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サヘル・ローズ、8歳で養母と日本へ。虐待、路上生活、いじめ…過酷な日々で死を考えたとき見つけた「生きる目標」

イランが隣国との戦争で困窮した時代に生まれ、身寄りをなくして孤児院(児童養護施設)で育ったサヘル・ローズさん。

7歳のときにテヘラン大学院生だったフローラさんと出会い、彼女の養女となって8歳のときに日本で暮らすことになるが、義父からの虐待、ホームレス、酷いいじめ…さまざまなつらい目に遭い、死ぬことも考えたというが、高校生のときにエキストラ、ラジオリポーターとして芸能界で仕事をはじめ、『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日系)で10年間リポーターとして活躍。

2017年に主演した短編映画『冷たい床』(末長敬司監督)でミラノ国際映画祭(MILAN IFF)外国語映画部門・最優秀主演女優賞受賞。映画『女たち』(内田伸輝監督)、舞台『グッドピープル』など数多くの映画、舞台に出演。2022年1月、著書『言葉の花束 困難を乗り切るための“自分育て”』(講談社)を出版。5月6日(金)には映画『マイスモールランド』(川和田恵真監督)の公開が控えているサヘル・ローズさんにインタビュー。

◆孤児院で運命の出会い「養母は健康なからだにメスを入れて…」

イラン西部の小さな町で生まれたサヘルさんは、物心つく4歳の頃から養母・フローラさんに引き取られる7歳まで児童養護施設で生活していたという。

「施設で生活していたことがすごく性格に響いたと思うんですけど、おとなしかったみたいです。施設には私のような子どもがたくさんいて、誰かに話をきいてもらえる状況にはなかったので、お腹(なか)がすいたとしても言わない。誰も自分のことを気にしていないし、誰の瞳にも私は映っていないんだろうなあという寂しさから、会話をほとんどしていなかったらしいです。

施設で生活をしていたので、衣食住はもちろん与えられてはいたけれども、正直あのときの私は、心が動いたという形跡がないんですよね。だから本当に記憶がわずかしか残っていません。すごく断片的で、何よりも感動した、うれしかった、悲しかったというように感情が動いたことがなかったんです。

ただ、他の小さな子どもたちの世話をよくしていて面倒見のいい子どもだったそうです。みんなお母さんがいないから親代わりをお互いにし合っていたのですが、その中でもすごく優しい子どもだったと、職員さんには人気があったみたいです」

-サヘルさんの場合はお母(養母)さま、フローラさんとの出会いが大きかったですね-

「人生の大きな瞬間でした。その前にももちろんいろんな大人に引き合わせてもらっているんですけども、大人を信じていなかったし、毎回違う人たちと会わされて、自分を迎えに来てくれるわけでもない。

子どものときは、まず怖いし、悲しい。でも、『また次か』って思っていた中で彼女と出会ったときの感情は真逆で、本当に不思議なことに彼女にだけは『お母さん』と言えたんです。

産みの親の顔を覚えているわけでもないので、似ているとかいう感覚はないし、なぜその言葉をあのときの私が言ったのかわからないんですけど、もしかしたら本当に無意識のうちに最後の賭けだったのかもしれない。『助けて』っていう心の悲鳴だったのかもしれないです。

数カ月後には『お母さんになって。私をあなたの子どもにして』って言っていました。その言葉を彼女は本当に真摯(しんし)に受け止めてくれました。でも、『この子が欲しいです』と言っても簡単なことではないんです。

当時は養子を引き取るには、結婚していること、裕福な家庭であること、そして今はこのルールはなくなったんですけど、子どもが授かれない方にしか養子縁組の権利はありませんでした。

母は健康なからだだったんですけど、私を引き取るためにからだにメスを入れて、子どもが産めないからだに自分を変えた上で私を迎えに来てくれたんです」

-ボランティア活動をされていたフローラさんが、多くの子どもたちの中からサヘルさんを選んだのは?-

「『お母さんになって』と言ったのは、私だけだったんですって。それと母も実は親のもとで生活できていないんですね。育児放棄をされて、15歳までおばあちゃん、私からするとひいおばあちゃんの元で育っているんです。ですから今もそうなんですけど、母は本当の母親のことをお母さんとは一切呼ばないです。彼女にとって母親と呼べる相手はそのおばあちゃんだったので。

