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大村崑89歳、壮絶な少年時代。20歳手前で肺結核、「40歳まで生きられない」と言われ亡き父が愛した喜劇の世界へ

キャバレーのボーイから司会者、そしてコメディアンへと転身し、昭和30年代のテレビ黎明期に軽演劇『やりくりアパート』、『番頭はんと丁稚どん』、『とんま天狗』などで全国的な人気を博した大村崑さん。

長年出演したCMのキャッチフレーズ「元気ハツラツオロナミンC」や、ずれ落ちたロイドメガネが印象的な「うれしいとメガネが落ちるんです」のセリフも大流行。『山村美紗サスペンス 赤い霊柩車』シリーズ(フジテレビ系)、『西郷どん』(NHK)、映画『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』(山田洋次監督)などテレビ・映画に多数出演。

2021年7月には27年ぶりに出演した映画『ロボット修理人のAi(愛)』(田中じゅうこう監督)が公開されたばかりの大村崑さんにインタビュー。

◆9歳で父親が死去し生活が激変

神戸で写真店と電気店を営んでいた大村さんの父親は、祭りになると一番に櫓(やぐら)を作るような明るい人で、町内の人気者だったという。

「おやじは町内でも有名なおもしろい人で、お祭りでは櫓を作ったり電気を配線したり太鼓を叩いたり、劇場によく出入りしているから役者を呼んで奢ったりとかして、僕が小さい頃はいつも肩車をして新開地、東京で言えば浅草みたいなところに連れて行ってくれました。

だから、おやじの頭の上で空中から見ていた新開地の記憶は今も記憶に残っているんです。そういうおもしろいおやじで、女の子が好きな人やから、ちょっとべっぴんさんを見つけたら粉をかけていてね。おやじの後を付いて行ってお茶をよばれたり、ご飯をよばれたりしていました。

僕を劇場に連れて行って楽屋に放っておいたままにして、自分は女の子たちとご飯を食べに行ったりしていたから、楽屋でお姉さんたちに可愛がられてね。みんなお菓子をくれたりして、『この子を子役にしよう』ということでおしろいを塗られてカツラをかぶらされて衣装を着せられて台詞を覚えさせられたんですけど、あの頃教わったことはいまだに覚えていますよ。

舞台に出て『して、かかさんの名は?』と言われて『かかさんの名はお弓と申ちます~』なんてやるんですけど、これはお母さんと息子が出会う場面なんですよ。お客さんは喜んだり泣いたりして、おひねりは飛んでくるわお菓子もくれるわけですよ。『なんてええ世界や、幼稚園よりこっちのほうがええな』と思いましたよ(笑)」

-子役として小さい頃から舞台に立っていらしたのですね-

「そうです。幼稚園から劇場に行って、それでおやじに『お母さんに聞かれたら、温泉に入って来たって言えよ』と言われていたんですけど、裸にしたら足が真っ黒けなんですよ(笑)。玄関の水道で濡らしたタオルで顔は拭いておしろいは落としたけど、足がドロドロ。それで温泉に行ったんじゃないことがバレてまた夫婦ゲンカがはじまる。そういうおもしろい家庭やったんです。

それが昭和16年の元日におやじが死んで。僕が9歳のときでした。おやじは電気屋さんと写真屋さんをやっていたから、前の年のクリスマスに呉の造船所に職人さんを連れて配線工事に行って、チフスをもらって帰ってきたんですよ。

それで(病人を)隔離する車が迎えに来て、おやじは『すぐに帰ってくるから』と言って、寒いからパジャマの上にねんねこ(半纏 はんてん)を羽織って行ったんですけど、それが最後でした。そして元日に死んだんですけど、うちの母は腰を抜かしてしまって。おやじの兄貴の奥さん、伯母さんが僕の手を引いて遺体の確認に行ったんです。

でも、『お父ちゃんですよ』って見せられたんだけど、ガリガリで骸骨(がいこつ)みたいになっているから『お父ちゃんと違う』って。将棋の駒で言ったら飛車みたいな四角い顔をした大きな男だったのに全然違うんです。あの死に顔は一生忘れられません。泣きながら帰ったのを覚えています。

おやじは7人兄弟の末っ子だったから、親族会議で僕は長男の伯父の家に行くことになって。本家のその家には子どもがいなかったから、後継ぎにということで連れて行かれたんです」

※大村崑プロフィル
1931年11月1日生まれ。兵庫県出身。19歳のときに肺結核になり、医師から「40歳までは生きられないだろう」と言われ、父親が好きだった喜劇の世界に進むことを決意。1957年、大阪梅田の映画館「北野劇場」の専属コメディアンに。『やりくりアパート』、『とんま天狗』、『細うで繁盛記』、映画『吉原炎上』(五社英雄監督)、『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ系)の司会など多くのテレビ・映画・舞台に出演。2017年に旭日小綬章。2018年から愛妻・瑤子さんと筋肉トレーニングに励み、89歳とは思えない筋肉美も話題に。

