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安倍理津子72歳、平尾昌晃さんにスカウトされデビュー曲は100万枚ヒット!「水着以外の取材はお断り」!?

1970年に歌手デビューし、端正なルックスとバレエで鍛えた抜群のプロポーションで注目を集めた安倍理津子さん。

デビュー当時のキャッチフレーズは「Oh!ビューティフル・タッチ」。「水着姿以外の取材はお断り」という宣伝戦略も話題になり、「安倍律子」名義で出したデビュー曲『愛のきずな』は100万枚を超える大ヒットを記録。第12回日本レコード大賞新人賞などを受賞した。

1983年、「安倍里葎子」名義で橋幸夫さんとデュエットした曲『今夜は離さない』が大ヒットし、日本有線大賞特別賞などを受賞。2020年、デビュー50周年を迎え「安倍理津子」に改名。新曲『願い』を2021年4月21日にリリースした安倍理津子さんにインタビュー。

◆クラシックバレエの先生になりたくて

北海道札幌市で生まれ育ち、小学校5年生からクラシックバレエを習いはじめた安倍さんは、バレエの先生になるのが夢だったという。

「小さいときからバレエを習わせて欲しいと言っていたんですけど、うちの母が自分でしっかりと決められるような年齢になってからじゃないと続かないのではないかと言うので、小学校5年生から習いはじめました。

でも、『学校にもちゃんと行ってバレエの練習も休まない。ズル休みとかするのであれば即バレエはやめさせる』というのが条件だったんです。学校は好きでしたけど勉強は嫌いであまりできなかったので、勉強に関しては母も祖母もあまり期待はしていませんでした(笑)。だから勉強のことはあまり言わなかったです。

学校とバレエのレッスンには、嵐のときでも休まずに行きました。先生が『今日は嵐だから休みかな』と思っていると、更衣室がガサゴソするから覗くと私がいて。『やっぱり、りっちゃん来ていたの?』ということで、ひとりでもちょっとレッスンしていただいたりしていました」

-小さいときはバレエの先生になるのが夢だったそうですね-

「そうです。バレエをやりはじめた頃はバレエの先生になりたいと思っていました。でも、中学高校ぐらいになったらアナウンサー、声優、電話交換手、この3つをやりたいと思うようになったんです。

だけど、まずアナウンサーさんというのは最低でも短大を出ていなければいけない。私は勉強が嫌いで勉強ができないのでこれはムリだと。それで声優さんは芸能界だから東京に行かないといけない。電話交換手さんと思っていたんですけど、高校卒業後、もうひとつぐらい趣味をもちなさいと祖母に勧められて歌を習うことになりました。

祖母の知り合いの息子さんがラテン歌手で『札幌ミュージックスクール』の校長先生だったんですね。それで、すすきのの『ジョージの城』というミュージックパブのマスターでもあったので、歌のレッスンの延長で歌うようになりました。

高校卒業後はあるデパートの呉服売り場に就職する予定だったんですけど、バレエの先生のお手伝いで小さい子にバレエを教えることになったので、歌と二足の草鞋(わらじ)でやっていたんです。でも、バレエの先生にお店で歌っていることがバレてしまって(笑)。

お客さまの席に着かないとはいえお酒を出すようなお店に行くのはいかがなものかということで、バレエか歌かの選択に迫られたんです。そのときバレエのことでちょっと壁にぶち当たっていたということもあったので、バレエを断念して歌を取りました」

※安倍理津子プロフィル
1948年10月7日生まれ。北海道出身。1970年、『愛のきずな』で歌手デビュー。100万枚を超える大ヒットとなり、デビューわずか5か月で第12回日本レコード大賞新人賞などを受賞。1983年、大先輩・橋幸夫さんとデュエットした『今夜は離さない』が大ヒットを記録し、日本有線大賞特別賞などを受賞。以降、桜木健一さん、林与一さん、松方弘樹さん、平尾昌晃さん、大沢樹生さんなど計17人とデュエットし、「デュエットの女王」と称される。これまでにシングル盤47枚、20枚以上のアルバムをリリース。2020年、50周年を迎えるにあたり、「安倍里葎子」から「安倍理津子」に改名。2021年4月21日に48枚目となるデビュー50周年記念シングル『願い』をリリース。10月4日(月)には浅草ビューホテルで新曲発表会も行われる。

