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加賀まりこ、常に優先するのは「発想と心意気」。写真集ではヌードに、“未婚の母”も堂々宣言

1962年、『涙を、獅子のたて髪に』(篠田正浩監督)で映画デビューして以降、次々と映画・ドラマ・CMに出演し、小悪魔的なルックスで瞬く間にアイドル的人気となった加賀まりこさん。

20歳のときに人生をリセットしようと単身パリへと渡り、トリュフォー、ゴダール、サン=ローランをはじめ幅広いジャンルの人々と交流。語学学校にも通いながら半年間過ごし、当時の日本円で600万円もする毛皮のコートをあつらえたりして、思いもよらず稼いでしまった大金をすべて使い切るという目的を達した頃、日本から1本の国際電話が。

◆劇団四季の舞台『オンディーヌ』出演

加賀さんがパリに来て半年になろうとしていたとき、劇団四季の浅利慶太さんから国際電話がかかってきたという。

「国際電話なんてかかってこないからびっくりしちゃって。劇団四季の浅利さんからで、舞台『オンディーヌ』に出ないかって言われて。

私は日生劇場で芝居なんてやったことがないから、辞める前に一度くらい舞台をやってみるのもいいかなみたいな感じ。だけど、東京に電話して13歳上で演劇少女だった姉にそのことを伝えたら、『男性だったら「ハムレット」くらい大変な役なんだから、あなたみたいなチンピラ女優にできるわけがないでしょう』って言われて。負けん気の血が騒いだのね(笑)。

それでやることにして帰国したんだけど、女優という仕事を舐めていたわよね。とんでもない。そんな素人の女の子にできるわけがない。

相手役の北大路欣也さんは前にも劇団四季の舞台をやっていらして朗々と発声する朗唱法(エロキューション)ができていたし、『私だけみんなの足を引っ張っているなあ』って思って。1か月半くらい稽古期間があったんだけど、連日深夜まで稽古しても少しもうまくならない。何度やっても頭の中でイメージしているような芝居はできないの。

みじめな気持ちのまま初日の開演30分くらい前まで稽古して、それで初日の幕が開きました。私は興奮しきっているから、2幕目で真っ白なドレスを着ているのに鼻血がバーッと出ちゃって(笑)。客席で見ていた母は『失神しそうになった』って言っていた。白い衣装だから余計ね。私はぶつけたわけじゃないからすぐに止まると思っていたの。

それで最後のセリフを言い終わらないうちに、『ワーッ』という喝采というか、どよめきというか…そういうのが聞こえて。私はもうびっくりして後ずさっちゃったくらい。はじめてのことで。それまでさんざっぱら怒られているわけよね。拍手喝采なんて聞いたことがないし、それこそ生まれてはじめての初日の喝采というのは女優志願という道を開いてくれたよね。そこから私は劇団四季の人になるの」

-『オンディーヌ』の舞台公演をやりながら劇団四季の養成所でレッスンを受けることに-

「そう。毎日昼間はね。だって私だけ喉からしか声が出ないし演技も下手っぴいだから、昼間は養成所に通わせてもらって演劇のイロハを基礎から勉強しようと思った。一般の研究生はほとんど私より年下だったけど、一緒に発声、ダンス、パントマイム、日舞、狂言の授業など何もかもイチから習う日々が丸2年間。

結果的にこのことが大きかったわね。技術は鍛錬しなければ身につかないということがよくわかったしね。だから、あの2年間は今も私の大切な財産」

舞台『オンディーヌ』は、日生劇場はじまって以来という大成功で連日超満員。チケットは瞬く間にソールドアウトとなり、すぐに再演も決定。ロングランに次ぐロングランになる。

「自分がとかというのではなくて、この芝居自体すごくいいものだからお見せしたいという思いはあったし、劇団四季もそれで潤うんだったらよかったなって。声をかけていただいたんだから。

でも、『女優になりたい』と思ったことが1番の宝かな。はじめて女優に志願したという感じ。そうじゃなければ辞めていたはずだから。何の評判にもならなかったらやめていたわね、きっと」

◆写真集でのヌード&「未婚の母」騒動

舞台『オンディーヌ』を経験し、本格的に女優として歩みはじめた加賀さんは映画・テレビにも出演。仕事はすべて加賀さん本人が決めているという。

「私は大手の事務所に入ったこともなければ、すごいマネジャーがついたこともないので基本的には全部私が選んで決めているわね」

-すごくバランスよく、大作にも低予算の作品にも出演されていますね-

「もちろん。バジェットは関係ない。自分で脚本を読んで、これがやりたいと思ったらやる。ずっとそうやってきたからね」

-仕事をはじめられてからそのスタイルを貫き通していらっしゃるのはすごいですね-

「そう? でも、そんなに事務所の言いなりになっているとかという話を聞いていると、『ウソだろう?』って思う。そんなことないよ」

-ご自身ですべてやるのは大変では?-

「全然。仕事場に行くとメイクさんもスタイリストさんもいるしね。いつも一緒に他人がいるというのはイヤなの。疲れる」

1965年には映画『美しさと哀しみと』(篠田正浩監督)に主演。原作者である川端康成さんは、撮影所や舞台出演の際は劇場にも行き、加賀さんのことを絶賛していたという。

