼玉県出身。武蔵野美術大学造形学部卒業。1987年、林家こん平に弟子入り。1988年、正式に入門を許され「林家たい平」に。2000年、真打に昇進。2006年から『笑点』大喜利メンバーに。『ぶらり途中下車の旅』(日本テレビ系)、『ゴルフ 天下!たい平』(BSテレ東)、『ナニコレ珍百景』(テレビ朝日系)、『林家たい平 たいあん吉日!おかしら付き♪』(文化放送)などテレビ、ラジオ、CMに多数出演。2014年には自ら企画・監修した映画『もういちど』(板屋宏幸監督)に主演。落語のCD、著書も多数。2016年、『24時間テレビ「愛は地球を救う」39 愛~これが私の生きる道~』(日本テレビ系)のチャリティーマラソンランナーとして100.5キロを完走。落語のCD、著書も多数。「たい平美術館」(秩父)もオープンし、幅広い分野でマルチな才能を発揮している。
◆大学で落研に。3年生のときに落語と出会い…
1982年、美術教師を目指していたたい平さんは、武蔵野美術大学造形学部に進学し、落語研究会に入部する。
「美大に落研があるんだと思ってちょっと覗いたら、優しそうな先輩たちが、去年も新入部員が入らなかったので、どうやって落研を終わらせるかという相談をしていたんです。
それで『入部させたりしないから一緒にコタツにあたりませんか?』ってコタツに入れてくれて、話をしていたらとても良い先輩だったので、落語は聞いたこともなかったんですけど、『僕が入ったら廃部にしなくて済むんですか?』って聞いたら、『そうなんだけど気にしないで』って言ってくれて。
ほかに入りたいサークルがあるわけでもなかったので、『じゃあ、入ります』って落研に入ったんです。だから落語が好きで落研に入ったわけでもなくて、この良い先輩たちを廃部から救いたいという想いで入ったんです」
-「入れ、入れ」と勧誘されるよりも心惹かれますよね-
「そうなんですよ。『全然入ろうなんて思わないで』って。それで一人で入ったんですけど、入ってからみんなに『落研だからといって落語をさせるわけでもないし、みんなが集まれて畳が敷いてあって、コタツもあるから、お昼はそこでお弁当も食べられるし課題もできるから入らない?』って声をかけて。僕は1年生なのに勧誘して15人くらい入ったので、いきなり隆盛期を迎えたんです(笑)。それでいきなり副部長になりました。
でも、全然落語に興味がなかったので、落語を聞きに行こうという気もなかったです。短大もあったので、女の子もいっぱい入ってくれて、女の子は漫才をやったりしていました。
落語研究会でありながら落語のことは誰も研究しないで、授業が終わると部室でお好み焼きを作ったりとか(笑)。そんな感じでした」
-落語との出会いは?-
「衝撃的な出会いは大学3年のときでした。毎日課題に追われていて、ラジオを聴きながら絵を描いていたんですけど、その日は音楽番組が終わって次に始まったのが落語だったんですね。
『わー、落語だ。つまんないだろうなあ』って思いながら、チャンネルをそのままにしていたらどんどん引き込まれて、最後はもうゲラゲラ笑っていました。びっくりするぐらいおもしろくて。
柳家小さん師匠の『粗忽長屋(そこつながや)』だったんですけど、『落語ってこんなにすごい世界だったんだ』と思って、そこから夢中になりました。
僕はデザインを学んでいましたが、落語はやっていることは全然違っていそうだけれども、最終的に人を幸せにするというところは一緒だなあって。デザインで人を幸せにすることもできる。でも、落語を使って人をもっと幸せにすることもできるって、そのときに思ったんです。
自分が聞いていて、こんなに笑って、こんなに楽しくなって、毎日課題に追われていた気持ちがすごくスッキリして、『あー、何とかなるか』って、ガラッと気持ちを切り替えさせてくれた。
ラジオから声しか聞こえてこないのに、風景も何もかも想像ができて、人を笑わせて、さらに前向きな気持ちにさせてくれる。これは自分が学んでいたデザインの行き着く場所と、落語が行き着く場所は一緒だと、そのときに気がついて。