◆平尾昌晃さんにスカウトされ歌手に

「ジョージの城」には歌手の卵やセミプロがたくさんいて、演歌、カンツォーネ、クラッシック、フォーク、歌謡曲など幅広いジャンルの歌が流れていたという。

「私はバレエをやっていたので、マスターというか校長先生が踊って歌える女の子を育てたいということで、私をメインにして女の子が2人ダンスを踊るユニットも作ってくれたり。

とても楽しいお店で。今みたいにカラオケがありませんから大きな紙に歌詞が書いてあって。私たち若い子がみんな歌い終わったら、それを見てピアノ演奏でお客さまもみんな合唱するんです。カスタネット、マラカスなどがテーブルの上に置いてあるのでみんなで手にとって。

そういうお店があの頃は北海道にほとんどなかったので、東京の芸能界の方もいらっしゃっていて。その中に平尾昌晃先生もいらしたんです。平尾先生はマスターと懇意にしてらっしゃったので、定期的に来てくださっていました」

-そこでスカウトされたのですか-

「はい。『ジョージの城』にはオーナーのご夫婦がいらっしゃるんですけど、私たち歌い手を応援してくれていたんですね。昭和44年の夏、その方を通じて『平尾先生が歌手にならないかとおっしゃっているんだけど、どうだろう?』ということだったので驚きました」

-歌をはじめたときにはいずれ東京に行って歌手になろうというお考えは?-

「全然なかったです。遠い存在。でも、ずっと中学から付き合いがある友だちは、『たしか高校のときに私は歌手になるみたいなことを言っていたよ』って言っていましたけど、あまり覚えてないんです(笑)」

-東京、それも芸能界ということでお母さまもおばあさまも戸惑ったのでは?-

「母は自分が日舞をやりたかったのに祖母に反対されてできなかったので、自分の夢を娘に託すじゃないけど、私には好きなことをさせてやろうということでOKしてくれました。でも、祖母はダメなんです。東京に行ったことがないわけじゃないのに『東京は怖い、とんでもない』と。

1月の大雪のときに、お世話になるかもしれないレコード会社のディレクターの方とプロダクションの部長さんとマネジャーさんの3人が札幌まで来てくださったんです。それで歌を聞いていただいて。次の日、母と祖母を交えて今後のこととかいろいろお話したいということで会ったんです。

そうしたら、もう祖母は仏頂面ですよね。自分の手元で私が踊りや歌をやっているのを見るのが好きなのに、遠く離れた東京に行ってなんて嫌なんですよ。

それで反対していたわけですけど、話をしているうちにプロダクションの部長さんが北海道出身だということがわかったら、『北海道出身者に悪い人はいない』ってコロッと変わっちゃったんですよ(笑)。それまで仏頂面で食べるものも食べないで反対していたのに」

-それで歌手になることにお許しが出たのですか-

「そう。おかしいでしょう? 母と私は札幌で生まれ育ったんですけど、祖母は青森県出身なんですよ(笑)。それで、そんな単純なところがある祖母がOKしてくれたので3月に上京しました。

祖母をひとり残して上京するのに青函連絡船を乗って上京したんですけど、3月ですから函館で吹雪に遭って青函連絡船が欠航しちゃって。足止めを食っちゃうと不安になるじゃないですか。だから寝られなくて。次の日は快晴でしたから無事に着きましたけど、上京したら木造一間のアパートで、2組のマネジャーさん夫婦が住んでいるところだったんです。

夜着いて母とそこに行ったら裸電球がポッとついていて、北海道から送った荷物がボンボンボンと置いてあるだけだったので驚きましたけど、それから荷物をほどいて。でも、私としてはルンルンですよね、二十歳そこそこですからね。あとで聞いたら母は泣いていたみたいですけど」

