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吉行和子、劇団入りのきっかけは母の再婚。50年間苦しめられた“ぜん息”「ぜん息って本当に不思議」

高校3年生のときに「劇団民藝」の研究所の試験に合格し、『アンネの日記』の主演女優が体調を崩したことで代役に抜てきされて以降、数多くの舞台に出演した吉行和子さん。

1959年には映画『才女気質』(中平康監督)、『にあんちゃん』(今村昌平監督)で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。劇団退団後はアングラ系の演劇人たちとの芝居に参加。1978年には映画『愛の亡霊』(大島渚監督)に主演して話題に。映像作品だけでなく、自分で企画して定期的に舞台公演を実施。

近年も山田洋次監督の『家族はつらいよ』シリーズ、主演映画『雪子さんの足音』(浜野佐知監督)など精力的に活動を続け、映画『誰かの花』(奥田裕介監督)の公開も控えている吉行和子さんにインタビュー。

 

◆2歳でぜん息を発症、発作が起きるとひとりで岡山の祖父母の元に

吉行さんの母は、戦前から美容師として活躍し、連続テレビ小説『あぐり』(NHK)のモデルにもなった吉行あぐりさん。父・エイスケさんは作家。11歳上の兄・淳之介さんと4歳下の妹・理恵さんは芥川賞作家。吉行家ではみんながそれぞれのスケジュールで活動していて、家族団らんの経験はなかったという。

「お誕生日を祝ってもらうとか、お正月におせちやお雑煮をみんなで食べるというようなことがまったくありませんでしたからね。みんながそれぞれ好き勝手なことをしている感じで。自分ではそれが普通だと思っていたんですけどね。だから家族団らんというのは、映画ではじめて経験させていただきました」

-小さい頃はどんなお子さんでした?-

「2歳のときに小児ぜん息になって、52歳のときに治ったんですけれども、50年間ぜん息に苦しめられていました。ぜん息って不思議な病気で、苦しいときは死ぬほど苦しいんですけど、治ると普通の人と同じくらいに元気になっちゃうんですね。

だから、なかなかわかってくれる人がいなくて、学校なんかでも『元気じゃない』って言われちゃうんです。それで、その頃はお医者さんもあまり研究が発達してなかったものですから、なかなかみんなに理解されずに子ども時代を送っていました」

-4歳のときにお父さまが亡くなってからは、お母さまが働きながら3人のお子さんたちを育ててらしたそうですね-

「そうなんです。父が好き勝手なことをしていたものだから、私の面倒を見ていてくれたんですけど、父が死んだときに『私は一体これからどうなるんだろう』と思ったくらい心細かったです。

父が死んでからは、私のぜん息の発作が起きると、母はまだ新幹線がないときに車掌さんに頼んで私を汽車に乗せて、『岡山駅でこの子をおろしてください』と言って、ひとりで岡山の祖父母のところまで行っていたんです。新幹線なら3時間ちょっとなんですけど、そうじゃないから10時間以上かかるんですよね。

それで岡山駅に着くと親戚のみんなが迎えに来てくれて、私がどういう状態で来るのかと心配して待っていたのに、ぜん息って本当に不思議だから、汽車に乗っているうちに治まっちゃうんですよ。だから、5歳の元気な女の子が一人で汽車からおりていくと、祖父が『なーんだ』とか言ったのを覚えています(笑)」

-吸入器のようなお薬はまだなかったのですか-

「なかったです。あれは30歳ちょっとの頃に出たんですよ。あれでどんなに助かったことか。それまでは注射しかなかったんです。兄もぜん息で、自分で注射を打っていたから、私も真似をして12歳くらいからは自分で注射を打っていました。

当時はお医者さまもあまりよく知らないから、その劇薬の量を間違えたりするんです。それで子どもなのにじっと見ていて、『それ量が多すぎる』とか、お医者さんに指図するのね。いつもの決まったお医者さんなら安心だけど、親戚の家とかで発作が起きて知らないお医者さんを呼ばれたりすると不安でしょうがないのね。だったら自分でやるほうがいいと思って。だからお医者さんに嫌われていました(笑)」

※吉行和子プロフィル
東京都出身。高校卒業前に劇団民藝付属水品研究所に合格。1957年、『アンネの日記』で初舞台。1959年、映画『才女気質』、映画『にあんちゃん』、映画『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)、『虹の設計』(NHK)に出演。1969年、劇団民藝を退団してフリーに。唐十郎さんら反体制のアングラ系の演劇人たちとの芝居に参加。1974年、舞台『蜜の味』で紀伊國屋演劇賞個人賞受賞。1978年、映画『愛の亡霊』に主演し、日本アカデミー賞優秀主演女優賞受賞。1984年、『どこまで演れば気がすむの』で日本エッセイストクラブ賞受賞。連続テレビ小説『あぐり』(NHK)映画『折り梅』(松井久子監督)、映画『東京家族』(山田洋次監督)、映画『燦燦-さんさん-』(外山文治監督)、映画『御手洗薫の愛と死』(両沢和幸監督)など数多くのドラマ、映画に出演。近年も主演作品が多いことで知られている。