だったら、ことによったら紙の上に絵を描いて表現するよりは、しゃべって表現するほうが自分には向いているんじゃないかなと思って、どんどん落語にのめり込んでいきました」
-落語家になりたいということをご両親には話されたのですか-
「いいえ。まだ今みたいにお笑い芸人さんが世の中に認知されている時代でもないし、僕がなりたいと思ったときはバブル全盛期だったので、お金を払って寄席に落語を聞きに来るという人も少なくて。そういう中で落語家としてやっていくというのは、すごい勇気がいりました」
◆落語の道に進むのか決断するための旅に
大学4年生になる春休み、たい平さんは自分が本当に落語家としてやっていくことができるのかどうか確かめるために、「奥の細道」を15日間で歩く旅に出たという。
「母親の着物を男仕立てに直してもらって、下駄を履いて、フンドシを締めて旅に出ました。自分が弱い人間だということをわかっていましたから、途中で落語家に向いていないからって逃げ出したりするんじゃないかと思って、そこをちゃんと見極めるための旅でした。
芸人になるということは本当に大変な選択だったので。今みたいに学校があってお笑い芸人さんになるというのではなくて、寄席に行っても客が一人とか二人しかいないような時代で、どうやって食っているんだろうって、本当に心配になるような世界に入っていくわけですから。
水商売中の水商売みたいな世界に、自分は向いているのか、続けられるか、どうなんだろうという不安がすごく強かったんです。駅舎や公園などに泊まりながらの貧乏旅行でしたけど、自分を追い込んでそこで『どうなんだ?お前』ということをしないと、なかなか難しい仕事なんだろうなと思っていたので」
-旅はいかがでした?-
「最初の5日間は恥ずかしくて何もできませんでした。6日目に仙台に降り立って、老人施設にたくさん電話をして、仙台で一軒と石巻で一軒に『どうぞ』と言っていただいたので、そこで落語を聞いてもらうことに。
仙台でやらせていただいて、『こんなにへたくそな落語で笑ってもらえるんだ』って感じながら石巻に行って、さらにたくさんのおじいちゃんおばあちゃんたちが、『久しぶりに声を出して笑った。楽しかった』というのを聞いて、『ああ、何て良い仕事なんだろう』と思って、落語家になろうというのが決定的になりました。
それで皆さんに『僕は落語家になります。何年後かにはテレビに出ますから覚えていてください』って言いました」
-有言実行ですね-
「そうですね。やるしかないと、そういうところに自分を追い込んで。東北の純粋な方たちを裏切るわけにはいかないという思いが、のちのつらい修業時代も僕を助けてくれました。その旅で落語家になると決めて帰ってきました」
落語家になる決意を固めたたい平さんは、4年生のときに「白鶴杯関東大学対抗落語選手権」で審査員特別賞を受賞する。
「『妖精ピンチッチ』という自作の新作落語をやって、僕が1番笑いは多かったんですけど、下ネタなので、審査委員の皆さんがどうやら下ネタに大賞をあげるわけにはいかないと思ったみたいで、『審査員特別賞』という賞を特別に作ってくださって。それはそれですごい自信になりました」
大学卒業後、たい平さんは幼い頃から家族そろって『笑点』で見ていた林家こん平師匠のもとで行儀見習いをすることに。次回は6年半の修業時代、『笑点』出演も紹介。(津島令子)
※映画『でくの空』
ユナイテッド・シネマ ウニクス秩父及びユナイテッド・シネマ ウニクス上里にて先行公開中。2022年8月26日(金)よりアップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
配給:アルミード
監督:島春迦
出演:林家たい平 結城美栄子 熊谷真実 林家ペーほか
埼玉県・寄居町や秩父市を舞台にした、仕事中の事故で部下を亡くした男の心の再生の物語。電気工事店を営んでいた周介(林家たい平)は、長年ともに働いてきた従業員を工事中の事故で亡くしてしまったことから店をたたむ。妻子と別居して父(林家ペー)の元に身を寄せ、姉(熊谷真実)が営むよろず代行屋を手伝うことになった周介は、何かと亡くなった従業員の母・冴月(結城美栄子)の世話を焼こうとするが…。