仲雅美、“余命2日”宣告から昏睡52日間で奇跡の生還。困難があっても明るく前向き「命までは取られないって」
1970年代、『ポーリュシカ・ポーレ』の大ヒットで一躍、若手トップスターとして注目を集め、多くのテレビや映画で活躍した仲雅美さん。
1980年代に入ると日本未公開の洋画を輸入してビデオ化する事業をはじめ、1985年以降は事業に専念。100本以上の作品を手がけるが、1990年代初頭に倒産し、妻子とも別れることに。約3億円の借金を抱えることになり、不動産をすべて処分して借金を清算。マンション、工場、土地すべてを失ってしまうことに。
◆肝不全と腎不全…「余命2日」の宣告
約3億円の借金を清算する目途(めど)が立ってホッとした仲さんだったが、お酒の飲みすぎでからだはすでにボロボロ状態だったという。
「ビールが好きで、大瓶13本くらいを毎日のように飲んでいたから飲み過ぎで肝不全になって、肝臓が自力でアミノ酸を作れない状態になったの。
それで薬を1日3回飲んでアミノ酸を過多にする。そうすると、今度は腎不全になって、過多の成分が残って足先とかが痛くなるんだよね。酒の飲み過ぎでからだはそんな状態だし、事業の失敗も重なっちゃって精神的にもボロボロ。
そんな状態だったから、42歳のときに歩道橋の上で意識を失って、地上まで転げ落ちちゃったの。それで、血だらけで病院に運ばれてナースステーションに近い小部屋に入れられたんだけど、その部屋に入れられた人はだいたい2、3日で亡くなるから、俗に『死に部屋』って言われていて。おふくろも『あと2日の命です』って言われたんだけど、その状態が52日間続いて」
-昏睡(こんすい)状態で?-
「そう。まったく意識がなかった。自分としては朦朧(もうろう)としていて、僕はなぜか劇場みたいなところにいるの。緞帳(どんちょう)みたいなのがあって、椅子席じゃなくて桟敷(さじき)席みたいな形になっていて、人が結構いっぱいいるの。それで、時間になると巫女(みこ)さんみたいな人がいて、聖水の儀式みたいなのがあるわけ。
それを順番に取りに行ってどこかに消えていく。それで順番を待っているんだけど、僕の番がなかなか来ないんだよね。今思えば、あれがあの世の入り口だったんだろうね。混雑していて順番が回って来なかったから良かったんだよ(笑)。昏睡しているときはそんな夢ばかり見ていた。
気がついたときには2か月くらい経っていて、脇腹には刺青(いれずみ)のように紫色に変色しているところはあるし、からだの末端がどんどん潰れていく感じというか…。手とか足がむくんで腫れている状態だから、革靴なんてはける状態じゃなくて、つっかけでやっと。だから、つっかけでリハビリをやっていましたよ。普通の生活に戻るまで3か月以上かかりました」
-倒れるまで自覚症状はなかったのですか?-
「痛いとか苦しいはなかった。突然意識を失ってという感じ。先生(医師)から『もう一度飲んだら必ず死ぬ』と言われたから、お酒はきっぱりやめて、もう30年くらい飲んでいない。
お酒をやめて肝臓はだいぶ良くなったみたいだけど、足先とか手先はずっとしびれているんだよね。痛みはないけど」
◆義弟の不動産会社、そして交通誘導の警備員に
3か月あまりのリハビリを終えた仲さんは、ようやく普通の生活を送ることができるようになったという。
「リハビリとかをやっていた間に、11歳下の妹の旦那さんが小脳出血で倒れてしまったんだよね。浅草で不動産屋をやっていたんだけど、今もリハビリ療養中で。
息子が二人いて、倒れたときに下の子(次男)はまだ高校3年生。子どもが大学に進むのにお金も必要じゃない? その不動産屋さんは管理不動産が主だったから、旦那さんは倒れたけど、やめちゃダメでしょうということで、僕が手伝うことになったわけ。僕が宅建の資格を取っていたからね」
-不動産関係のお仕事をどれぐらいされていたのですか?-
「結局7年くらい手伝ったのかな。店の上の住居におふくろと住んでいたんだけど、妹の長男が宅建の資格を取って、父親の後を継げることになったのと、結婚するような年齢でもあるからということで、そこを出なくちゃいけなくなって。
それが春先で、夏ぐらいまでに出てくれないかと言われたときにはちょっと急だなと思ったけど、とりあえずは住むところを探さなきゃいけないじゃない? 寮があって、みたいなところはないかなと思って交通誘導の警備員の仕事をすることに。
それが2011年だから、ちょうど10年。ベテランですよ(笑)。寮の部屋は1畳半ぐらいで狭いけど、別に不満はない。死にかけた結果、物欲はなくなったしね。
交通警備の仕事って舞台に通じるものがあると思う。『工事をしているから車線変更してください』みたいな合図をするんだけど、夜になって暗くなると、向こうからは誘導棒の灯りしか見えないんだよ。
合図をすると、300メートルぐらい先の車がサーッときれいに車線変更して流れていくのが、まるで舞台でお客さんに気持ちが通じるみたいな感じでね。気持ちがいいの(笑)」
-絡まれたりトラブルになったりするようなことは?-
「たまにはありますよ。酔っ払いの人に『いつまで工事をやっているんだよ』とか言われるのはしょっちゅうだけど、そういうときでも今度は役者感覚というか、前提として工事というのはやっているんじゃなくて、やらせてもらっているほうになるわけね。
そうすると、工事の作業隊と地域の人との関係を考えたら、『申し訳ないです』とか、『すみません。時間がかかっています』という感じになるじゃない」
