テレ朝POST

次のエンタメを先回りするメディア
未来をここからプロジェクト
menu

宮崎美子、不安だった20代。黒澤映画出演が転機に「恥をかいても、そこから学んで楽になる術を覚えた」

1980年、熊本大学在学中に篠山紀信さん撮影の『週刊朝日』の表紙写真がきっかけで出演したカメラのテレビCMで話題を集めた宮崎美子さん。

同年、ポーラテレビ小説『元気です!』(TBS系)に主演。女優としてデビューを飾って以降、ドラマ・映画・クイズ番組・舞台など幅広い分野で活躍することに。

芸能生活40周年を迎えた2020年には、美しいビキニ姿が“奇跡の60代”と話題になったカレンダーを発売。2020年8月からYouTubeチャンネル『よしよし。』も開設。2021年9月には歌手デビュー40周年記念アルバム『スティル・メロウ~40thアニバーサリー・アーカイブス』をリリース。チャレンジ精神旺盛な日々を送っている。

大学時代

◆撮影の合間を縫って熊本大学に飛行機通学

1980年10月から1981年3月まで放送されたポーラテレビ小説『元気です!』は、両親を殺された東京の町医者の娘が(両親を殺した)容疑者を撃った兄らとともに土佐に逃げ、懸命に生きる姿を描いたドラマ。熊本大学在学中だった宮崎さんは大学に通うため、毎週飛行機で熊本に帰っていたという。

当時、朝の連続テレビ小説(NHK)と同じようにポーラテレビ小説は新人女優の登竜門として知られ、名取裕子さんや樋口可南子さんをはじめ多くの有名女優を輩出した。

-ある意味将来を約束されたような状況だったと思いますが、芸能界で生きていこうという考えは?-

「まったくありませんでした。プロデューサーは本当に毎回言っていました。『これ一本終わったら熊本に帰れ』と。だから東京でも家は借りてくれたんですけど、仮住まいだからということで家財道具的なものは何も持ち込まず。お布団とお鍋と『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日系)というクイズ番組に出たときに優勝賞品でいただいた炊飯器やポット、それくらいしかありませんでした」

-東京での一人暮らしはいかがでした?-

「演技の仕事も東京での一人暮らしもはじめてだったので、相当苦労しました。『元気です!』を撮り終わったら熊本に帰ろうと思っていたので事務所にも所属していなかったんです。だからマネジャーさんもいなかったし、わからないことだらけでした」

-主役ですからセリフも多いですし、大変だったでしょうね-

「大変でした。舞台が高知だったので方言もあったんですよね。だから、その期間は本当にそれだけでしたね」

-クイズ番組などの正解率が高くて優等生のイメージがありますけと、お芝居をはじめたときはいかがでした?-

「とても大変でした(笑)。『えーっ!? 何これ?』という感じだったんですけど、おもしろいんですよね。リハーサル室で稽古して、ロケが最初だったんですけど、ロケ現場に行ったらそこの空気が気持ちを開放させてくれて、何か自然にできたんですよね。『そうか、そうか、こんな感じなんだ』って思えて。ロケが最初だったのが本当に私には幸いしました」

-撮影では怒られたりしました?-

「はい、とても。怒られるというか何度もやるとか、『もうちょっとこうだああだ』というのはたくさんありました。ただ、幸いにもあの枠(ポーラテレビ小説)が毎回新人がデビューする枠だったので、とにかくみんなが支えて見守ってくれるという体制があったので、それでデビューできたのは本当に幸せなことでありがたいことだなあって思います。学校みたいなものですよね」

-そこでみっちり半年間の放送分を撮影されたわけですから鍛えられますよね-

「そうなんですよ。大人の世界に入っているのもはじめてだし、ドキドキしながらやっていましたね。仕事だからやっぱり迷惑をかけちゃいけないし。でも、悩んでいる時間もないくらいだったんですよね」

『元気です!』の撮影が終わったら熊本に帰ろうと思っていたという宮崎さんだが、すぐにドラマ『2年B組仙八先生』(TBS系)に出演することになり、半年間撮影に追われることに。

