テレ朝POST

次のエンタメを先回りするメディア
未来をここからプロジェクト
menu

永瀬正敏、山田洋次監督に感謝。『男はつらいよ』出演で俳優業に反対の祖父が「初めて認めてくれて天国に旅立った…」

高校1年生のときに映画『ションベン・ライダー』(相米慎二監督)で俳優デビューした永瀬正敏さん。

1989年に出演したジム・ジャームッシュ監督の映画『ミステリー・トレイン』がきっかけで海外の作品にも多く出演することになり、“映画俳優”として広く認知される存在に。

 

◆はじめてのカンヌ国際映画祭でタバコに火をつけまくる?

内容さえ気に入れば、作品の規模や国内外を問わず出演するというスタンスを貫き通してきた永瀬さん。海外でも高い評価を受け、『あん』(河瀬直美監督)、『パターソン』(ジム・ジャームッシュ監督)、『光』(河瀬直美監督)で、カンヌ国際映画祭に出演作が3年連続で公式選出された初のアジア人俳優となったが、はじめてカンヌに行ったのは『ミステリー・トレイン』。そこであらためてジム・ジャームッシュ監督の魅力に気づかされたという。

-はじめてのカンヌ国際映画祭では反響も大きく、永瀬さんはジッポ(ライター)でタバコの火をつけまくっていたとか-

「あれはちょっと大げさなんですけど、ジャームッシュの人気がすごくて、公式上映を見られない人がたくさんいて、公式上映が終わって外に出たら本当に何千人というような人が待っていてくれたんです。

それでジムも感激していて、集合場所のホテルまで僕たちのためにリムジンが用意されていたんですけど、ジムが『こんなに大勢の人たちが待っていてくれる。僕らはこの人たちのために映画を作っている。高価なタキシードや高いチケットを手に入れて観てくれていた人たちだけに作っているんじゃないんだ。お礼がてら集合場所のホテルまで歩いて帰ろう』って言って、ホテルまで歩いて行くことになったんです。ジムの人柄がわかる瞬間でした。

事前にテレビで映画の中で僕がジッポでタバコに火をつけるシーンはいっぱい流れていて、みんな知ってくれていたみたいで、全員がタバコをくわえて待っているんですよね(笑)」

-永瀬さんにジッポで火をつけてもらおうと?-

「はい。それで順番に火をつけていたんですけど、ものすごい数なんですよ。それを見てジムが『この子はこっちにきてから何百人にも火をつけているんだから、もうやめてくれ』って言ってくれて(笑)。いい思い出です」

-すてきな方ですね。だからこそ世界中からノーギャラでもいいから一緒に仕事をしたいとスタッフが集まってくるのでしょうね-

「そうだと思います。そこを受け入れる懐の広さもあるというかね。本当にすてきな人です」

-永瀬さんは『ミステリー・トレイン』ではほかにも映画祭をいくつか回って、その翌年にまたニューヨークに行かれたそうですね-

「はい。ジムとプロデューサーさんが、僕の事務所に掛け合って呼んでくれました。僕が海外に出るのは、『ミステリー・トレイン』の撮影で行ったメンフィスがはじめてだったので、もっといろんなものを見たほうがいいと事務所を説得してくれて、プロデューサーさんの家にルームシェアしてカウチのベッドで寝ていました」

-それでだいぶ語学力がついたのでは?-

「いえいえぜんぜん。みんなにはずっと『ガールフレンドを作れ。それが一番上達するから』と言われていたんですけど、『どうやってガールフレンドなんて作ればいいんだ? その前段階でしゃべれないのに』って言ったら、『外をいっぱい歩いているじゃないか』って(笑)。そんなことできるわけがないじゃないですか(笑)。楽しい4か月でした」