お母さんが15歳のときに、おばあちゃんは大腸がんで亡くなったんですけど、亡くなる前に『いつか必ず養子を引き取って育てるからね』という約束を交わしていたそうなんです。

それで、私が『マダル(お母さん)』って言った響きが、自分がいつも(養母の)おばあちゃんに言っていた響きと重なって、その瞬間に『この子が、私が引き取る子なんだ』と、お母さんの中で多分すべて覚悟が決まった瞬間だったと思います」

-まだ20代前半という若さで自ら子どもが産めないからだにしてまでサヘルさんを養子にというのは、すごい決断ですね-

「すごい決断だと思います。簡単にできることではないですよね。お母さんの家は裕福だったんですけど、私を養子にすることに反対で家から追い出され、経済的な援助も一切受けられなくなって、卒業まであとわずかだったテヘラン大学院も途中で辞めることになってしまいました。

当時養母は結婚していて、彼は日本で働いていたのですが、私という子どもを抱えた母が仕事を探してもイランでは仕事がないので、私を連れて日本に来ることにしたんです。イランではお父さんの苗字を引き継ぐので、私に義父ができて、その方の許可が得られたからパスポートを作ることができました。イランは男性主義の世界で、女性の権利はないので」

サヘルさんはもともとの名前や生年月日は不明。養母であるフローラさんが、サヘル・ローズ(砂漠に咲く薔薇)と名付け、生年月日も定めてくれたという。

※サヘル・ローズプロフィル
1985年10月21日生まれ。イラン出身。8歳のときに養母・フローラさんと日本へ。高校生のときから芸能界で仕事をはじめ、『GOOD MORNING TOKYO』(J-WAVE)のラジオリポーター、『スーパーJチャンネル』のリポーターとして活躍。2009年、バラエティ番組のキャラ「滝川クリサヘル」が話題に。映画『ペコロスの母に会いに行く』(森崎東監督)、映画『西北西』(中村拓朗監督)、『ドラマW 分身』(WOWOW)、舞台『恭しき娼婦』など映画、テレビ、舞台に多数出演。芸能活動以外にも国際人権NGO「すべての子どもに家庭を」の活動で親善大使を務めた。現在も国内外の子どもたちへの支援を行っている。

 

◆義父からの虐待…真冬に養母と家を出てホームレスに

1993年8月、養母・フローラさんとともに日本に来たサヘルさんは、近所の小学校に留学生という形で通うことになったという。

「言葉も知らないし、文化も宗教も違うので大変でした。日本のことは、テレビで見ていた『おしん』と『キャプテン翼』と『水戸黄門』しか知りませんでした。テレビでは吹き替えだから全員ペルシア語を話していたので、日本に来て初めて日本語を耳にしたのですが、慣れない言語の人たちからすると、日本語の響きはすごく怖いんです。あと、今だと慣れているから違いがわかるんですけど、当時はこの国の人たちがみんな同じ顔に見えて、『双子で溢れているなあ』って(笑)。

ワンルームで義父と養母と私の3人で暮らしはじめたのですが、私も悪い子だったんです。やっぱり急に家族ができたことに戸惑ってしまって、試し行動をたくさんしてしまったんですよね。

ものを壊したり、盗んでみたり…悪いことをして、『どのくらいまで悪いことをしても許してくれるんだろう?』、『私のことをどれだけ愛してくれているのかな』って。そのことによって愛情を確かめたかった、ただただそれだけだったんです。

養母は心理学を学んでいたから、すごくゆっくり私に歩幅を合わせて歩いてくれていたんですけど、義父はそれにどんどんストレスが重なってしまって、ストレスの矛先は自然と子どもに向きますし、しつけの一環からそれが徐々にエスカレートしてしまったので本当に暴力に発展してしまって…。

ある真冬の雪が降っている晩に、このままだともう無理だと。義父か私のどちらかを選ばなければいけなくなって、養母は離婚という決意をして二人で家を出て、路上生活をすることになったんです。

日本に来ることができたことは義父に感謝していますけど、後に彼からの虐待があったりとか、異国の地で私たちを外に放り出してしまった彼の行いは許されることではないので複雑です。