-大学の授業を受けるために毎週熊本に通っていることが話題になりましたね-

「そうですね。4年で出られなくて翌年もう1年行くことになったので、『2年B組仙八先生』をやっているときに飛行機通学でした(笑)」

-そのときには女優業を続けることは考えていました?-

「仙八先生をやるときにプロダクションには入ったんですけど、だからといって一生できるという自信はないし、まったく確証はないわけですよね。ただ、あまりにもできなさすぎるのがちょっと悔しくて。もうちょっとやってみたいという気持ちになったのと、それとは別に何か仕事についたら一生仕事はしていきたいなという希望はずっとあったんですよね。でも、じゃあやっていける自信があったかと言われると、それはわからないですね」

宮崎さんの不安をよそに『2年B組仙八先生』の撮影が終わると、はじめての映画『俺っちのウエディング』(根岸吉太郎監督)に出演。1981年秋には『NO RETURN』でレコードデビュー。10月から『クイズダービー』(TBS系)のレギュラー解答者をはじめ、女優業以外の仕事でも多忙を極めていく。

2004年・黒澤明アート展内覧会

◆不安を抱えていた20代、黒澤明監督の映画が転機に

次から次へと入る仕事と懸命に向き合いながらも不安は消えず、ほかの女優たちと自分を比べて落ち込んだり、社会人の友人を見て不安や焦りを募らせたこともあったという。そんなとき宮崎さんは、黒澤明監督の映画『乱』に出演することに。

「『乱』の撮影は25歳のときだったと思いますけど、とても大きなきっかけになりました。あの現場を体験できたことは、私にとって本当に大きかったですね。

いろんな逸話のある監督ですけど、あるときリハーサルの後、帰ろうとしていたときにフッと見たら、監督が足軽の衣装に芋判をパンパンパンパンご自分でプリントされていたんです。レンコンだったかな? 染料をつけてパンパンとうれしそうに押していらして(笑)。

『その衣装も手作り?』って驚いたんですけど、それを本当にうれしそうにやってらっしゃるの。『ワーッ、すごい!』と思って、これが黒澤監督かなと思いました」

-黒澤監督は絵コンテも芸術的ですごいですよね-

「そうそう。その絵コンテが毎朝スタッフに配られて、その絵と同じセットを作るの。私は殺されて塩漬けにされた首が埋められているシーンもあったかな。きれいな小袖が草の上にあって、頭のところは草で隠されていましたね」

-小袖の生地に包まれた首が運ばれて来るシーンはありましたけど、首そのものは映りませんでしたね-

「そうでした? 塩漬けにというセリフがあって、絵コンテにはちゃんとあったんですけどね」

-黒澤組はメイキング映像などを見ているとベテランの俳優さんでもものすごく怒鳴られたりしていますが、女優さんに対してはいかがでした?-

「女性には優しいですけど、男性には怖いんですよね(笑)。ベテランとか関係ないんですよ。仲代(達矢)さんに『今のはちょっとお芝居だったね』とおっしゃったときには、ブルッとしました(笑)。同じ場面でのリハーサルだったんですけど。仲代さんも『あっ、そうですね』みたいなことをおっしゃっていて。そういうことってないでしょう」

-宮崎さんは怒られたりは?-

「なかったです。女性は怒られないみたい(笑)。なぜでしょうね? わからないんですけどおもしろいですよ。そばで見ていると、『来た、来た、来たー!』っていうのが本当にわかるんです。顔色というか目の色というか…『来るぞ、今、誰か地雷を踏んだ』というのがわかるんです(笑)」

-現場は結構ピリピリしていました?-

「そういう場面もありました。おもしろかったのが、大分県の飯田高原というところにある国民宿舎みたいな建物で合宿みたいにしてみんな寝泊まりして撮っていたんですけど、食事は長テーブルで並んで食べるんです。

監督はお肉が好きだから、『すき焼き』と『しゃぶしゃぶ』と『焼肉』のローテーションなの。要するに毎日お肉なんですね(笑)。それで監督がいて席が決まるでしょう? 私はときどき行くだけなんだけど、そうすると誰かが名札を入れ替えて監督の前とかになるの。みんな監督のそばをちょっと避けたいので、名札の入れ替えが行われていて(笑)。

