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川﨑麻世、20年前から感じていた“異変”。機能性発声障害と判明し治療を開始「心機一転、頑張ります」

1990年、27歳で結婚し、長女と3人で新生活をはじめた川﨑麻世さん。

事務所も決まり、『キャッツ』、『スターライト・エクスプレス』などで培った経験と技術を活かし、ミュージカル俳優として順調にキャリアアップを重ね、多くの舞台やドラマ・映画に出演。

1996年には長男も誕生するが、文化の違いから生じる家庭内トラブル、度重なるスキャンダル報道などで心身ともに疲弊し、「機能性発声障害」を発症するなど、数々の問題を抱えることになっていったという。

◆別れた父親との再会、そして死別

麻世さんが1歳のときに母親と離婚した父親は、映画などに出演していた俳優だったという。

「1歳半くらいまでしか一緒にいなかったわけですし、写真も白黒の写真が数枚あったくらいなので僕は全然記憶にないんですけど、役者をやっていたという話は聞いていました。31歳のときに、ちょっと自分の家庭環境のことで悩んでいたんですけど、『お父さんと会いなさい』という声が僕の心に響いたんです。

それは僕の潜在意識下にある父への思いだったのかもしれませんが、その4年前の舞台公演のときに父の妹と名乗る叔母さんが訪ねて来てくれて連絡先を聞いていたので、連絡して。

父は再婚して子どももいたんですけど、全身にガンが転移して末期で口もきけない状態だったので、会うことができたのは奇跡でした。言葉もしゃべれないし力もなかったですけど、会うことができてよかったなあと思いました。その年の11月に父が亡くなりました」

-麻世さんが喪主を務められたそうですね-

「はい。父の新しい家族もみんな応援してくれて、無事に父の葬儀を執り行うことができました。その当時、ある有名な監督から僕に映画の主演の話が来ていたんですけれども、その前に萬屋錦之介さん主演の舞台の仕事がもう決まっていたんですよ。

映画の主演ははじめてだったのでやってみたかったんですけど、何せ大先輩の萬屋さんから直接、『君いいね。この役で出てくれよ』と言われたものだから、僕は萬屋さんの仕事を取ったんですけど、結果的にそれがよかったんですよ。

その舞台公演が1か月間大阪の新歌舞伎座だったんですけど、その公演中にも何度か父親の病院が兵庫県だったのでお見舞いに行くことができたんです。それでちょうど中日(なかび)が休演日だったんですけど、その前日に父が亡くなったので、休演日を1日葬儀に使うことができました。

葬儀で会ったのは自分の親戚なんですけど、みんなはじめてなんですよ。初対面でしたけど、みんなをまとめることができてよかったなあと思いました。父ともちゃんと和解というか、僕は父を恨んではいなかったので、『ありがとうな。僕は大丈夫やから』と感謝の気持ちを伝えることもできましたし、最後の親孝行ができたんじゃないかなと。生きているうちに会えて本当によかったと思いました」

◆愛猫を抱いて水槽を眺める癒しの時間

仕事も順調で、公私ともに忙しい日々を送っていた麻世さんだったが1993年、不倫記事が掲載され記者会見をすることになる。

「家庭問題はもっと前からいろいろありましたけど、世間に公になったのはあれからですね。イメージがそっち側に行っちゃいました。でも、当時は今みたいに世の中からそんなに言われることはなかったんですよね。マスコミにはいろいろ言われたり書かれたりしましたけど。

ドラマの役柄などは、そっち系のちょっと色のついた役が多かったですね。2時間ドラマなどでも、カッコつけているけど女性問題を抱えたような役とかね。だけどそれはそれで別に仕事だし、いやでもなかったです」

-いろいろな問題を抱えるなかで、ときには車中泊をしたりしながら長丁場の舞台もされていたと聞きました。よくからだがもちましたね-

「今から考えたら、それは自分でもすごいと思います。だからそういうものが積もり積もって結局、機能性発声障害という支障が出ちゃったと思うんですよね。

でも、僕は昔からポジティブ思考なんですよ。それで、これも人生において越えていかなくてはいけない壁だと思って。人生の糧(かて)だと思っていたので、ずっと耐えるとか忍ぶ、耐え忍ぶということは人間を強くすると思って頑張っていたんです。