-そのときにはもう国内そして海外で映画をベースにやっていくという決意をされていたのですか?-

「はい。ジム(ジャームッシュ)が本当に惜しみなく自分の仕事仲間や友だちを紹介してくれて、自分で何か特別なものだと思っていたアメリカ映画やフランス映画、ヨーロッパ映画が、そうじゃないと気づかせてくれたんです。日本映画もほかの国の映画も映画は映画だと。

一部で、『このまま海外に移住して、もしくはエージェント契約してやっていけばいいんじゃないか?』と言ってくれた方々もいたんですが、ジムは『いくらでも紹介できるけど、君のためにならないからエージェントは紹介しない』って言ってくれて。

そのときの状況というのは、とくにアメリカでは、例えば日本人も中国人も区別があまりなくアジア人枠というくくりで。またオーディションに行っていかに役を勝ち取るかということになるんだけど、実際にはアジア人がメインの仕事なんて当時はほとんどないんですね。

『だから、こっちのレストランやなんかでバイトをしたりすることになるんだけど、その時間は本当にムダでもったいない。日本の映画はすばらしいんだから、日本でいっぱいいろんないい監督と出会っていい仕事をして、それを世界に観てもらう。それで君は海外からも絶対に声がかかるだろうから、そのときは気軽に来ればいい。そのスタンスを君は作れるし、作るべきだ』と言ってくれて。

『なるほど』って。英語もしゃべれないし(笑)。僕のことをそこまで真剣に考えてくれて…、本当にうれしかったですね。で、これは前からずっと思っていたんですが、あらためて日本映画やアジア映画がダメだというふうには思わなくなりました。どっちの国の映画が上だ下だというようなつまらない価値観も。日本映画にもすばらしい歴史があるし、ちゃんと観てくれている外国の映画関係者やお客さんたちもいるんだって。

そこで出会ったアキ・カウリスマキ監督であったり、いろんな監督さんたちもちゃんとそういう風に見てくれている。上から目線じゃぜんぜんなかったということが大きかったです。上からやられていたらそうは思わなかったかもしれないですけど。そのあと仕事をする海外の人たちはみんなそうではなかったので」

-永瀬さんは出会った方々に本当に恵まれていますね-

「僕はもう出会いだけですね。自慢できるのは本当に出会いだけです。ほかには何もないんだけど、出会いには今でも恵まれていると思います」

-同じ監督さんから二度三度とオファーがあって、そのときに助監督だった方が監督になったときに永瀬さんと仕事がしたいと望まれるケースも多く、いかに信頼が厚い俳優さんかということがわかります-

「ある意味すごい役者冥利に尽きることですよね。なあなあの関係じゃなく、また呼んでもらえたり、しばらく間が空いているんだけど、何かのきっかけでまた声をかけていただいたりするのは、やはりうれしいことですし、助監督さんから監督デビューする1作目に呼んでもらったりするのは本当にうれしいです」

 

◆「待っているだけではダメだ」と自ら会いに

1990年から1991年にかけての10か月間、林海象監督がプロデューサーをつとめたアジアンビート6作品に出演することに。

-ご自身で林海象監督や石井聰亙監督(現・石井岳龍監督)に会いに行かれたこともあったと聞きました-

「はい。林海象さんの会社の忘年会があって、そこにお邪魔して。ちょうど『ZIPANG』という映画の準備中だという話を聞いて『出たい』と言うと、『ジム・ジャームッシュの映画に出た人を脇役には使えない。いつか主役でやろう』と言ってくれて(笑)」

-実際に『濱マイク』シリーズで実現しましたね-

「そうなりました。律儀(りちぎ)な方ですよね。力ある日本映画を世界の人に観てもらうためには、ただ待っていちゃだめだ、立ち止まっていちゃダメだと思って、会える人には会いに行きたいというふうに行動しちゃったんですね。石井岳龍監督も『エレクトリックドラゴン80000V』で実現しましたし」