食事のときにするのは他愛のない話なんですけど、あそこにいた男性の皆さんは毎日監督の顔を見ているのがつらかったんじゃないですか。昼間ちょっと怒られた人もいたかもしれないし(笑)。だからたまに行くと監督のそばの席につかされていました」

-黒澤監督と若いうちにお仕事をされたというのは本当に貴重な体験ですよね-

「今思うとそうですよね。財産です。『乱』では何もできないので、『どうしたらいいでしょう?』って監督に聞いたことがあるんです。そうしたら『とにかく何かをしようと思わずに、その場にいてください。ありのままでいいんだよ』と言われて。それで、体当たりで恥をかいてもそこから学ぶことで楽になるという術を覚えました。

役になりきってそこにいるということは、本当は1番難しいことなんですけどね。でも、映画ってそういうことなのかなって。下手に何かをしようと思ってもバレちゃう。そうじゃなくて、本当にその気持ちでその場にいるということかなって思いました」

-『乱』の後もいろいろな作品が続きましたが、迷いは?-

「迷いはありましたね。その都度、役柄も自然に変わってくるし、時代の流れもあるし。バブルという大波があり、最初に入った事務所が解散になって今の事務所に新たに所属することになるという変化もあって」

-アナウンサーになりたいという思いは?-

「自分の目で見聞きしてそれを伝えるというのはいい仕事だなあ、興味深いなあと思って篠山さんに相談したことがあるんです。『女優という仕事を軸にしつつ、ニュースで情報を伝える仕事をしたいのですがどう思われます?』って聞いたら『やめなさい』って(笑)。

『あなた、女優というのは本当にすてきな仕事、最高の仕事なんですよ。いろんな人になれるし大事にしてもらえるし』って。でも、女優が現場で大事にされるって別にその人じゃないんだよね。勘違いしちゃダメなんだなというのはよくわかりましたけど。

でも、『女優はいい仕事だ』と言われて、『そうか』って。それで『キャスターとかは、そのための勉強を地道に積み重ねてきた人がなれるもの。そのための勉強もしていないのにできるわけがない』みたいなことを言われて、『ああ、そうだなあ』って(笑)」

-女優業だけでなく、クイズ番組や『なるほど!ザ・ワールド』(フジテレビ系)の海外リポーターなどいろいろされていましたね-

「そうですね。『なるほど!ザ・ワールド』もいろんなものを自分で見聞きして感じられるというのが楽しくて、いろんなところに行かせてもらってよかったなあと思っています」

好奇心が旺盛でさまざまなことにチャレンジしている宮崎さん。2000年には黒澤明監督の遺稿脚本をもとに製作された映画『雨あがる』(小泉堯史監督)で日本アカデミー賞優秀主演女優賞をはじめ多くの賞を受賞し、演技力を高く評価される。

次回後編では『雨あがる』の撮影エピソード、ビキニショットが話題を集めたカレンダー、YouTubeチャンネル『よしよし。』、34年ぶりのレコーディング、公開中の映画『宮田バスターズ(株)-大長編-』の撮影裏話などを紹介。(津島令子)

※歌手デビュー40周年記念アルバム『スティル・メロウ~40thアニバーサリー・アーカイブス』発売中
初回生産限定版には、スペシャルCD&DVDとブックレットが付属
スペシャルCDには34年ぶりの新曲『ビオラ』(作詞:宮崎美子、作曲:佐藤良成)も収録。DVDには新曲『ビオラ』のレコーディングのメイキング映像も。

©︎映像製作団体友

※映画『宮田バスターズ(株)-大長編-』
池袋シネマ・ロサにて公開中
監督:坂田敦哉
出演:渡部直也 大須みづほ 佐田淳 ユミコテラダンス 宮崎美子(特別出演)ほか
カナザワ映画祭2019期待の新人監督部門で上映された短編を基に長編として製作。
宮田バスターズ(株)は長年宇宙生物の駆除を業務にして奮闘してきたが、テクノロジーの進歩により中小企業の均衡が崩れはじめて…。

はてブ
LINE
おすすめ記事RECOMMEND