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三ツ木清隆、波乱の10代。14歳で特撮ドラマに主演、人生が一変するも「地獄の日々でした(笑)」

1967年、14歳のときに1200人の中から選ばれて『光速エスパー』(日本テレビ系)の主人公に抜てきされ、16歳のときには映画『花の特攻隊 あゝ戦友よ』(森永健次郎監督)で映画デビュー、さらに『あなたに捧げた愛だから』で歌手デビューをはたした三ツ木清隆さん。

主演映画『さえてるやつら』(吉松安弘監督)、ドラマ『暴れん坊将軍』シリーズ(テレビ朝日系)、『いい旅・夢気分』(テレビ東京系)など映画、テレビに多数出演。2019年には小倉一郎さん、仲雅美さん、江藤潤さんと4人組音楽ユニット「フォネオリゾーン」を結成。『クゥタビレモーケ』をリリースしたことも話題を集めた三ツ木清隆さんにインタビュー。

©︎宣弘社 (14歳)

◆人見知りの性格を直したくて自ら劇団へ

小さい頃は人前に出るのがすごく苦手で人見知りが激しかった三ツ木さんは、新聞の折り込みで児童劇団の募集記事の折り込みチラシを見て、自ら応募して入団したという。

「人見知りで恥ずかしがりやで同級生の女の子と面と向かって話もできなかったんですよ。小学生のときにそんな性格を自分で直したいと思って応募しました。劇団に入っても大して変わりはしなかったんですけど、1年ぐらい経ったときにちょうど『光速エスパー』の主役を探すということで監督とプロデューサーが劇団に来て、それでオーディションを受けて受かったんです」

-1200人の中から選ばれたそうですね-

「そうなんです。そのときは一次審査だったので、二次審査もあったんですけど、セリフを読むとか芝居をやってみなさいとかいうのはないんです。『君はからだが丈夫ですか』とか『病気はしたことありますか?』とか、そういう話しかされなかったんですけど、子ども心にも丈夫だと言ったほうがいいんだろうなと思ったんでしょうね。『健康です。病気したことはないです』って言いました。からだが弱かったのでウソなんですけど、それで受かって(笑)。

受かったときは、スーパーヒーローになれるというので本当にうれしかったです。天にも昇るような気持ちだったんですけど、実際撮影に入ったら地獄でした。特殊撮影のドラマなので、当時の特撮は本当に手探りでやっているようなひどい状態だったんです。本編(ドラマ)班と別班の特撮班を立ててその両方を行ったり来たりするんですけど、特撮シーンになると必ず徹夜になるんです。みんなわからないから探りながらやっているので。

たとえばエスパーが空を飛ぶシーンがあるんですけど、それを1カット撮るだけで大体2時間くらいかかっちゃう。その準備にまず大変な作業が必要になるんですよね。

宙吊りのシーンも今はCGで簡単にいくらでもできちゃいますけど、当時はお椀型の鉄板をお腹(なか)にあててピアノ線(高い強度、耐久性をもつ硬鋼線)を2本引っかけて、カメラ前に吊るされるんです。飛んでいる形で横に吊られるときは、腹部に鉄板をあてているんですけど、体重が全部その鉄板にかかるので、15分ぐらいするともう痛くて拷問みたいなんですよ。

吊り下げるまでにライティングをしたり、カメラのポジションを決めるので、撮影がはじまるまでに15分か20分かかるじゃないですか。それだけで『もうおろしてください』というような状態になるんです」

-『光速エスパー』のときはまだ14歳ですか?-

「はい。14歳でした。本当にこのエスパーというのは、最初に入ったときのイメージともろに違っていましたね。衣装はウェットスーツ、ゴムですから夏場にセットで20キロくらいのライトを当てていると、45度から50度くらいになっちゃうんです。それをずっと耐えて吊るされていたら、2回ぐらい意識がなくなって気絶してしまいました(笑)」

-倒れて入院したこともあったとか-

「はい。過酷な撮影がたたって過労で病院に行ったら、『脱水状態なので、撮影には戻れません』と言われて即入院になりました。そうしたらすぐプロデューサーが来て、『先生、まだ出られないでしょうか』って医師と話しているんですよ。だからうちの親に『あと1日(入院を)延ばしてくださいって先生に言って』って頼んで(笑)。そんな撮影をやっていたので、少々のことでは驚かなくなりました」