仕事は仕事で忙しかったし、家庭も忙しかったから自分でもすごいなあと思いますね。自由に飲みにも行けなかったので、夜中に仕事から帰って来て冷蔵庫から缶ビールを出して、猫を抱きながら水槽の熱帯魚を眺めているのが至福の時でした(笑)。

みんな寝静まっていて猫が水槽の中を見ているんですけど、その猫を抱いて僕もずっと熱帯魚と珊瑚とかを見ていると癒されて。いやあ、大変でしたね。それで夜中に仕事から帰って来て、朝になると子どもたちのお弁当を作ったりしているから結構寝不足だったんですけど、やっぱり若いからできたのかな」

-その間も結構忙しくお仕事をされていましたしね-

「そうですね。恐妻家だとかいうのは世間が作ってくれたイメージだなと思ったんですよね。僕ははじめての結婚なので、結婚というのはそういうものなのかなと思って頑張っているだけの話だったので。

もちろん価値観などが合わなくてもそれでも何とかしてやっていかなきゃいけないなとずっと思っていたし、ケンカしてすぐに諦めてしまう人たちが多いけど、それよりもケンカしても許し合ったときを子どもに見せるほうが教育だと思っていたんですよ。

そうじゃないと、子どもも何かやっていて、ゲームなどでもそうですけど社会に出ても壁にぶつかったら諦めてしまうようになったらダメだなと思ったので。とりあえず乗り越えることを覚えさせようと思ったのと、自分自身もそういう人間になりたいなあと思ったんですよね」

©︎『ある家族』製作委員会

※映画『ある家族』公開中
配給:テンダープロ
監督:ながせきいさむ
出演:川﨑麻世 野村真美 寺田もか 木本武宏(TKO) 秋吉久美子(特別出演) 木村祐一ほか
養育者として「ファミリーホーム」を経営する一ノ瀬泰(川﨑麻世)・陽子(野村真美)夫妻と娘の茜(寺田もか)は、育児放棄、いじめ、障害などさまざまな問題を抱え、家族と暮らせなくなった子どもたちとともに暮らしているが、ある思いがけない事情により、ホームの終焉が静かに近づいて…。

◆ファミリーホームのことを知ってほしい

2020年1月に上演された川﨑麻世演出・プロデュース・作詞作曲・主演の朗読ミュージカル『ある家族-そこにあるもの-』のストーリーをベースに、児童養護施設の「ファミリーホーム」とそこに生きる人々の姿を描いた映画『ある家族』で映画初主演をはたした麻世さん。さまざまな問題を抱える子どもたちを受け入れるファミリーホームという施設を伝えたいと話す。

-映画にというのはいつ頃から?-

「じつは二十歳ぐらいのときにすごい映画をたくさん見ていて、結婚してからも結構見ていたんですよね。それで、作りたい作品のアイデアが結構浮かぶじゃないですか。そのひとつがこれだったんです。

2019年にプロデューサーの井内(徳次)さんと会ったときに映画に興味があるか聞かれて、どういう作品を作りたいかとかいろいろなことを話して。まずは朗読ミュージカルを作ることになったんですけど僕の思いが強かったので、『麻世さん演出してや』と言われて演出と作詞作曲、プロデュース、主演もやらせていただいたんです。

それで、非常にお客さんの反応がよくて手応えがあったので映画にもしようかという話になりました」

-ファミリーホームのことはあまり知られていないので、知ってもらうという意味でも大きいですね-

「そうですね。うちは祖父がそういうことをやっていたので小さい頃から知っていましたけど、なかなか知っている人はいないですよね。うちの祖父母が施設の子を預かったり、身寄りのない子どもたちを家で育てていたので、僕も一緒に生活をしながら見ていましたからね。

