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田口トモロヲ、伝説のカルト映画『鉄男』を語る。“執念”で撮った1年半「こんな長持ちする財産があるのか」

大学在学中に漫画家デビューし、アングラ演劇や自主制作映画、パンクバンドで活動し、1989年に公開された主演映画『鉄男』(塚本晋也監督)で注目を集めた田口トモロヲさん

映画『うなぎ』(今村昌平監督)、映画『探偵はBARにいる』(橋本一監督)、ドラマ『バイプレイヤーズ~もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら~』(テレビ東京)など、多くの映画やドラマに出演。『プロジェクトX 挑戦者たち』(NHK)や『ドクターX ~外科医・大門未知子~』シリーズ(テレビ朝日系)のナレーターとしても知られ、2003年には映画『アイデン&ティティ』で監督デビューもはたすなど、マルチな才能を発揮している。

4月9日(金)には、映画『バイプレイヤーズ~もしも100人の名脇役が映画を作ったら~』(松居大悟監督)の公開が控えている田口トモロヲさんにインタビュー。

◆ブルース・リーに衝撃を受けた中学時代

大学在学中に漫画家としてデビューした田口さん。絵画は幼い頃から得意だったという。

「小さい頃はとくに個性がない、物静かなおとなしい子どもだったみたいです。その頃は『鉄腕アトム』とか『伊賀の影丸』とか、そういう漫画が子どもたちの間でブームだったので、それをマネして漫画的なものを描いたりしていました」

-よく映画館にも行かれていたそうですね-

「はい。中学時代は、やっぱり圧倒的にブルース・リーの衝撃ですね。ブルース・リーとチャールズ・ブロンソンという二大巨頭。みうらじゅんさんと同世代なので、『ブロンソンズ』というユニットを組んでいるんですけど、『やっぱり、ブルース・リーとブロンソンだよね』って意気投合して(笑)」

-ブルース・リーが流行(はや)ったときは、男の子たちがみんなマネをしていましたね-

「マネしました。『アチョー』という怪鳥音(かいちょうおん)をマネして、中学校の窓ガラスを割ったりしていました。みんなで、『アチョー』って(笑)。アドレナリンが出まくっているから、窓ガラスを割っても痛くないんですよね(笑)。若いゆえに。それでめちゃめちゃ怒られました」

-みんなその気になっちゃうんですね-

「そう。小さな東洋人が大きな西洋人をバタバタ倒す、しかも怪鳥音というのは、それまでの価値観になかったですからね。東洋の島国の子どもたちには本当に衝撃的だったんですよね。あれはもうカッコいいのかカッコ悪いのかわからない、新しい価値観だ、という。

だから、チャールズ・ブロンソンの顔面と一緒です。ブサイクなのにかっこいいという、新しい価値観。でも最初は理解不能で、とにかく何か新しいことがはじまっているというワクワク感がありました」

-ブロンソンは、昔コマーシャルで見てビックリしました-

「マンダムのコマーシャルですよね。『うーん、マンダム』って、『何か苦しんでいるのか? 苦しいのか? この人は』みたいな感じで(笑)。みんなで『顎に何かついているよ』と言っては、『うーん、マンダム』という遊びが流行りました」

-強烈でしたものね-

「強烈だったし、やっぱりカッコよかった。ブロンソンは当時絶世の美青年、イケメンのアラン・ドロンと共演した『さらば友よ』(ジャン・エルマン監督)という映画でアラン・ドロンを食っていたのが衝撃的でした。ブ男のブロンソンのほうが断然カッコいいという、やっぱり価値観の転換ですよね」

※田口トモロヲ プロフィル
1957年11月30日生まれ。東京都出身。大学在学中に漫画家デビュー。アングラ演劇、自主制作映画などに関わり、バンド「ばちかぶり」、「ガガーリン」で音楽活動も。初主演映画『鉄男』がローマ国際ファンタスティック映画祭のグランプリを受賞して注目を集める。映画『弾丸ランナー』(SABU監督)、『クライマーズ・ハイ』(原田眞人監督)、『名建築で昼食を』(BSテレ東・テレビ大阪)など多くの映画、テレビに出演。2003年に映画『アイデン&ティティ』で監督デビュー。これまでに『色即ぜねれいしょん』、『ピース オブ ケイク』と3本の映画を監督。NHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX 挑戦者たち』(2000年~2005年)や『ドクターX ~外科医・大門未知子~』シリーズなどナレーターとしても知られている。

◆漫画の世界から芝居とパンクの世界へ

大学在学中に漫画家としてデビューした田口さん。1979年、『増刊劇画アリス 田口智朗の世界』(アリス出版)、1981年に『ノーパン・パニック』(サン出版)が刊行される。

-大学時代から漫画家として活動されていたそうですが、きっかけは-

「きっかけは留年です。大学に4年間通っていたんですけれども、1学年も上がることがなく、ずっと1年生のまま(笑)。4年経ったときに、おやじに『来年就職だな。どうするんだ?』と言われて、『まずい』と思いまして(笑)。何か手に職をもって自立すればいいだろうと思って、漫画を描きはじめたという感じです。一人でできる仕事ですしね。

でも、一般漫画を描いて出版社にもち込んだりしたんですけれどもダメで、それでたどりついたところが官能漫画、エロ漫画と言われる世界。そこにもち込んだら、『明日から描いてくれ』みたいな状態で、1枚3000円とかという世界だったんです。とにかく必死になって描きました、その当時は。