※三ツ木清隆プロフィル
1953年5月30日生まれ。千葉県出身。1967年、『光速エスパー』の主役・東ヒカル役で注目を集める。1970年、『あなたに捧げた愛だから』で歌手デビュー。映画『花の特攻隊 あゝ戦友よ』、映画『さえてるやつら』、ドラマ『ウルトラマンタロウ』(TBS系)、『白獅子仮面』(日本テレビ系)、『暴れん坊将軍』シリーズなど映画、ドラマに多数出演。リポーター・ナレーター・MCとしても活躍。2019年に小倉一郎さん、仲雅美さん、江藤潤さんと平均年齢67歳の新人ユニット「フォネオリゾーン」を結成したことも話題に。

◆撮影所の片隅に布団を敷いて仮眠

『光速エスパー』の主役に抜てきされて喜んだのもつかの間、撮影は過酷で、さらに演技の経験もほとんどないまま撮影に突入したため、怒鳴られることも多かったという。

「特撮で飛んだり跳ねたりがメインだからそんなに重要視はしてなかったんでしょうけど、一応芝居がありますからね。演技の指導をろくに受けていない状態でポンとやらされたので、何もわからなくてよく怒られていました。

最初は全部アフレコだったんです。『これはアフレコだからね』と言われたので、『用意、スタート』ってなったときに声を出さずに口パクでやっていたんですよ。そうしたら監督に『カット! 何をやっているんだお前は。声を出せ、声を!』って怒られて、『声を出すんですか? だってあとで声を入れるって言ったじゃないですか』って、そんな感じでしたから(笑)」

-撮影してから放送がはじまるまではどのくらいだったのですか-

「最初にパイロット版というのがあって、2か月くらいかけて丁寧に撮ったんですけど、それがポシャッちゃったんです。普通はパイロット版がダメになると役者を替えるんです。それで、ほかのキャストはみんな代わったんですけど、なぜか僕だけは代わらずそのまま起用されて本編でも採用されました。だからエスパーは26本しかやってないですが、僕は2年ぐらい関わっていました。特撮にかなり時間がかかったので。

お母さん役の月丘千秋さんが優しくてね。『あなたは小さいのによくこんなことをやっているね』って言われたので、『自分の性格を直したくて』って正直に言ったら『偉いわね』ってずいぶん褒めてもらいました」

-14歳にしてはものすごく大人びて見えました-

「自分ではまったくわからないですけど、その前にパイロット版をやったりいろんなテストで吊るされたり、いろいろなことをやらされていたのでだんだん顔が締まってきたのかもしれませんね。地獄の日々でしたから(笑)。自転車で撮影所まで行っていたくらい家が近かったんですけど、それでも帰れないんです。スタジオの片隅に布団を敷いて2時間くらい仮眠して、起こされて撮影するという感じでした」

-放送がはじまってから変化は?-

「すごかったです。僕はエスパーの撮影で中学2年生のときはほとんど学校に行けなかったんです。エスパーが終わって3年生になった途端に撮影がなくなったのでまた学校に行くようになったんですけど、そうしたら下駄箱を開けた途端にファンレターがドドッと落ちてきたりして驚きました。

男の子たちからは『お前学校に来たのか』みたいな感じでそっけなくされましたけどね。だから極端でした。『遊んでくれよ、一緒に』って感じだったんですけど、いじめられたりはしなかったです」

-いろいろと注目されたと思いますが、いかがでした?-

「よくわからないけどそれなりに自分では意識していたのかもしれません。エスパーをやる前とやったあとでは、自分の人生自体がすっかり変わっちゃったような感じでした。

学園生活も変わりましたし…。いろいろなプロダクションから『うちの事務所に入らないか』というオファーや、ドラマの主役のお話もいただいたんですけど、そのときにはまだこれから芸能界でやっていくという気持ちはあまりなかったものですから、全部お断りしちゃったんです。とにかく学生生活に戻りたかったので」

◆16歳で意味もわからないまま愛の歌を…

ようやく学生生活に戻った三ツ木さんだったが、それから間もなく『光速エスパー』を制作していた宣弘社プロダクションから1本の電話が入り、再び芸能界の仕事をすることに。