◆デビュー曲が100万枚を超える大ヒット

3月に上京するとすぐに歌と踊りのレッスンがはじまり、6月にレコーディング。芸名は「安倍律子」に決まり、8月1日に『愛のきずな』でデビューすることに。

「平尾先生は療養中でデビュー曲には携わっていらっしゃらないことが残念でしたけど、作詞が加茂亮二先生、作曲は鈴木淳先生。鈴木先生にも大変お世話になりました。ですから生みの親が平尾先生、育ての親は鈴木先生。本当に感謝しています。

それで、レコード会社と渡辺出版と事務所でプロジェクトチームを作ってくださって。どういう売り方をするか、名前をどうするかというようなことを相談してくださったんです。私は本名が『熊木律子』なんですけど、芸能界だからすごい華やかな名前を付けてくれるのかなと思ったら、『安倍律子』。『かたい!』って(笑)。

苗字がどうして『安倍』になったかというと、中学のときに1人だけ『ベアちゃん』と呼ぶ友だちがいたんです。『熊木』の熊でベアちゃん。その話をしたら、芸能界の業界用語はひっくり返して言うじゃないですか。『タクシー』を『シータク』、『コーヒー』を『ヒーコー』という感じで。それでベアをひっくり返してアベにして、律子はそのままで安倍律子になったんです。

でも母に報告したら、母は姓名判断をちょっと勉強していたので、『律子ちゃん、この名前はすごく難しい名前だよ。ひとりで頑張るしかないけど、人間生きていく上でひとりでは生きていけない。ましてや芸能界でひとりで頑張るというのはなかなかできるものではないから』って言うんですよ。

でも、新人が『芸名の字画が悪いから変えてください』なんて言えるわけないじゃないですか(笑)。だからとにかく頑張ろうということで母を説得しました。そうしたら、いきなりデビュー曲が売れちゃったものだから現金なもので(笑)」

-「水着以外の取材はお断り」というのも斬新でした。スタイルが抜群で-

「そんなことないです。デビュー当時は若いですし、筋肉もキュッとなっていたので、スタイルがいいというふうに言われていたんです。両足を揃えて立つとO脚なんですけど、軸足にもう一方の足をちょっと添えると足がきれいに見えるんですよね(笑)」

-デビューされてからはすごく忙しかったでしょうね-

「目まぐるしかったですね。ただ、忙しい方たちが2時間とか3時間しか寝られないと言っているなか、私はしっかり5時間は睡眠が取れましたし、歌番組に出ても皆さん飛び込みで入られる方が多かったんですけど、私はわりと音合わせから行っていたので飛び込みの出演者の方の歌を代わりに歌うこともよくありました。

その当時、お2人とも大先輩なんですけれども渚ゆう子さんと日吉ミミさんがヒットを出した時期で、だいたいお2人とご一緒して『私、これ歌います』と言って音合わせをして歌ったりして、それが楽しかったですね」

-『愛のきずな』は100万枚を超える大ヒットになりました。日本レコード大賞をはじめ新人賞も受賞されて-

「札幌から出て来て1年も経ってなかったですからね。わずか数か月でいきなり売れちゃったという感じだったので、よくわからなかったです」

デビュー曲は大ヒットしたものの、芸名の字画を心配していたお母さまの助言が的中したかのようにその後はヒット曲に恵まれなくなってしまったという安倍さん。

次回は低迷期、大先輩である橋幸夫さんとデュエットし大ヒットを記録した『今夜は離さない』の誕生裏話、エピソードなどを紹介。(津島令子)

Hair make:JUNKO FUJIEDA

デビュー50周年記念シングル『願い』(テイチクレコード)
作詞:三戸亜耶 作曲・編曲:大貫祐一郎
歌:安倍理津子
Coupling With『ヘッドライト・テールライト』
作詞・作曲:中島みゆき 編曲:大貫祐一郎
『接吻~くちづけ~』
作詞:荒木とよひさ 作曲:鈴木淳 編曲:桜庭伸幸
歌:安倍理津子 & 鈴木淳