◆継母に物差しで叩かれ、拳骨で殴られ…

9歳のときに父親の長兄夫婦に引き取られることになった大村さんは、それまでとはまったく違う厳しい日々を送ることになったという。

「金持ちやったから分厚いお布団にも寝られるけど、毎日毎日泣いていました。伯母がきつい人でね。近眼だから机に顔を近づけて勉強していると、それはあかんと。

和裁教室を開いていて物差しがいっぱいあったから、30センチの物差しをもってきてそれでバシンて殴られる。物差しが全部ボロボロになるくらい叩かれたんです。それで物差しに絆創膏を巻いてみんなが針仕事をしていた、それくらい厳しかった。

『お母さんと呼びなさい』って言うんですけど、『イヤだ。お母ちゃんと違う。おばちゃんや』って言ったら拳骨で殴られて、それで左耳があまり聞こえなくなったのでつい大声になるんです。私のこの大きな声は芸能界ではよく褒めてもらえるんですけどね。

それでもどんなに怒られても家の中ではずっと『おっちゃん、おばちゃん』でしたね。外では『うちのおやじ、おふくろ』なんて言っていましたけど。近所の人たちには『あそこの家は子どもが逃げたらお母さんが箒(ほうき)をもって追いかけている』とか言われて有名でした。町内を1周したら僕は賢いから伯母の後ろに回っていたりしてね(笑)。

そうするとご飯を食べさせてもらえなかったりしたので、近所のおばさんが泣きながら『かわいそうにね。継母やからね。我慢するんやで。あんたが大きくなったら、あんな親は捨てたらええんや』なんて言われたりしていました。

返事をしなかったら伯母に耳たぶを引っ張られるんですよ。だから耳の付け根が切れて血が出て、見かねた近所のおばさんが『かわいそうに、かわいそうに』と言いながら絆創膏を貼ってくれましたよ。でも、引っ張られたおかげで耳が大きくなったので、おとなになってから『崑ちゃん、いい耳してはりますな』って言われるようになったんですけどね。何度も切れて福耳みたいになって。

だから『おしん』が放送されたときに、おしんには家族がいてるやん。うちは家族がバラバラになったんやから、絶対に俺のドラマを作ったら見ている人は泣くだろうなあと思いましたけど、『おしん』を先にやられてしまいましたからね。橋田(寿賀子)先生にその話をしたら大笑いしていましたよ(笑)」

◆終戦後、死と隣り合わせの闇物資販売も

つらいことも多々あったが、伯母さまの厳しいしつけで勉強も運動もできるようになったという大村さん。機械工業学校に進学したものの、終戦までは造船所で学徒動員だったためほとんど学校に行くことはなかったと話す。

「終戦後は学校もつまらないし家にいるのもおもしろくないから、よく三宮に行くようになりました。(米軍の)捕虜で、終戦後も自分の国に帰らずにそのまま日本で生活しはじめたイタリア人で僕を可愛がってくれる人もいたので、その人のイタリアンレストランでよくバイトをしていましたね。

終戦後しばらくした頃、焼け跡で山田勇という男と出会ったんです。この山田というのがのちの横山ノック。山田が『俺、進駐軍の言葉ができるんや。進駐軍のキャンプでタバコを買うてくるからそれを売ってくれるか』って言うんですよ。それで僕と友人と山田の3人で闇物資を売る商売をはじめたんです。

タバコや毛糸なんかを闇で売るんですけど、これがかなり儲かるんですよ。飛ぶように売れる。でも、たまにMPが来るんですよ。慌てて逃げるんだけど、捕まってボディー検査されるとタバコをいっぱいもっている。

そうすると一箱全部口に入れさせられて火をつけられて『吸え』って言われるんですよ。吸うているうちに『向こうを向け』と言われて向くと、ケツを大きな靴をはいた足でガーンと蹴って行きよるわけですよ。

闇物資で儲けていることで回りにもマークされて、兵庫駅を降りた途端に靴の中に入れていたお金を全部取られたことがあるんですけど、そのときにレンガで頭を殴られて血だらけになって交番に飛び込んだら、交番のお巡りさん、忘れもせん。ピストルを配給してもらったばかりやから、血だらけの僕を見て慌てて『撃つぞ』って言ったんです。