「私は昔から相手が誰であっても関係ないの。川端先生であっても、『大先生だから』なんて構えて付き合うことはしなかった。先生はそれが心地よかったんじゃないかな」

-いろいろな作品に出られていますが、私はとくに『月曜日のユカ』(中平康監督)が大好きです。ヘアスタイルもファッションも独特で可愛くて-

「あれも全部私のアイデア。タイトルロールの中で私が一枚ずつ脱いでいくじゃない? あれを撮影する日に私が脱ぐという噂を聞いた新聞記者がいっぱい来たんだけど、『何言ってるの? 私はこんな固いスーツを着ているのに脱がない、脱がない』って言って帰しちゃった(笑)」

-27歳のときに立木義浩さん撮影の写真集『私生活』でヌードになっていますが、ご自身のアイデアですか?-

「まさか。そんなこと思ったこともない(笑)。私は立木家にしょっちゅう居候のようにいて、家族のような感じだったのね。当時のたっちゃんはファッションの写真とかが多かったから、奥さんが『何か血の気がある、血の流れている女優さんを撮りたいって思っているのよね、たっちゃんが』って言うのよ。

私は、すぐにはピンとこなかったんだけど、話しているうちに『えっ? それって私のこと?』ってわかって、『じゃあいいよ。たとえばさ、ヨーロッパとか連れて行ってくれるの?』って言ったら、『いいよ。全部出してあげるから』ってなって撮ることに。

だからあの写真集に関しては、私は一銭もギャラをもらってないの。どれだけあの写真集が売れたとしても私には一銭も入らない。あの写真集は本当に最初の篠田正浩監督と寺山修司さんが困っていたのと一緒。

たっちゃん夫婦がそれで喜んでくれるんだったらどうぞって。別に脱ぎたいから脱いだわけではないし、そういう『ちゃんとした血の通った女を撮りたい』という発想のもとにはじまったものなのよね」

-常に発想と思い、そして心意気なのですね-

「常にそう。そっちが一番。優先ね」

-写真集と同じ年に妊娠されて「未婚の母」を宣言-

「私にとっては全然自然なこと。妊娠がわかったのは恋人と別れた後だったけど、せっかく宿った子を産むのは当たり前だと思っていたし。うちの母親は、『世間体が悪い』とかそういうことは一言も言うタイプじゃない。誰一人ね、家族は。だから私の中では産むのが当然、自然なこと。

母はお買い物や何かに出るときに近所に何か言われたり白い目で見られたりしたのかもしれないけど、そんなことは私に言わないし」

-当時はまだシングルマザーという言葉もなかったですね-

「そうそう。今頃はそういう小洒落(こじゃれ)た言葉で言われるらしいけど、当時は“未婚の母”って大騒ぎになって罪人のように書きたてられたわね。でも、何も悪いことをしているわけじゃないし、誰に迷惑をかけることでもないから堂々と出歩いていたけどね」

-残念なことにご出産されて7時間くらいで亡くなってしまいましたが、そこから立ち上がるまでというのは?-

「なんていうのかな。そういうのをだらだらと引きずって、悲しみに打ちひしがれているというのが一番小っ恥ずかしい、江戸っ子としては。できる限りなんでもなかった顔をしていたいの」

どんなことがあってもひるまず前を向く、凛とした姿に圧倒される。

次回後編では『花より男子』シリーズのエピソード、54年ぶりとなる主演映画『梅切らぬバカ』の撮影裏話も紹介。(津島令子)

ヘアメイク:野村博史、福島久美子
スタイリスト:飯田聡子

ニット、パンツ/ともにKEITA MARUYAMA
ブーツ/H.A.K

©︎2021『梅切らぬバカ』フィルムプロジェクト

※映画『梅切らぬバカ』
2021年11月12日(金)よりシネスイッチ銀座ほか全国ロードショー
配給:ハピネットファントム・スタジオ
監督:和島香太郎
出演:加賀まりこ 塚地武雅 渡辺いっけい 森口瑤子 斎藤汰鷹 林家正蔵 高島礼子ほか
母親と自閉症を抱える息子が、社会の中で生きていく様を温かく誠実に描く人間ドラマ。
山田珠子(加賀まりこ)は自閉症の息子・忠男(塚地武雅)と2人暮らし。毎朝決まった時間に起床して朝食をとり、決まった時間に家を出る毎日だったが、息子が50歳の誕生日を迎えたとき、将来に不安を感じた珠子はある決断をするが…。