-今はそういう行動をされる俳優さんも結構いますが、当時はほとんどいなかったので、そういう意味では先陣を切っていたという感じですね-

「そうだったんですかね。それしか出来なかったというか。ジムやヴィム・ヴェンダース監督の作品などが上映されミニシアターというものが確立されるようになったんですけど、その頃はまだ単館系と言っていました。

でも、映画界の中の大きな流れは、単館系の作品は商売にならないと思われていて。そのヴェンダースやジャームッシュなどの存在で毎日立ち見という状態になってから、そこでも勝負できるんだということになって、インディペンデントの映画でも」

-永瀬さんは単館係の作品から大作まで幅広く出演されています。林海象監督とは映画3本とテレビドラマにもなった『濱マイク』シリーズの前にアジアンビートの6作品でご一緒されています-

「アジアンビートに関しては林さんが総合プロデュースなんですよね。僕は最初林さんが監督すると思っていたんですけど、自分では監督せずに、天願大介監督とアジア各国の監督さんで撮ると。

でも、その映画作りに参加できるということはかなりチャレンジでしたけど、自分にとってすごい財産になるだろうなと思いました。日本は、お金は出すけど口は出さない。僕が演じるひとりの主人公トキオがやって来たという設定(決まりごと)だけで、それぞれの国の映画を作ってくれという企画で、その出会いもでかかったです」

-日本人の通訳さんとかコーディネーターはいたのですか?-

「ほぼいなかったですね。単身で回っていたし、プロデューサーの海象さんが1か国に1日だけ来るみたいな感じでした」

-撮影はかなり過酷だったのでは?-

「過酷でしたけど、単身でというのが良かったかなと。まず仲間になろうと思っていたので、照明部の助手さんとか、美術部の助手さん、スタイリストさんたちと撮影以外も常に一緒にいて、可愛がってくれたというか。変な垣根をぶっ壊して一緒に仕事ができたので、それは大きかったです」

-言葉が多少通じなかろうと、作品を作るという皆さんの思いがひとつになって-

「そうですね。そういう時代だったというのもありますけど、今思うとちょっと早かったかもですね。まだいろいろな環境が整っていなかった。自国の映画産業がまだない国とかもありましたから。もうちょっと後というか、今またやってみたいですね」

-でも、あの当時だからできたということもあるのでは?-

「年齢的にもそれはある(笑)。体力的にもそれはあるかもしれないですね(笑)」

 

◆山田洋次監督との出会い

1991年、永瀬さんは山田洋次監督の『息子』に出演し、日本アカデミー賞新人俳優賞&最優秀助演男優賞をはじめ、多くの賞を受賞。山田洋次監督作品には『男はつらいよ 寅次郎の青春』、『学校II』、『虹をつかむ男』、『隠し剣 鬼の爪』にも出演している。

「山田監督との出会いは有難かったですね、大きなものになりました。恩人です。日本映画の歴史みたいな素晴らしい監督さんですし。いわゆるお客さんのために映画を作るということを徹底してやられている監督さんで。一番ジャンルとして難しい、お客さんに笑っていただくというのをずっとやり続けていらっしゃった監督さんなので、ものすごいデカい出会いだったことは確かです。三國(連太郎)さんや大先輩の役者さんともご一緒できましたし。三國さんは、ずっとテレビで見ていた人ですからね。」

-お父さん役が三國さんで、永瀬さんが演じたのは仕事が長続きしないどちらかというとダメな息子なんだけど、好きになった女性がろうあ者だと知らされても「いいではねえか」とまったく思いは変わらない。人としてちゃんとしたイイ男だなと思いました-

「本当にありがたい出会いでした。『男はつらいよ』は宮崎編で、その当時大反対していた薬屋のほうのおじいちゃんが、入退院を繰り返しているときだったんです。ロケ地は僕の地元からはちょっと離れていたけど、親戚の運転する車に乗せてもらって現場に来て、チラッと僕が仕事をしている姿を見てくれたんです。

