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ダンプ松本、母親に遺書のような手紙を残し日本中から憎まれるヒールに。伝説の一戦は「本当に殺されると思った」

1979年、念願だった「全日本女子プロレス」のオーディションに合格し、1980年8月8日、田園コロシアムで女子プロレスラー「松本香」としてデビューをはたしたダンプ松本さん。

全国各地を回り、1年間に300試合以上こなす生活の中、練習生時代からはじまった先輩たちからのいじめはデビューしても加速する一方で、「今に見ていろ。必ずトップに立ってやる」という思いだけで耐えていたという。

◆ヒールを志願も認められず…

プロレスファンだった時代からヒール(悪役)志望だったが、ぽっちゃり体型でエクボが目立つルックスのせいか会社の方針はベビーフェイス(善役)路線だったという。

「移動のバス、泊まる宿、道場、試合前の練習、どこでもいじめはあった。先輩のストレスの発散で顔をボコボコにされても、『練習で』と言えば自分が下手だということでおとがめなしだしね。

本当に毎日毎日泣いていたなあ。深夜、移動のバスの中で泣いていると、『うるさいからバスの中で泣くな』って怒鳴られるし、外で泣くと『みっともないから外で泣くな』って怒られるんだよね。1年間365日、ほとんど1日中一緒にいる先輩に連日いじめられているわけだから、自分の居場所がどこにもない感じだった。逃げ場もないしね。

そんなときに救いの手を差し伸べてくれたのが、リング上で悪の限りを尽くしていた『ブラック軍団』のヒール、マミ熊野さん。『絶対に辞めちゃダメだよ』って。

マミさんとペアを組んでいた池下ユミさんも優しかった。ヒールはだいたい優しいんだよ。ベビーフェイスのほうが裏表のある人が多い。そんなこともあって、自分はもともとヒール希望だったわけだしヒールの道に進むしかないとあらためて思った」

1982年、ダンプさんはデビル雅美さん率いるデビル軍団の一員に。念願のヒールへの第一歩だったが、そのチャンスをうまく活かすことができなかったという。

「経験不足もあって完全に悪役に徹しきれていなかったんだよね。だから1983年にメインの6人タッグ戦に抜てきされたんだけど、また前座に戻ることになったりして。同期の(長与)千種と自分は『お前なんか辞めちまえ』って何度も会社に言われていた。落ちこぼれだったからね(笑)」

1984年、長与千種さんはライオネス飛鳥さんと「クラッシュギャルズ」を結成。日本全国で爆発的なクラッシュブームを巻き起こし、レコードデビューもすることに。

「飛鳥は入門当時からズバ抜けた存在だったからね。運動能力、身体能力、ルックス…すべてが一番でカッコよくてエリートだったけど、千種は自分と同じ落ちこぼれだったから、まさに奇跡が起きたという感じだった」

25歳頃

◆女子プロレス史に残るトップヒール誕生

落ちこぼれ仲間だった長与さんが「クラッシュギャルズ」として日本全国で爆発的な人気者に。そんな姿に刺激を受けたダンプさんは、1984年、「松本香」から「ダンプ松本」に改名することに。

「『クラッシュギャルズ』に対抗するヒールが必要になって、自分と同期のクレーン・ユウが指名されたんだよね。

昔からお客さんが叫んだリングネームは当たるというジンクスがあったんだよね。それで、お客さんが自分を見て『ダンプみたいだ』と言ったのを全日本プロレスの松永(高司)会長が聞いて、『ダンプ熊谷にしよう』って言ったんだけど、それだと建設会社みたいじゃん(笑)。だから『ダンプ松本』にしてもらったの。

クラッシュのライバルになるからには日本中のファンから徹底的に嫌われ、ほかの選手たちには震え上がられる最高のヒールになろうと思った。自分ははじめからヒールがやりたかったんだけど、ヒールじゃないヒールみたいというのでいじめられていたからね。ダンプになるときは一番嫌われるヒールになろうって覚悟を決めていた」

-金髪とペイントメイク、インパクトがありました-

「えくぼが出ちゃうからえくぼ隠しでもあったんだよね。『笑って試合するな』ってよく怒られていたんですよ。笑っていないんだけど、えくぼが出るから笑っているように見えるみたいで。それでよくいじめられていたからね。だから黒く塗って隠して、怖く見える化粧をしておけばもう文句を言われないだろうと思ってああいう化粧をしたんだけど、したらしたで散々言われたけどね(笑)」

-全部ダンプさんのアイデアで?-

「そう。全部自分で考えているね。金髪にするのも化粧やガウンとかそういうコスチューム、竹刀をもったりチェーンをもったりするのも全部自分で考えた。『ダメだ』と言われても、『いや、これでいきます』って言って通しちゃう(笑)」

-はじめて金髪に染めた女子プロレスラーでしたね?-

「そう。当時はいなかったの。それでその頃はたまたまメキシコからレスラーが来ていて、日本人とメキシコ人のレスラーだったから全員髪の毛が黒。ここで金髪にしたら目立つだろうと思ったんだよね。それで『金髪にしたいんだけど』って会社に言いに行ったらダメだと言われたんだけど、次の日に金髪にして行っちゃった(笑)。自分で脱色して」

-金髪が似合っていました-

「そうでしょう? それで金髪にして普通の化粧していたら汗で全部取れちゃって、金髪に顔が合わないからペイントするようになったんですよ。舞台用だから取れない。今もそれでやっている。ちょっとこするとにじんだりはするんだけど、グジャグジャにはならないんだよね。

コスチュームも暴走族のような革ジャンにしてチェーンを身にまとって毒々しい感じだったから、インパクトはあったよね。自分をいじめていた先輩たちは露骨にイヤな顔をしていた。いじめは嫉妬に変わったね」