『外国人にやられて大金を全部もっていかれた』と話して、それから病院に連れて行ってもらって。だから、僕は丸坊主の役ができないんです。大きな傷があるから」

-闇物資の商売でお金をもっていることを知っていたから狙われたということですか?-

「そうです。僕は相当金をもっていましたからね、その頃。のちに山田は『漫画トリオ』の『横山ノック』として芸能界に入って、僕も芸能界に入ったから再会するんだけど、会ってもその話はしないんですよ、2人とも。

でも、彼が死んで1年ぐらい経ってからノックさんを偲ぶ会をやったとき、上岡龍太郎が『師匠、今日はノックさんの思い出を話してください』と言うから、昔闇市でどうのこうのって言ったら、彼が『それ僕聞いています』って言ったんですよ。

『おぬし聞いていた?それならみんなに言うてもええな?』って言ったら、『言うてください』と言われたから言ったんですけど、ウケたウケた。ものすごくウケました(笑)」

◆芸能界を目指すも肺結核に

高校卒業後、継父の写真館を手伝ったりいろいろなアルバイトをしていたという大村さんだったが、芸能界を目指すことに。

「僕が芸能人の第一歩として選んだのが、三宮のキャバレー『新世紀』でした。いろんな芸能人が来るというので、ボーイとして働きはじめたんですけど、20歳になる直前、肺結核になってしまって。右の肺を切除したんです。

そのとき医者に『お前は40歳までは生きられないだろう』って言われて。限られた命ならば、死んだおやじが好きだった喜劇の道へ進みたい、司会の勉強もしてみたいと思うようになっていったんですよ。

それで、1年半の療養生活を経て『新世紀』に復帰してからはボーイだけでなく、ステージの司会もつとめるようになりました。司会者がギャラか何かでもめてドロンしたんです。それで僕が司会をやることになって。

でも、自己流やからね。本当の司会者になりたいと思って、雪村いづみさんのショーの司会をしたときにマネジャーの神戸出身の山口さんに頼んだら、大久保怜という当時関西で有名な司会者を紹介してくれて、あいさつに行って『新世紀』でボーイをしながら司会していると話したら一番弟子にしてくれたんです。

ドサ回りもよく行きましたよ。先生は瀬戸内海などのいいところを回り、僕は山陰のちょっとひなびたところを回るんです。1か月回って来たらギャラが7万円くらいになるんですよ。サラリーマンの初任給が1万円くらいの時代ですからね。これはたまりまへんで(笑)。小畑実さんとか東海林太郎さんとか、いろんな歌手の方と旅をしました。

灰田勝彦さんとも1か月やったんですけど、この人がおもしろい人でね。最後に必ず『野球小僧』を歌うんです。それで1コーラス終わったら、上手のそでの中から司会の僕がサイン入りの柔らかいボールがいっぱい入った果物籠を抱えて、ボールを灰田さんに放って、それを受け取った灰田さんが客席に投げるんやけど、僕が放ったボールはあっちに行ったりこっちに行ったりで(笑)。

しまいに『出て来い』と言われてもって出て行ったら、これがウケたんですよ。さっきまで蝶ネクタイを締めてやっていた司会者がサインボールの入った果物籠をもって出てきたもんだからね。『出てこい。もっと出て来い』と言われて、すぐ目の前まで行ったら、もう放らなくて渡していいじゃないですか。それなのに放れって言うんですよ。

それで灰田さんがサッカーのヘディングのようにおでこを使ってボールを客席に放るんです。これが灰田さんのおもしろいところ。ウケるんですよ。大爆笑でね。『人を笑わす仕事はおもろいな』と思うようになったんです。

そんなとき、僕と先生(大久保怜)とのやりとりを見ていた大阪の『北野劇場』の支配人が、先生に『あの子おもろい。貸してくれないか』と相談されたようなんですね。それで先生も『独立せえ』と言ってくれたので、僕は『北野劇場』のコメディアンとなったんです。先生に弟子入りして3年が経っていました」

北野劇場の専属コメディアンとなった大村さんは、そこで花登筺さんと出会い、『やりくりアパート』をはじめ多くの作品でタッグを組むことに。

次回は『やりくりアパート』『番頭はんと丁稚どん』など生放送のドラマならではの撮影エピソード、「うれしいとメガネが落ちるんです」というキャッチコピー誕生の裏話などを紹介。(津島令子)

©︎2021 GENYA PRODUCTION ROBOT REPAIRBOY

※映画『ロボット修理人のAi(愛)』全国順次公開中
配給:トラヴィス
監督:田中じゅうこう
出演:土師野隆之介 緒川佳波 金谷ヒデユキ 大村崑 大空眞弓ほか
実在のロボット修理人・乗松伸幸さんをモデルに、ロボット修理の天才的な技術をもつ少年が、依頼品のAIBOをめぐり過去と向き合い、新しい絆を育んで行く姿を描く感動の物語。

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