でも、結局は彼がしてきたことは苦しかったけれども良かったのかなって。なぜなら虐待は賛同できないけれども、出て行くことになって彼から切り離されたおかげで、いろんな方々と出会って人生がスタートしたんですよ。ですから、『すべての出来事に意味があるんだなあ』って本当に思う人生です」

-路上生活はどのように?-

「運が良かったです。ドラム缶があって良かったなあって。当時は午後8時まで図書館が開いていたので、そこで暖をとっていましたし、近所のスーパーの試食コーナーでお腹を満たしたりしていたので、ギリギリ何とかしのいではいたんです。

でも何よりも救ってくれたのが地域のお節介文化でした。今だと多分それはもう不可能なことなんですけど、29年前はやっぱり地域社会でお節介をし合えたりとか、地域のコミュニティーがあって、『みんな大丈夫?』って手を取り合って生きられる文化がまだ残っていたんです。

スーパーの試食コーナーにしょっちゅう行っていたら、あるときそこのお母さん(従業員)に声をかけられたので、怒られると思っていたら、おうちから持ってきた食べ物がいっぱい入った紙袋を渡してくれて。日本語を教えてくれた校長先生もそうですし、いろんな方々が面倒を見てくれたので、日本の父母というのはたくさんいると思います」

-小学校では校長室で日本語を勉強されていたそうですね-

「はい。校長室で日本語を教えてもらって、給食の時間だけ教室に行くんです。私にとって学校は、お腹を満たしに行く場所でした。給食の時間が1番の目的だったので。

でも、その時間までは校長先生が日本語を教えてくださって、その数カ月のおかげで、早い段階からある程度は日本語をマスターすることができたので、親の通訳代わりをしてあげていたんです」

-路上生活はどのくらい続いたのですか-

「2週間くらいです。学校で給食を作っている給食のおばちゃんが、2週間も同じ洋服で学校に行っていた私に『大丈夫か?どうした?』って声をかけてくださったんですよね。

子どもは私に限らず、自分から家の事情を話せないんです。路上生活をしていることは大変なことだと思っていなかったし、言えなかったんですけど、わかる日本語で聞いてくれたので、『パーク、パークにいる』って、使える単語だけで伝えたら理解してくれて。

『じゃあ、もう行かなくていいから、家にいらっしゃい』って、私と母をその日からずっと泊めてくれて、新しい洋服や自転車も買ってくれたし、ご飯も食べさせてくれたんです。

給食のおばちゃんもシングルマザーで娘さんを一人で育てていたので、生活が楽ではないわけですよ。お給料もいいわけではないのに、それでもどういう事情かわからない母子を自分の家に招き入れるってすごいことだと思うんですよね。

そのおばちゃんがアパートを借りるときにも保証人になってくれて部屋を借りることができましたし、ビザの手続きなどのときも力になってくれました。そういう意味では、本当に出会いこそ生きる力だと思います」

 

◆小学校高学年からはじまったいじめ。死のうと思ったことも

校長先生の個人指導で日本語が上達したサヘルさんは、フローラさんの代わりに公的な手続きなどを行っていたという。

「外国籍の場合、帰国子女の場合もそうかもしれないですけど、やっぱり子どもはスポンジのようにいろんなことを吸収できますが、親、大人が置き去りにされてしまっているので、その親をサポートする子どもが一生懸命なんですよ。

私もランドセルを背負いながら郵便局や銀行に行って、電気代とか家賃を一生懸命払ったり、わからないことを一生懸命やっていましたし。区役所に行って手続きをしたりとか、本当に小学生の子どもがよくやっていたなあって思います。

でも、やるしかなかった。お母さんにはできなかったし、お母さんは工場とかトイレ掃除とかを一生懸命朝から晩まで身を削って働いていたので、私に唯一できたことが、言葉でお母さんを支えることだったんですよね」

-お母さまが離婚されてから日本で生活する手続きはどのように?-

「ビザの切り替えも給食のおばちゃんが手伝ってくれたんですけど、もともと『家族ビザ』は2回しか更新できないんです。そのあとそのままだと不法滞在者になってしまいます。

お母さんは本当にかわいそうなんです。あと少しで大学院を卒業できるというときに革命があって、その後戦争になって、私と出会って私を育てるためには日本に来るしかなかった。