1984年、クレーン・ユウさんとのコンビ名が「極悪同盟」に決定。その名にふさわしい何でもありの凶暴な試合を繰り広げることに。

◆ヒールの覚悟決め、母に“遺書のような手紙”

日本で一番嫌われるヒールになる決意をしたダンプさんは、改名した直後、最愛の母親に「遺書」のような手紙を残したという。

「一番嫌われるヒールになろうって覚悟を決めていたからね。お母さんにちゃんとご飯を食べさせてあげたいと思ってプロレスラーになったんだけど、日本中から憎まれる存在になるわけだから親と妹に迷惑をかけることになる。だから、お母さんに『本当にごめんなさい』という内容の手紙を書きました。

クラッシュとの抗争が過熱するにつれて現実のものになったからね。熊谷の実家には何度も石を投げられたし、『ダンプ出てこい!』って罵声も浴びせられたし」

-お母さまはダンプさんがヒールになることについて何かおっしゃっていました?-

「イヤでイヤでしょうがなかったと思うよ。自分には言わないけどね。妹には言っていたみたい。見るのがつらかったんじゃないかな。いやだったと思うよ。実家に帰ってくるなとはずっと言われていた。近所にわかると困るからって。あと旅行とかに行っていても、お母さんだと思われるのが嫌だからと言われて離れて歩いていたけどね。

たしかにそれは友だち同士で遊びに行っていても、スキーに行こうがプールに行こうが自分のところにはそういうのが来るから、みんな離れて違うところで遊ぶんだよね。『なんだ、結局ひとりかよ』って感じで(笑)。

それはしょうがないから、だから、どこにも行かないようにしていたよ。みんなが敵だからね、やっぱり。そういうふうにしようと思っていたんだからそれは仕方がないよね。そういうふうにされるのがうれしいわけだから。そこで優しくはできないしね」

-そこまでヒールに徹することができたのはすごいですね-

「ずっとヒールに徹していたね。リングを降りたら優しくなっちゃったりとか、実家に帰ったら優しいとか、絶対そういうふうに思われないようにどこでも怖いんだと思われるようにしていた、現役中は。うわさというのはすぐに広まるからね。

そうするとみんな図々しくなるから、『なんだ、リング降りたら優しいのか』って近寄ってくるし、家にまで来ちゃったりとかするからどこでも怖いというイメージで通していた」

-つらくなかったですか?-

「つらくはなかった。『極悪同盟』の仲間たちと一緒にご飯を食べに行ったり、遊びに行ったりしていたからね。それに毎日が試合だから遊びに行く暇もないしね」

-知名度が上がるにつれ、かなり嫌がらせもされたそうですね-

「された。カミソリを仕込んだ手紙もいっぱい来た。手紙には『死ね』って書いてあるだけ。あとケーキの腐ったやつとかゴキブリが入ったケーキなんていうのもあったな。よくやるよね(笑)。

新車を買って道場に行ったらその日のうちに傷をつけられたし、バイクで行くとタイヤに釘を刺され、自転車で行くとサドルを盗まれるしさ。タクシーに乗ろうとすると乗車拒否されたりね(笑)。いろんなことがあったなあ」

クラッシュギャルズの人気が沸騰するにつれ、ダンプさん率いる「極悪同盟」の知名度も上がり、試合内容もどんどん過激に。「極悪同盟」結成前にあった「凶器禁止」というルールもなくなっていったという。

◆「殺されると思った」伝説の“髪切りデスマッチ”

長与さんとは落ちこぼれ同士で仲がよかったが、「クラッシュギャルズ」と「極悪同盟」として敵対するうちに、いつしかお互い本当に大嫌いになっていったという。

「火に油を注いだのは松永会長。毎日試合前に控室に来ては『千種と飛鳥がダンプは大嫌いだって言っていた』とかいろいろ言うんだよ。同期で仲がよかっただけに怒りが増して殺したいほど2人が大嫌いだった。それは全部会長の作り話だったということがあとでわかるんだけどね(笑)。クラッシュにも同じようなことを言っていたというから、そりゃあお互いに憎悪が増すよね」

1985年8月28日、大阪城ホールで長与さんと「敗者髪切りデスマッチ」を行い、ダンプさんは反則攻撃で勝利。血まみれで敗北し、バリカンで髪を切られる長与千種さんの姿にファンは悲鳴をあげ、涙した。

-アナウンサーの実況が聞こえないくらいの熱狂でしたね-

「すごかったね。あの試合の後、クラッシュの熱狂的なファンが500人〜600人『極悪同盟』のバスを取り囲んで、『ダンプ出て来い!』って車体を揺すりながら罵声を浴びせて来てさ。あのときは本当に『殺される』と思ったね」

-ベビーフェイスとヒールがあれだけバチバチにやりあっていたのは、あの時代がピークでしたね-

「時期的によかったんだよね、きっと。二度ともうあんなことはできないと思う。今の時代だったら、大変だったと思うよ(笑)」

女子プロレスブームはますます過熱し、ダンプさんは「日本で一番殺したい人間」と称されることになり、「極悪同盟」も最大時には10人という大所帯になったという。しかし、1988年1月、ダンプさんは突然の引退を発表することに。

次回後編では引退、芸能活動、プロレス復帰、『極悪祭 ダンプ松本 41周年 還暦大会』なども紹介。(津島令子)

※開催情報:『極悪祭 ダンプ松本 41周年 還暦大会』
2021年10月11日(月)後楽園ホール 午後6:30試合開始(午後5:45開場)
ダンプ松本選手 長与千種選手 ZAP 井上貴子選手 旧姓・広田レジーナさくら選手
伊藤薫選手 山縣優選手 彩羽匠選手 笹村あやめ選手 星月芽依選手ほか

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