 

◆母の再婚がきっかけで劇団民藝へ

吉行さんが14歳のときに、母・あぐりさんが突然再婚。吉行さんは早く家を出て自分の居場所を見つけたいと思うようになったという。

「母が再婚して自分の居場所がなくなったなという感じがしましたし。再婚したお父さんというのはすごくいい人だったし、悪いところはないけど、やっぱり私はここにいたくないというのが強かったですね。

再婚したお父さんにも娘がいて、夏の夜に妹と義理の妹と3人で掛け布団を剥いで寝ていたら義父が入って来て、自分の娘にだけ布団をかけて出て行ったんです。それを見て、義父は良い人だし、義理の妹にも罪はないけど、早くこの家を出たいという気持ちになりましたね。

それで、たまたま芝居を見て劇団というのがある。劇団に入ると旅公演とかが多くて、家にいなくていいから、これは良いのを見つけたと思いました」

-試験を受けたのは高校生のときですか?-

「そうです。私はぜん息で1年遅れているものですから18歳。高校1年のときにたまたま『劇団民藝』の芝居を見て、それが良かったんです。

それで高校3年のときに『劇団民藝』が生徒を募集していたので一応受けてみて。何の勉強をしたらいいかわからないから、ともかくそこに行って出た問題を覚えて、来年勉強してからまた来ようと思ったんですけど、劇団が『来年は募集しませんよ』って言ったものですから、『入ります』って言っちゃって(笑)。

そうしたら本当にぜん息って不思議なんですけど、学校では出席日数もままならなかったのに、高校3年の3学期は学校にもちゃんと行って、夕方から研究所に行って、一度もぜん息の発作が起きなかったんです」

-お母さまは劇団に入ることについては?-

「ぜんぜん相談もしないで行ったんですけど、親のハンコがいると言われてはじめて母に話したら『あっ、そうなの?』って、疑いもせずにハンコを押してくれました。

昔ですから周りがとても心配してくれて、『そんなところに入ったらどうなっちゃうかわからない』ってずいぶん反対したらしいですけど、母は『だって本人が行くって言うんだから、しょうがないじゃない』って(笑)。

本当にほっぽらかされていて、親に相談したこともないし、兄妹同士ももちろん相談しない。私が勝手に劇団の試験を受けたものだから、兄が『うちからそんなのが出るはずがない。きっと誰かほかの人の子どもだよ』とかって言って、母がすごく怒ったという話がありました(笑)」

-女優さん志望ではなかったそうですね-

「そうです。女優になるなんて思ってもいませんでした。ただ劇団に入りたいって思ったので。民藝だから入れたと思うんですね。『俳優座』と『文学座』と民藝というのが3大劇団だったんですね。

俳優座だったらもっとダンスとか歌とかに重きを置くし、文学座だったら日本的な所作ごとなどに重きを置くけど、民藝は筆記試験が主だったんですよ。もちろんそれ以外もちょっとあったんですけど、その筆記試験がとても出来が良くて、それで受かったと聞きました」

-試験を受けたときには女優志望なのか演出とかスタッフ志望なのか聞かれるのですか-

「はい。『私は女優になる気はありません。何か私にできる仕事をやらせてください』って言いましたけど、研究所ではみんな勉強しなきゃいけないと言われて、いろんな発声訓練とか体操とかさせられて、『私はこんなのしたってしょうがないんだけどな』って思いながらも、怒られるから一生懸命やっていました。でも、人と比べてぜんぜん下手だし、やっぱり無理なんだというのは、はっきりわかっていましたね」

 

◆主役が風邪でダウン、アンネ・フランクを演じることに

研究所での発表会のような舞台には出演していたもののスタッフ志望だった吉行さんだが、いきなり舞台の主役の代役に。

「本当に不思議なんですけど、本公演の『アンネの日記』の稽古に研究所から参加して見ていて、そのころ稽古が2か月近くあったんです。やっぱり若さでしょうね。セリフを全部覚えちゃっていたんです。

それで、アンネ役に決まった人が途中で風邪をひいて声が出なくなって、朝『ちょっと劇団に来てください』と言われて行ったら、『ちょっとやってごらんなさい』って。

そうしたら自分でも驚くほど全部セリフを覚えていたんですよ。それで『これでいける』って言って。普通だったらその日は休演しなきゃいけなかったんだけど、夕方にはもう舞台に出ていたという、もう本当に信じられない、それが一応本公演の初舞台なの(笑)」

-すべてセリフが入っていて、いきなり初舞台。すごいですね-

「それが私は今でも不思議ですよ。今なんて大変な思いをしてセリフを覚えなきゃいけないのに(笑)。やっぱり若かったからでしょうね」

-それが好評でロングランに-

「ぜんぜん好評じゃなかったんですけどね(笑)。不思議なことに自分が舞台に出る日はぜん息の発作が起きないの。でも、『勉強しなさい』って言われて、本命のアンネさんが出ているときに劇場にいると発作が起きて、咳が出るし、息が苦しくていられないんですよ。だから『あいつは何なんだ?』って、みんな不思議がっていました。