それですべての夢をイランに置いてきたんです。本当は大学教授を目指していたくらいクレバーな人なのに、日本では言葉の壁によって、テヘラン大学を卒業したことすら何も使えませんでした。

お母さんはお嬢さまだったのでメイドさんが付いていて、そのメイドさんが絨毯織りをしていた人だったので、その人にペルシャ絨毯の織り方を教わっていたんです。それで絨毯を織るということで技能ビザに切り替えてもらって、絨毯を織る仕事をはじめたんです。

日本では『職人だね』って言ってもらえるんですけど、母からするとプライドはズタズタだと思います。いわゆる絨毯織りというのは、イランでは、地位が低くて学校にも行けていない、もっとも貧しいエリアの人たちがすることで、彼女はもともと何もしなくてもすべて与えられていたお嬢さまだったので。

私のためにすべてを投げうって路上生活もして、食べるものもない、トイレ掃除や床掃除など全部やってくれたのは、すごい決断だと思います」

-『徹子の部屋』で拝見しましたが、大変な作業ですね。サヘルさんも小さいときからペルシャ絨毯を織る仕事を手伝っていたとか-

「はい。展示販売とかもしていましたけど、1日8時間やったとしても2、3ミリしかできないんです。だから玄関マット1枚でも完成するまでは1年くらいかかるので、すごい大変ですし、日本で作って完成したものは売れないんですよ。日本の人件費で計算されちゃうので、織り子にはそんなに入ってこないんですけど、結局仲介の方々が入るのですごい金額になってしまうんです。

だから決して売れることはないし、展示会も8月とか暑い時期や湿気がある時期とかも絶対にオファーがなくて、基本9月、10月、11月と、1月、2月、3月がもっともピーク。そのときって展示会が重なるんですよ。

それで土日しか呼んでもらえない。土日だけ働いて家族を支えるのは不可能。しかも私が高校、大学に行くための費用を考えたら、お母さんが働く分だけでは不可能だったので、土日だけでもお手伝いをさせてもらいながら母親をできる限りサポートすることをしていました。

だから私の人生の中で等身大を生きたことはないです。青春なんて知らないし、子どもたちがするようなことをやれたことはないので、今、逆にその反動が来ています。多分すごく幼いです、今(笑)」

小学生の頃からお母さまの通訳代わりも務め、さまざまなサポートをしてきたサヘルさんだが、小学校高学年の頃からいじめの対象に。いじめは中学校を卒業するまで続いたという。

「お母さんには心配をさせたくなかったから、家の中ではお母さんが安心する優等生のサヘルちゃんを演じていました。脚本というか妄想の中で生きるしかできなかった。架空の別の人物になることが、今となっては功を奏しているんですけど、中学時代は苦しんでいました。

中学の3年間、母親のための安心する優等生のサヘルちゃん、でも学校に行ったら行ったでイラン人ということや、いろんなことが重なってしまっていじめの対象でした。

誰かの財布が盗まれると1番最初に『カバンの中を見せろ』と言われるのが私。悔しかったし悲しかった。言葉の暴力、ばい菌ゲーム…当時は『サヘル菌』と言われていて、それを平然と見ている大人、何も注意しない先生。苦しかったです。

きっと全員がいじめじゃなかったんですけど、守りたくても、もし私を助けちゃうと、今度は自分がいじめられると思って俯瞰(ふかん)で見ている子たち。

今は大人なので、全員じゃなかったんだなってすごく理解できるんですけど、あのときいじめられていた当事者からすると、誰も守ってくれない、俯瞰で見ている傍観者も、私からするといじめの一味なんですよ。今思うと、すごく大事なのは、『もし気づいたら絶対に手を差し伸べてあげて』って。

なぜなら本当に孤独な人間は、どんどんどんどん自分を追い込んでしまう。私は中学3年のときに死のうと思いました。死ぬために早退して帰ったら、仕事でいないはずのお母さんが家にいたので、『死にたい』って言ったんですよね。

そうしたら、『いいよ。でも、お母さんも一緒に死ぬね』って。その瞬間、私はうれしかったんです。それにはふたつ大きな理由があって、それまでのお母さんは、常に強い、生きる人。どんなに大変な状況でも嘆かないし、助けを求めない人だったんです。お金も食べ物がなくても誰にもそれを見せなかった。