-10年間やって来られて印象に残っていることはありますか-
「これは初めて話すんだけど、じつは2019年に亡くなった(女優の)佐々木すみ江さんは、実父の妹だったの。物心ついたときにはもう両親が離婚していたから、僕は実父に対する全体像の記憶がないの。
それが2018年に、うちのマネジャーが打ち合わせでTBSに行ったとき、偶然すみ江さんも番組出演でいらしていたの。
マネジャーには話していたから、彼女がすみ江さんのところへごあいさつに行ったら、2018年に僕が出た『徹子の部屋』(テレビ朝日系)を見て『ずいぶん痩せたみたいだけど、からだは大丈夫?』って心配してくれていたんだって。
その日、僕も偶然赤坂の工事現場に入っていて、すごく近く(わずか500メートル)にいたんだけど、仕事中だったから直接お会いすることはできなかった。
そのとき、マネジャーがすみ江さんから聞いた話では、実父はトラブル起こしてすみ江さんとは疎遠状態のまま亡くなったらしい。いつかごあいさつに行きたいと思っていたけど、お会いする前に亡くなられてしまったことが残念でならないです」
◆交通誘導の警備員の仕事と芸能界復帰
交通誘導の警備員の仕事をしながら芸能活動も再開。2012年に製作された映画『女たちの都~ワッゲンオッゲン~』(祷映監督)に産婦人科医の役で出演。2016年からは、俳優デビュー作『冬の雲』(TBS系)で共演した小倉一郎さんと一緒にトークライブ『雅美と一郎』を月1回のペースで開催。
2019年には、小倉一郎さん、三ツ木清隆さん、江藤潤さんとともに音楽ユニット「フォネオリゾーン」を結成し、デビュー曲『クゥタビレモーケ』を発売。宇宙からやってきた「マサミゾーン」としても活動している。
「『女たちの都~ワッゲンオッゲン~』は大竹しのぶさんが主演で、衰退した町を活性化するべく町おこしに挑む女性たちの奮闘を描いた作品なんだけど、踊りのシーンがあるからということで話が来たんだよね。それで、『やる!やる!』って言ったらお医者さんの役に。踊らないで観(み)ているほうになっちゃった(笑)」
-「フォネオリゾーン」の結成は?-
「『雅美と一郎』というイベントをやっているときに、だいたい映画の話が主体なので、それは一郎の得意分野だから、ゲストに俳優さんをお迎えすることが多くて、そのなかでも(江藤)潤とかミッキー(三ツ木清隆)にはよく来てもらっていたの。
それで『せっかくだから4人で何かやろう!』ということで『フォネオリゾーン』として活動することになったんだけど、デビュー曲の『クゥタビレモーケ』が発売になって、これからイベントやライブをやろうというときにコロナですよ。
ユニットを組んで1年ぐらいはやれたの。それがコロナで自重せざるを得なくなって。メンバーは、どっちかというと俳優が主のメンバーだから、お客さんがいて、歌って踊るということをやったことがないんだよね。だからみんなドキドキで新鮮なわけ(笑)」
-仲さんは『ポーリュシカ・ポーレ』などで経験がありますよね-
「そう。僕とミッキーは歌のステージ経験はあったけど、4人ユニットで歌って踊るのは大変。それでもいろいろキャンペーンでまわったり、お祭りに呼んでいただいたりして、そういうのがみんな新鮮なものだから張り切っていたんだけど、コロナでね」
-皆さんとても楽しそうにされていて良いですね-
「ざっくり言ったら、みんなもう70歳でしょう? だからNHKさんが乗ってくれて、『ひるまえほっと』と『ごごナマ』で取り上げてくれたんですよ。それなりの年齢になっても楽しみを見つけてやっているということで題材としてはピッタシだからね(笑)。そんな感じでけっこう調子良くはじまったんだけどね」
-YouTubeでは、三ツ木清隆さん(ミッキーゾーン)と一緒に「おさんぽゾーン」で筑波山のレポートをされたり、いろいろなことをされていますね-
「もともとはもっといろんなことをやってみようと思ってはじめたんだけど、コロナで難しくなったから『リモートクイズQQQのQ』をやってみようということになったんだよね」
-『リモートクイズQQQのQ』の背景も凝っていますね-
「宇宙のイメージをバックにしたりね。あれは服装に合わせて『黄山(きいろやま)スタジオ』ってマネジャーが名付けたんですよ。僕の衣装が黄色だからさ。TBSの緑山スタジオに対抗して(笑)」
-リモートは難しいですよね。フリーズしたり切れてしまったり-
「そのアクシデントを僕とミッキーは逆に楽しんでやってるからおもしろいの」
-今後はどのように?-
「コロナでできなくなってしまったイベントやライブをやりたい。『雅美と一郎』に出てくれることになっていたゲストの方たちもいるからさ」
-いろいろ大変なことがあったのに、前向きで明るいですね-
「そこら辺のところはおふくろの影響だと思いますよ。おふくろがそういう人だったから。同じような仕事をこなす人であっても、どちらかというと暗い感じの人よりも明るい感じの人にやってもらいたいじゃない。そういうのもあるし、困ったときも別に大したことじゃないっていうかさ。命までは取られないって(笑)」
さまざまな困難を乗り越えてきた仲さんの笑顔がすがすがしい。事業の失敗で離婚したときに泣きながらも「(パパとママの娘に)生まれて良かった」と言ってくれたというお嬢さん。現在はお子さんも誕生して、仲さんのお誕生日には食事に誘ってくれて、お孫さんも一緒に祝ってくれたとうれしそうに話す姿が印象的。(津島令子)