その後すぐ亡くなってしまいましたけど、『お前も頑張っているんだなあ』って認めてくれたんですよね。『男はつらいよ』はずっとおじいちゃんも観てきた作品で山田洋次監督だし、それで初めて認めてくれて天国に旅立った…。そういう意味でも山田監督には感謝しています。亡くなる前に和解というか、役者という僕の職業を認めてくれる作品に出させていただいたので…」

-あの映画では夏祭りのステージで歌も歌っていましたね。監督が、永瀬さんが歌もやられていることをご存知で歌うシーンを入れたのでしょうか-

「もともと脚本にあったんだと思います。『何か歌えますか?』と言われて、当時はそういうこともやっていたので、親友のバンドのカバーの曲をやらせてもらったんですけど、リハーサルのときが一番緊張しました(笑)。リハーサルで最初に歌ったとき、監督がご自分で椅子を持ってこられて、ステージの前に一人お座りになって見てらっしゃって。

それも厳しくアングルを見ながらということではなくて、ニコニコと本当に楽しそうに見ていただけるんですけど、歌うほうはたったひとりの観客が山田監督で、そこに向けて歌うなんて非常に緊張した覚えがあります(笑)」

-下手すると歌詞が飛んじゃいますよね-

「本当にそういうような状態でした(笑)」

-お父さまはまだ俳優業に反対されていたのですか-

「何かどっちつかずな感じでしたね、今思うと。少しは軟化したのかなと思ってそこにつけこもうとすると、またガッとやられるみたいな感じ。まあ頑張れということでもあったのかな。九州の男ですからね。なかなか素直にというのはなかったんでしょうけど」

-ご自身の中でオファーを受けるかどうかの判断基準は?-

「欲張りなのでいろんな役をやりたいというのはもちろんあるんですけど、脚本を読ませてもらって、『すごくおもしろい本だし素晴らしい監督だし、良い作品になるんだろうな』と思っても、そのとき自分がリアリティーを出せるかどうかというので、すみませんはありますね。

あと、最初に台本を読ませていただいたときに、途中下車しなかった本というか…、一気に読めた本のときは参加させていただいている気がします。自分の役だけでなく全体がおもしろいってことだと思うので」

-これまで出演されていた作品を見るとすごい数で、それも映画がメインなので、ほとんど何らかの作品に関わっているという状態だと思いますが-

「うーん、そうですかね。ありがたいことだと思っています。かけ持ちができないので、めちゃめちゃ効率、燃費の悪い役者ですけど(笑)」

1作品ずつ誠実に取り組むスタイルを貫いているところがすごい。

次回後編では2週間で12キロ減量して撮影に臨んだ映画『毎日かあさん』(小林聖太郎監督)のエピソード、映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』(馬志翔監督)の撮影裏話、2月18日(金)に公開される主演映画『ホテルアイリス』の撮影エピソードも紹介。(津島令子)

ヘアメイク:勇見勝彦(THYMON Inc.)
スタイリスト:渡辺康裕
衣装:コート・シャツ・パンツともにYOHJI YAMAMOTO

©長谷工作室

※映画『ホテルアイリス』
2022年2月18日(金)より、新宿ピカデリー/ヒューマントラストシネマ渋谷/シネ・リーブル池袋 他にて公開
配給:リアリーライクフィルムズ+長谷工作室
監督:奥原浩志
出演:永瀬正敏 陸夏(ルシア) 菜葉菜 寛一郎 マー・ジーシャン(馬志翔)ほか
心に深い闇を抱えながら日本人の母親(菜葉菜)が経営するホテルアイリスを手伝っている若い女・マリ(ルシア)と孤島でひとり暮らしている謎めいた中年男(永瀬正敏)。2人はいつしか愛と死の香りに満ちた濃密な時間の淵に堕ちていくが…。

LINE はてブ Pocket
関連記事
おすすめ記事