祖父が経営していた喫茶店とか美容院、遊園地のほうにもいたので、そのときに感じていたことってやっぱりあるんですよ。どんなに『お父さん』『お母さん』と子どもたちが言っていても、何か違う関係があるのだと思います。結婚して幸せな家庭をもつと訪ねて来ることはなく、それは暗い過去に戻りたくないという気持ちがあるのでしょうね。

やっぱり複雑な思いがあるんでしょう。みんなお世話になったと思ってはいると思うんです。一緒にご飯を食べて生活して、旅行にも行ったりしていた子たちがもう来ないわけですから、やっぱりそれだけの心の傷をもっているんですよね。近所の面倒を見ていた子どもたちは結婚して子どもができたりすると、『おばさん、子どもができたよ』って見せにくるけどそれとはまったく違うんです。

子どもたちに罪はないと思うんですよ。保護されたときに懐く子と懐かない子がいると思うんですけども、懐かない子はやっぱりそれなりにちっちゃいときに虐待されたり、怖い思いをさせられたりしていたと思うんですよね。たとえ幸せな家庭を築いていたとしても、根深い傷というのはずっとあるんだろうなあというふうには思います」

-おじいさまがファミリーホームをはじめた理由は何だったのですか-

「慈悲深い人なんですよ。それだけじゃなくて、ちょっと不動産をもっているときにお金がない歯医者さんとかに貸してあげて、何十年経っても家賃をもらってないままその方たちが亡くなったということもありましたしね。

うちの祖父母は2人ともそうなんですけども、僕が関西でテレビに出はじめたりデビューしたときに、ファンの子たちがいっぱい店に来るじゃないですか。そうすると、みんな暑いから寒いからと言って喫茶店に入れてサンドイッチを作ってクリームソーダとかジュースを出してあげるんですけど、ファンの子たちは僕が帰るまでずっといるからお客さんが涼みに入ろうと思っても入れないわけですよ。

お客さんよりも、僕を応援してくれるファンに対して無料でご飯を食べさせてお茶を飲ませてあげたりする人なんです。そういう祖父母や母から学んだことは大きいですね。

人生って経験してきたことの積み重ねなので、自分の機能性発声障害もそうですけど、何かひとつ変わったことによって急に治ったりするわけじゃないんですよね。もっとルーツというか、根っこの部分で何か癒されなければいけないようなことが多分あると思うんです」

-機能性発声障害はいまどういう状態なのですか-

「発症したのは20年前で、当時、事実無根の報道をされたと名誉棄損で訴えたことがあったんですが、裁判の過程ですごくショックを受け、それ以来、大きなストレスがかかると声が出にくくなったりかすれるようになってしまったんです。

耳鼻咽喉科に行っても異常なしと言われるし、とりあえずうがいとかトローチをなめてと言われたんですけど全然よくならないからおかしいなと思って。それで心療内科に行ってみたんですけど、安定剤を処方されて飲んでみたら頭がボーッとして仕事にならないので飲むのをやめました。

コロナ禍になってしまったので、いろいろと調べて4、5か月前にようやく今の病院を見つけて『機能性発声障害』だということがわかって治療をはじめることができたんです。

先生(医師)には『心の傷が深いので、数か月じゃ治らない、年単位のお付き合いになると思います』と言われました。今は月に2、3回、心の傷を治すカウンセリングと声の専門の先生に呼吸法やノドの筋肉の使い方、マッサージなどをしていただいています」

-家庭環境も変わって、これからについては?-

「そうですね。生活も変わったし、いろんな意味で考え方もちょっと変わってきた感じがします。これまで30年間、事務所にはとてもよくしていただいたんですけど、機能性発声障害と付き合っていくというのを前提にしていかないといけないなあと思って事務所を移籍しました。

これまでは舞台中心だったんですけど、下手したらこの状態で舞台に出ることによって、ほかの人たちに迷惑をかけてしまうかもしれないので、もう少しバラエティとかテレビや映画などの映像に軸をずらそうと思ったんですよね。心機一転、頑張ります」

晴れやかな笑顔が印象的。最近凝っているという釣りや、得意な料理を活かした番組、これまでやったことがないおじいちゃんの役にも挑戦してみたいという。麻世さんの新たなステージに期待が高まる。(津島令子)