最初に決まっていたアンネさんの風邪が治ってすぐ出てきたので、これで終わりだなと思ってホッとしたら、『これから交互にやりなさい』って言われて、本当にぜんぜんうれしくなかったですね。せっかくやめられると思ったのに。

やっぱりお客さんも、その鳴り物入りでオーディションで受かった彼女を見たいという人が多いから、私が出る日はみんながっかりするんですって。

それを制作の人は平気で言うんですよ。『君が出るとね、つまらなかったとか損したとか、もう1回来るとか言うんだよ』なんて言うから『ああそうですか』って言って。しょうがないでしょう? そういう屈辱もあったし、2年近くあったんですけど、本当に早く辞めたいって思いながら必死でやりました」

-そのあとはどのように?-

「そこまでは研究生だったんですけど、そのあと劇団員になりまして、それで本当に文句が言えないくらい良い役を次々にいただきました。

でも、あまりうれしいという感じはなかったですね。本当に贅沢で申し訳ないくらいなんですけど。民藝には宇野重吉さんがいらして、高校1年のときに最初に見た舞台にも出てらして、すてきだなと思っていたものですから、宇野さんの言う事はよく聞くんですけど、ほかの人に何か言われてもちょっと態度があまり良くなかったですね(笑)」

-それからわりとすぐにスクリーンデビューもされて-

「そうですね。映画に出たのは、劇団が12人日活と契約をして、そのお金を全部劇団に入れて、そこからみんなに分けるという方法を考え付いて。その12人の中に私も入っていたので映画もずいぶん出ました。

デビューは『才女気質』という映画で、それからわりとすぐに『にあんちゃん』に出て。日活はきれいな女優さんが山ほどいたんだけど、もうひとり、ただ一生懸命元気で働いている役がいるんですよね。そっちのほうを私が受け持ってやっていました」

-『にあんちゃん』でベルリン映画祭にも行かれたそうですね-

「はい。そのころは外国に行くなんて考えられない時代でしたから、これが最初で最後だと思って、日活が作ってくれた振袖を持って行きました。

『にあんちゃん』は絶対に賞をとれるというので、ドイツ語であいさつを覚えさせられて行ったんですけど、ちょうど60年安保で、西ドイツだから日本になんか賞をやるもんかということで、日本の旗がおろされちゃって。

でも、賞とはぜんぜん関係なかったんですけど、ともかく外国に行けたことがうれしくてうれしくて(笑)。1か月ぐらいいたかしら。賞をもらえると思っていたから、日活の社長も一緒に来ていて、社長も自分が来た以上このまま帰るのはというので、いろいろなところ、パリまで足を延ばしたりして6、7人で行動していました。『今、外国を見ておかなきゃ二度と見られない』と思って、キョロキョロして楽しみました」

-帰国されて3年後にご結婚をされて、33歳のときに民藝を退団-

「そうですね。離婚もそのころでしたね。恵まれていたにもかかわらず民藝をやめたのは、世の中が変わってきたというのを感じはじめたんですね。それで演劇というのはもっともっといろんな形があるんだって。

劇団に入ると世のためになるような芝居で、それは立派なことではあるんだけど、もっといろんな演劇があるんだなって、そっちのほうに魅力を感じちゃったんですね。

そういうことを感じながらいたところに、たまたま唐十郎さんが書いた『少女仮面』という戯曲を早稲田小劇場の演出家の鈴木忠志さんが『その戯曲をやりませんか』と言って送ってきてくださったんです。

それを読んだら本当にちんぷんかんぷんでよくわからないんだけど、すごく魅力を感じまして、こういう役をやりたいと思ってしまったんですね。

思ったらすぐやりたいほうなので、宇野重吉さんに『劇団をやめたい』という話をしたら、すごくびっくりして。それまで私たちは舞台のお金は一銭ももらえなかったんだけど、『これからじゃないか。やっと舞台のギャラを出せる状態に劇団もなったんだから』って言われたんですけど、もう走り出したら止まらないというか、猪突猛進で(笑)。宇野さんは大好きだけど、ここにいたんじゃだめだと思って、『やっぱりやめます』と言って帰って来たの」

「劇団民藝」を退団してフリーになった吉行さんは、アングラ系の演劇人たちとの芝居で15年間劇団にいたすべてを否定されることに。次回はその日々、そして世間を驚かせた主演映画『愛の亡霊』の撮影裏話も紹介。(津島令子)

©J&B30製作委員会

※映画『誰かの花』
2021年12月18日(土)~24日(金)横浜シネマ・ジャック&ベティで先行公開
2022年1月29日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次公開
配給:GACHINKO Film
監督:奥田裕介
出演:カトウシンスケ 吉行和子 高橋長英 和田光沙 村上穂乃佳 篠原篤ほか
横浜シネマ・ジャック&ベティ30周年企画映画。強風吹き荒れるある日、団地のベランダから落ちた植木鉢が住民を直撃する事故が。団地に住む認知症の父(高橋長英)とそんな父に振り回される母(吉行和子)を訪ねた息子・孝秋(カトウシンスケ)は部屋へと急いで向かうが…。

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