だから多分、私たちがそんな生活をしていたことを誰も気づかなかったと思います。お母さんは弱さを一切見せなかった。それがカッコいいと思う一面、私はそれが苦しかったんです。

私も苦しくてしんどいのに、弱さを見せることができなかったから、すごくしんどかったけれども、その日初めてお母さんが枕に顔を押しつけて泣いている姿を見て、その瞬間に『この人も人間だったんだ。一緒に苦しんでいたんだ』ということに気づいて『お母さんどうして泣いているの?』って聞いたら、『疲れた』って言ってくれたんです。それがうれしくて。

『私も疲れたの。疲れて今日、死にたくて帰ってきたの』って言いました。人というのは強がっちゃう生き物なんですけど、強がりって対話にはならないんですよね。

誰かに『頑張ろう』とか、『頑張れ』って言われても、もう無理だからって。生きているだけで頑張っているんだから、『頑張れ』という言葉は、実は1番禁句で、使っちゃいけない言葉だと思うんですね。逆に、『しんどいの、疲れたの』って言ってくれたほうが、私も『しんどい、私も疲れた』って言えるんです。

重要なのは、強い自分を見せるんじゃなくて、傷ついてしまったボロボロの自分を隠さないこと。人と人というのは、言葉として対話としてちゃんと提示しあったほうがいいと思います。

そのことをお母さんとの経験で私は学んだんです。弱さを見せてくれた。それで、死にたいという私の言葉ですら受け止めてくれる。死にたいという私とともに来ようとしてくれている。その瞬間初めて本当の親子になれたと思いました。

それまでは、私の中では『引き取らせて申し訳ない、彼女の人生をダメにしちゃった。申し訳ない』という罪悪感しかなかったんです。どれだけのものをお母さんは私のために犠牲にしたのかって。

そういう意味ではしんどさしかなかったので、そのお母さんがここまでの覚悟を持って向き合ってくれていたのだということを、死に片足を入れたときに気づかせてもらえました。だから(一度は)死という選択をして良かったと、私は自分の人生で思います。そうじゃないと、一生親子になれてなかったと思います」

-お母さんもいろいろつらい思いを抱えながら必死で生きていたということがわかると、サヘルさんの意識も変わりますよね-

「変わります。生きるって自分でできていることではないんですよね。その原動力って、誰かが支えてくれていて、誰かの生きがいになれていることが自分の生きがいにつながるんですよ。『自分なんて必要とされていない』と思う人はたくさんいると思うんですけど、絶対にそんなことはない。自分の存在が誰かの生きがいになれている瞬間はいくらでもあると思います。

私はお母さんが私の生きがいだったし、お母さんにとっても私が生きがいだったんだということを知ったときに、『今度はもうちょっとちゃんと人生を生きてみよう』って思いました。

私はこれから先、生き続けることによって、まずは母にちゃんとした家、ご飯、洋服…お母さんを幸せにしてあげたいって、生きる目標を見つけた瞬間だったんですよね。目標を持って生きると全然見える視線が変わるんです」

意識の変化でいじめも気にならなくなったと話すサヘルさん。高校では良い先生と本当に信じられる仲間をもつことの大切さも知ったという。次回は高校時代からはじめた芸能活動についても紹介。(津島令子)


※『言葉の花束 困難を乗り切るための“自分育て”』
著者:サヘル・ローズ
発行:講談社
イランで生まれ、孤児院での生活を経て、8歳のときに養子縁組した養母と日本へ。差別、貧困、いじめ…一時は絶望して自死も考えたというサヘル・ローズさん。さまざまな困難を切り抜けてきたからこそ紡げる言葉の花束。

©2022「マイスモールランド」製作委員会

※映画『マイスモールランド』
2022年5月6日(金)より新宿ピカデリーほか全国にて公開
配給:バンダイナムコアーツ
監督:川和田恵真
出演:嵐莉菜 奥平大兼 平泉成 藤井隆 池脇千鶴 韓英恵 サヘル・ローズ
「国家を持たない世界最大の民族」と呼ばれるクルド人。クルド人が難民認定された例はこれまでないに等しい。この現状を、17歳の少女の目線を通して描く。埼玉県でごく普通の高校生活を送っていた17歳のクルド人サーリャ(嵐莉菜)は、あるきっかけで在留資格を失い、当たり前の生活が奪われてしまう…。

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