「日本のために力を出したい」韓国から国籍変更。ソフトボール・清原奈侑が五輪に懸ける想い
今週開幕する東京五輪。
3大会ぶりに競技種目に復帰するソフトボールは、日本代表の13年越しの“2大会連続金メダル獲得”に期待がかかっている。
注目の選手は、今回初選出のキャッチャー・清原奈侑(30歳)。
日立製作所でキャプテンを務め、2018年にベストナインを獲得したこともある彼女は、韓国から日本へ国籍を変更した帰化選手だ。
7月4日に放送されたテレビ朝日のスポーツ番組『GET SPORTS』では、清原が日の丸を背負って戦う理由に迫った。
◆日本のソフトボールから学んだ“チームで戦うこと”
1991年、韓国籍の両親のもと大阪市に生まれた清原。
小学校で野球をはじめ、中学でソフトボールに転向。当時はキャッチャーではなく、エースピッチャーだった。
実はこの中学時代にこそ、清原の“いま”を形作ったアイデンティティーがある。
カラダも大きく、一人だけ野球経験があったため、チーム内での実力が飛び抜けていた清原。それゆえに衝突も起きていたと当時のチームメイトたちは話す。
「自分が悪い球を投げているのに、キャッチャーが悪いと言われる。投げて返すんじゃなくて、ボールを地面に転がして返してきたり」
「はじめはやっぱり、(清原)ひとりでやっていたっていう形が強かった」
「自分が上手いし周りは下手やし。だから清原もムカつくし、こっちもついていけないからムカつく」
清原自身はどう思っていたかというと…。
「中学校はみんな素人の、中学からはじめた子たちばっかりで、自分が一生懸命やっても勝てないんじゃないかっていう風に、ちょっとふてくされるじゃないですけど…」(清原)
チームメイトとの実力差に嫌気が差し、試合となると一人相撲。部活を辞めることも考えていた。
そんな清原の意識を変えたのが、当時の監督・藤田さんの言葉だ。
「辞めるのは簡単だから、お前ができない子に目線を下げて、お前が教えて、お前がチームを強くしたらいい」(藤田監督)
この言葉で目が覚めた清原。
「自分一人がプレーしたところで、試合には絶対勝てないということを常々教わっていて、やっぱりどうにかして勝ちたいなら、底上げをどうやるか。どうやったら強くなれるかを考えて取り組みなさいとすごく教えてもらいました」(清原)
ソフトボールはひとりではできない――。そのことに気づいた清原は考えを改め、チーム全員で勝つことを目指しはじめた。
チームメイトたちは、その後の清原の変化をこう語る。
「合わせてくれるようになったかな。自分たちに」
「レベルをね。自分ひとりだけのプレーじゃなくて、みんなでプレーするような」
「経験者なぶんキツい球とか投げてきていたけど、思いやりが出てきたのか、私たちが捕りやすいような球で投げてくれるようになりましたね」
一変したというチームの雰囲気。すると中学最後の夏、それまで負けしか知らなかったチームは、大阪府の大会で3位まで勝ち上がった。
「誰かがミスしても自分が取り返せばいいし、自分がミスしたらみんなに『ごめん』って言って助けてもらうのが“お互い様の精神”なんだよと常々教わっていました」(清原)
◆「世界一をとったチームに自分自身も入りたい」
そんな彼女が高校生のときに開催された北京オリンピック。歓喜のなか、エース・上野由岐子はこんな言葉を残していた。
「自分ひとりの力でとれたものじゃない」
のちにこの光景が、帰化を決断するきっかけにもなった。
「世界一をとったチームに自分自身も入りたいなっていう思いが強くあったので、そこも決め手かなと思います」(清原)
そして大学生のとき、反対していた両親を説得し、日本国籍を取得する。
「親はもうそのまま韓国籍でいいんじゃないかっていう。正直少し迷いはありましたけど、自分が目指すところはどこなのかを考えて、その迷いはなくなりました」(清原)
すべては、自分自身を成長させてくれた日本のソフトボールの価値を最高の舞台で証明するため…。
東京五輪開催2か月前の5月。30歳になった清原は、チームメイトから盛大に誕生日を祝われていた。
中学での教えをきっかけに、仲間を愛し、仲間に愛される存在になった彼女は、これまでの経験をすべてこの夢にかける。
「日本で生まれ育って、日本のソフトボールをたくさん学んで成長させてもらったと思うので、日本代表として自分の力を試して、日本のために自分の力を出したいなと思います」(清原)
※番組情報:『GET SPORTS』
毎週日曜日夜25時25分より放送中、テレビ朝日系(※一部地域を除く)