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歌手クミコ、人生は「敗者復活戦で生き残った感じです」“絶望期”に訪れた作詞家・松本隆との出会い

1981年、バンドのリーダーと結婚して「高橋久美子」となったクミコさん。

翌年、銀座にあったシャンソン喫茶の老舗「銀巴里」のオーディションを受けて出演することに。しかし、1日5~6ステージでギャラは1200円から源泉税を引かれて、手取り1080円。帰り際に渡される茶封筒に人生の厳しさを予感したという。生活の糧(かて)はピアノの弾き語り。「銀巴里」に出演していることは言わずに10年以上、弾き語りを続けていたという。

 

◆「渋谷ジァン・ジァン」で永六輔さんと出会い

「銀巴里」のオーディションを受けたときには『サン・トワ・マミー』しか歌えなかったクミコさんだったが、手探りでレパートリーを増やしていき、日本の古い歌やポップスも取り上げていくようになったという。そしてクミコさんは、「渋谷ジァン・ジァン」にも出演することに。

「ジァン・ジァンとたまたまお付き合いのある方がいらっしゃり、その紹介でジァン・ジァンに出られるようになりました」

-ジァン・ジァンでは、定期的な枠だけでなく、「高橋久美子の音楽図鑑」という特別枠もあったそうですね-

「はい。夜10時から1時間の特別枠です。それまで永六輔さんなど、いろんな方がされていたんですけど、私も2カ月に1回くらいさせていただきました。良い時代ですよね。それで毎回ネタを考えてやっていました。なかなかスリリングでしたね(笑)」

-永六輔さんとの出会いはジァン・ジァンですか-

「はい。『あなたおもしろいね』という感じで、永さんの十時劇場みたいなところに呼ばれて、超満員の中で晒(さら)されるように、いろいろ歌を歌ったり、話したり…みたいな感じで。

あとは、永さんがいろんな地方に行かれるときに前座みたいな感じで連れていってくださったり、そういう意味では非常に勉強させていただきました。本当にいろんなところに行くことができて、かなりの都道府県を制覇できたのは永さんのおかげです。永さんの助言で芸名を『高橋久美子』から『高橋クミコ』にしました」

-ものすごく知識も豊富な方なので、かなり刺激もあったと思いますが-

「本当に怖かったです。永さんはちょっとおもしろいと思うと声をかけ、それでその人がちょっと売れ出すと興味がなくなっちゃうというタイプの人だと聞いていました。私はそんなに売れなかったですけど、結構厳しい中でいろいろやらせてもらって。

永さんの15分だったら15分で話をきっちり終わらせていく術(すべ)とかを見て、ただあんぐりと『すごいなあ』って。

自分の芸のなさをあらためて感じるというか、もっと工夫できることを工夫できていないこととかを思い知らされて『ああ、やっぱり私はダメだなあ』って思うことが多かったですね」

 

◆集団生活がイヤだったミュージカル出演。そして離婚も

1985年、クミコさんは、青山スパイラルホールのこけら落とし公演のミュージカル『マック・ザ・ナイフ』に出演することに。

「たまたま新聞を見ていたらオーディションがあるというので、行ってみました。踊りも全然できなかったんですけど、歌だけは良かったらしくて、本来なかった役を作ってくれたんです。傍若無人(ぼうじゃくぶじん)で本当に失礼なやつなのに、出演させていただいたので感謝しています」

-稽古を入れて約2カ月間の集団生活はいかがでした?-

「もうイヤでイヤでしょうがなかったです。ほんとにイヤでした。でも、今思えばものすごい人たちがたくさん出ていたし、楽しかったですね。

豊川悦司くんは、まだまったく無名でしたが、エネルギーはただならぬものがあったし、憧れの林隆三さんと会えたりとか…。でも、やっぱり集団というものをあまりに知らなさすぎて、もうちょっとちゃんとやっておけばよかったって思います(笑)」

1987年には『レ・ミゼラブル』の日本初演にアンサンブルの一員として出演。そして、離婚したのもその年だったという。

「『レ・ミゼラブル』をしようという頃に、まさしくレ・ミゼラブルで、『ああ無情』が、自分に悲劇が起こったのが離婚ですね」

-一緒に曲を作って音楽活動されていたのに?-

「彼はとても良い人でしたし、そのまま続けることもできたんですけど、何か違うことがしたくなっちゃったという感じですかね。魔が差したというか(笑)。まさしく人生のレ・ミゼラブルになっちゃいました」