「宣弘社プロダクションは『月光仮面』も制作していた会社で、『月光仮面の原作者の川内康範先生がエスパーをやった男の子にぜひ会いたいというので、行ってください』と言われて、川内先生が当時住んでいらしたホテルニュージャパンに一人で行ったんです。

そうしたら秘書の方が出てらしたんですけど、だんだん緊張してきちゃって。それでお会いしたら『お前はなぁ、芝居が下手だからまず歌手からやれ』って言われて(笑)。『僕は芝居がやりたくて劇団に入ったんですけど』って言ったんですけど、『まず歌手だ!』と言って、何も言わせてくれないんです。

それで、もうすでに歌手だということでもう事務所に入ることになっているんですよ。『ダメです』とかどうのこうの言うような雰囲気じゃないんです。拒否権はまったくなくて、川内先生の奥さんがやっていた事務所の所属になっちゃって(笑)。

それが15歳のときで、すぐに川内先生が原作で杉良太郎さんの主演映画『花の特攻隊 あゝ戦友よ』に出演することになって、杉さんの恋人役・和泉雅子さんの弟で少年飛行兵の役をやらせていただきました」

-凛々(りり)しくてとても合っていましたね-

「軍人とかああいう役は向いているみたいで、川内先生に『お前出ろ』と言われて出たんですけど、『お前結構うまいな』ってほめてくださいました。

川内先生は歌手にしようと思って2曲ぐらい出したんですけど、全然売れなくて(笑)。デビューが16歳のときで『あなたに捧げる愛だから』という曲なんです。

歌詞を今でも覚えていますけど、『生きててよかったしみじみと。あなたを愛したあの日から、あなたが死ぬなら僕も死ぬ。あなたが生きれば生きていく。あなたに、あなたに捧げた愛だから』というんですよ。それは16歳の子どもには理解しろと言われてもよくわからないですよ。ちんぷんかんぷんで(笑)。だから売れるわけがない。それで鳴かず飛ばずで(笑)。

そうしたら川内先生も苦肉の策で、『新・月光仮面というアニメーションがはじまるからお前は今度主題歌を歌うんだ』と言うので、その歌を練習して一度録音したんです。それで、『これはストックで、今度日をあらためてもう一度録ろう』ということになって、1週間くらい空いたんですね。ちょうど夏休みだったので『ちょっと遊べるな』と思って喜んでいたら盲腸になっちゃったんですよ。ついてないことに(笑)。

盲腸になっちゃって入院して、手術は成功したんですけど麻酔が合わなかったみたいで、ベッドから立ち上がるとハンマーで叩(たた)かれたみたいにガンガン痛くなって歩けないんです。だから傷は治っているんだけど麻酔の後遺症で退院できなくて、入院がズルズルズルズル伸びちゃったんですよね。

そうしたら先生から病院に電話がかかってきて、『お前はレコーディングがあるのに何をやっているんだ!』って言われたので、こういうわけで…と事情を話したんですよ。『歩けないんです、頭が痛くて』と言ったら、『何をやっているんだ、お前は。根性が足りない。お前はやる気があるのか』って怒られて。

『先生、勘弁してください。本当に動けないんです』って言ったら『破門だ! お前はしばらく修行に行け』と言われてクビになっちゃったんです。どういう理由なのかとか、弁明もへったくれもないんですよ。当時の先生は、そういう人だったの(笑)。それが17歳のときで、またひとつ区切りがついたというか、終わりました」

激しい頭痛と足元のふらつきに悩まされながらも高校生活に戻った三ツ木さんは、それから約1年かけて体調が回復。川内さんに破門され、芸能界での仕事はもう難しいかもしれないと思っていたというが、再び俳優として活動することに。

次回は転機となった出会い、『ウルトラマンタロウ』、『白獅子仮面』、映画『さえてるやつら』の撮影裏話なども紹介(津島令子)

※「フォネオリゾーン」
デビューシングル『クゥタビレモーケ』発売中
三ツ木清隆、小倉一郎、仲雅美、江藤潤の4人で結成された新ユニット。赤や青の派手なコスチュームに身を包み、歌って踊って大ハッスル!

※『リモートクイズQQQのQ
YouTube『日本フォネオリレコード』のチャンネル
出演:三ツ木清隆 仲雅美