-『レ・ミゼラブル』はさらに多くの方たちとの集団生活だったと思いますが-

「最悪ですね。あれは私の中では、人生のある種の黒歴史ですから。他の方に迷惑をかけたことも含めて。本当に迷惑をかけました。

私がミュージカルに関わるとほとんどの人に迷惑をかけていますから、周りの人に。自分が向いていないということは、やればやるほど迷惑をかけてしまうので、もう二度と関わらないようにしています。

一人でやっている分には、自分が失敗したら自分で責任を取ればいいんですけど、自分の失敗が誰かにいくことをあまり考えていないということですよね。

自分の失敗が人に多大な迷惑をかけるということ。それが舞台装置だったりすると命の危険にも関わるじゃないですか。そんなことも考えないで、のほほんと自分は平気だと思ってやっていたのが、本当に迷惑をかけたことばかりですね。

それに歌を歌うときにみんなと一緒の言葉を歌わなきゃいけないでしょう? 自分一人違うことを歌っちゃいけないわけですよね。それは当たり前のことなんだけど、非常に窮屈で。何かダメなんですよね。今もそうなんですけど、間違えちゃいけないと思うと間違えちゃうんですよ。案外粗雑にできているので。

やっぱりみんなで声を揃(そろ)えて歌う喜びを感じない限りは、できない仕事ですよね。それが何よりの喜びで、そのハーモニーに最高の喜びを感じなかったのがまずかったんですね。

だって自分のパートわからないで出ているんですから。ちゃんと練習してないんだから感じようがないんですよね。だから本当にひどいと思います。自分の身から出たサビです。

私は人生をチョロく考えて、ことごとくしっぺ返しを受けた人生だなあと思います。何か敗者復活戦で生き残ったという感じですね(笑)」

 

◆「銀巴里」閉店。「ZAKKA BAR」のママに

1990年、「銀巴里」が閉店。クミコさんは「前略、越路吹雪様」というコンサート開催をはじめ、ライブ活動を続けていく。そして1998年には「ZAKKA BAR」のママに。

-「銀巴里」の閉店を聞いたときにはいかがでした?-

「やったなあと思いましたね。というのは、私はクビになりそうだったんですよ。『クミコ、クビになりそうだよ』って『銀巴里』のマネジャーに聞いていたので。

でも、別におもしろくもなかったので、そのときには何とも思ってなかったんです。だけど、『クビって、これから履歴書を書くときにどう書くんだろう。イヤだなあ』と思っていたら、私がクビになるより先に『銀巴里』がなくなるって決まっちゃって、『勝った!』って思いました(笑)。『やったね。クビにならないで済んだ』って。助かったという感じですよね(笑)」

-その頃はどれぐらいのペースで「銀巴里」に出演されていたのですか-

「減らされちゃって、1カ月に1回くらいになっていました。クビになりそうだったから、『銀巴里』に出ていた人たち、皆さんが出るお祭りのような最後の祭典にもお声がかからなかったくらいで。

だから何の未練もなく、今も皆さん結構『銀巴里』に心残りをお持ちの方が多いですけど、私は最後がそうだったので、複雑な気持ちがします」

-戸川昌子さんは泣いたとおっしゃっていましたね-

「ほとんどの方がそうだと思います。私はそんなにシャンソンに命をかけてなかったこともあるし、クビになりそうだったし、その場所に対してもうすっかり熱が冷めていたというのもあるので、未練とか心残りは全然ないですね。ただ、『銀巴里』に出ていて得たことというのは宝物です」

-その後、「ZAKKA BAR」もされていたとか-

「はい。40のときに『結構やばいなあ』と思って。『四十にして惑わず』っていうじゃないですか。惑っていて惑わずにならない、困ったなあって。

先が見えないし、歌い手はもうダメだなと思ったんですね。それで『目指せ、銀座のバーのママ』と、『目指せ、向田邦子』という二つの目標を掲げて、どっちかで生きようって決めたんです。

それですぐにまた行動して、青山にあるシナリオセンターに通いはじめて、あともう一つは雑貨バー。

知り合いの店に行ったらピアノの上にぬいぐるみとか雑貨が置いてあったので、『ここでバーをやって酒を飲む店を作ったらおもしろいんじゃない?』って思って、さっそく『ZAKKA BAR』をはじめて両方やってみたんですけど、どっちもダメでしたね(笑)。あえなく退散という感じでした。そんなのばっかり(笑)。あえなく敗退の人生です」

 

◆歌手生命危機の声帯結節手術。松本隆さんとの出会い

「ZAKKA BAR」をはじめて失敗した1998年、クミコさんは声帯結節手術を受けることに。ステージで『ラストダンスは私に』を歌った最後にブチッというイヤな感じがして声が出なくなったという。

-歌い手さんにとって声帯の手術というのはかなり不安になったのでは?-

「結構ドツボの頃でした。一番の絶望期ですね。今はいろんな治療法、手術の方法があるから大したことないみたいなんですけど、その頃は、ただ手術をして入院するしかなくて。全身麻酔でしたし、これでもう終わりかなあみたいな感じは結構していました」

-前と同じように声が出るようになって本当によかったです-

「そうですね。私は結局、その手術を2回しているんですけど繊細な声でもないので、何とかなるかなと」

-松本隆さんとの出会いは手術の後ですか-

「そうです。その大絶望期から急に運気が良くなったという感じで(笑)。松本さんにその前に作ったCDをお送りしたら、この人何かおもしろそうだからということで、松本さんの事務所にお呼ばれして。

お話をしていくうちに、あの方もすごくフットワークが軽い方なので、『歌を歌うときにちょっと聴きにいきますよ』という感じで、元『ZAKKA BAR』のところのピアノを利用して聴いてもらって、そこからですね」

-松本隆さんはクミコさんのアルバムを聴いて「あなたの歌には言霊(ことだま)がある」とおっしゃったそうですね-

「はい。そう言ってくれました。ありがたかったですけど、ちょっと言霊というのが怖いなって(笑)。『霊ですか?』って」

-松本さんのアドバイスで芸名を現在の「クミコ」にされたそうですね-

「はい。『別れた亭主の名前をいつまでも付けているから売れないんだ』って言われてクミコにしました」

-2000年に松本さんが全編の作詞を手がけたアルバム『AURA(アウラ)』が発売されてクミコさんのことが広く知られることに-

「これで私に運が向いてきたというか、『これで私ってスターになれちゃうの?』って、またチョロく考えちゃうところがあくまでも懲りないというか…(笑)。妄想だけはすごいんですよ。何でもチョロく考えやすいんですけど、チョロくはないんですよね、人生は(笑)」

クミコさんは、2002年に発売されたアルバム『愛の讃歌』に収録された楽曲『わが麗しき恋物語』が口コミで評判になり、ラジオ番組などでも選曲されて話題に。2007年には中島みゆきさんが『十年』という楽曲を書き下ろすなど、影響力の大きな業界人からも絶大な支持を集めていく。

次回後編では、2010年に初出場した『紅白歌合戦』(NHK)で歌った『INORI~祈り~』との出会い、石巻市で被災した東日本大震災、歌手生活40周年などを紹介。(津島令子)

ヘアメイク:鎌田順子(JUNO)

※デビュー40周年記念シングル『愛しかない時』
2022年8月10日(水)発売
27歳のときに、ジャック・ブレルが作詞作曲した世界的反戦歌に、クミコさんが日本語詞をつけて歌唱した自身の原点ともいえるシャンソンの名曲を新録音。カップリング曲は、菅原洋一さんの代表曲を菅原さんとデュエット。

※「クミコ銀巴里デビュー40周年記念ツアー」
2022年8月13日(土)大阪・サンケイホールブリーゼ
2022年9月10日(土)名古屋・日本特殊陶業市民会館 ビレッジホール
2022年10月2日(日)道新ホール
2022年10月22日(土)南相馬市民文化会館
2022年11月8日(火)石巻・マルホンまきあーとテラス
2022年12月4日(日)EXシアター六本木