エッチ漫画だったんですけど、今、映画監督になっていらっしゃる石井隆さんという方が、劇画に革命を起こしたというか、エッチ漫画に大改革を起こしたと言われた時期で。それまでは、そういうエロ系の漫画は読む人というのは限られていたんですけど、石井さんをはじめ、何人かの意識の優れた劇画家たちが、エロを媒体に非常に芸術ティックな作品を描き出してブームになっていたんです、一部で。

結構その頃アートっぽいエロという感じのものが流通していて、例えば蛭子能収さん。全然エッチじゃないんですけど、蛭子さんとかもその頃頭角を現していた方ですし、そういう結構自由な時代だったので、運良くそこでデビューできたという感じです」

-かなり忙しかったのでは?-

「そうですね。その当時下宿していて親からの仕送りでやっていたんですけど、1年間で100万円貯めて独立して、仕送りなく自立することができました」

-大学を辞めることについてご家族は?-

「親には言わなかったです。言ったら怒られるし止められるので、1学年も進級していないということもバレないように、黙ってトンズラしました(笑)。もう本当にモラトリアム期間でした。そのときにアングラ演劇と出会ったり、フリージャズと出会ったり…そういうカルチャーに詳しい先輩と出会うことによって、いろんなことに目覚めていきました」

-漫画の世界からお芝居の世界へというのは?-

「当時、ゴミの島なのに『夢の島』と名付けられていて、その夢の島に紅テントが張ってあって、そこで唐十郎さんの状況劇場の芝居を見たら、あまりにも衝撃的で。心臓を鷲掴みにされたぐらいショックで心をさらわれました。『これはすごいなあ』って。

それまで、映画でもテレビでも、メディアで見たことがない俳優たちですよね。のちにメディアに登場する根津甚八さんや小林薫さん、そしてとにかく大久保鷹さんというすごい怪優がいて。

その俳優たちを見て、モーレツに衝撃を受けて、『これはすごい世界があったもんだ』って。そこからアングラ演劇に目覚めて、寺山修司さんの『天井桟敷』を見たり、次の世代の人たちの芝居を見まくって、その影響で自分たちもはじめたという感じです」

-お芝居にパンクミュージックも-

「パンクもやっていました。その頃、並行してパンクムーブメントがちょうど日本に入ってきていて、周りでそういうことをはじめる人たちがいて、それに乗っかったというか」

-漫画もそうですけれども、表現するということが合っていたのでしょうね-

「そうですね。若いから、何か自分のなかに得体(えたい)の知れないいろんな感情が沸き上がって、怒りであったり、悲しみであったりとか、どういうものをどう発散していいのかわからなかった。

そんなときにそういう表現と出会って、表現というステージで発表すれば大丈夫なんだということを発見して、必然的に導かれて爆発したという感じです(笑)」

-アングラ演劇やパンクミュージックだと、経済的には厳しかったのでは?-

「そうです。ですから20代のときは漫画を描いて、そちらできちっと生業(なりわい)を立てて、アングラ演劇とパンクバンドに入れあげていたという感じです」

1978年、メディアには出ないがアングラ演劇の業界では著名な人たちが在籍していた劇団「発見の会」に参加。1985年には「劇団健康」を結成。1983年から音楽活動も開始し、パンクバンド「ガガーリン」、翌年には「ばちかぶり」を結成。過激なパフォーマンスが話題に。

-いろいろなことを精力的にやられていたのですね-

「そうですよね。あの頃はもう本当にやれることは何でもやるというか、やりたいと思ったらやるというのが、パンクのDIYの精神ですから(笑)。そう教えられてしまったので、もうやるっきゃないと思ってやっていました」

-ものすごくシャウトされていましたが、ノドは大丈夫でした?-

「自分の声が嫌いだったので、歌うときにつぶしていました。わかりやすく言うと、トム・ウェイツ(アメリカのシンガーソングライター)のようなしゃがれた歌い方とかがすごい好きだったので、意識的に自分で作ってシャウトしていたという感じです。

若かったし、それと自分のなかに潜んでいる、世の中に出したら否定されるような暴力衝動とか、そういったものをバンド活動であったり、アングラ演劇活動で全部出し切るという作業でした」

 

◆初主演映画が世界を熱狂させることに

1989年、田口さんは塚本晋也監督の映画『鉄男』に主演する。この作品は、ある日突然全身を金属に侵食されていく謎の症状に悩まされた会社員の男(田口トモロヲ)が、かつてひき逃げした男(塚本晋也)と繰り広げる壮絶なバトルを描くカルトエンタテインメントムービー。第9回ローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞するなど、海外でも高く評価され世界中にコアなファンが多い。

-『鉄男』は衝撃的な作品でしたが、出演されることになった経緯は?-

「アングラ演劇をやっているのと、インディーズバンドをやっているのを塚本監督が見にいらして、人を介して知り合って、『今度こういう作品を自主映画で撮るんですけれども、主役にぴったりだから出てください』と言われました。

-言われたときはどうでした?-

「映画というのは、アングラ演劇やインディーズバンドみたいにDIYですぐやりたいと思ったらできる、ということとは違うシステムとスケールがあると思っていたので、遠いものだと思っていたんです。だから、どんな感じになるのかなという好奇心でした」

-実際に撮影がはじまってからはどうでした?-

「大変でした。撮影に1年半ぐらいかけたんですけれども、最初は10人くらいいたのかな? みんなボランティアで好きで集まった人たちが10人くらいいたんですけど、最後はもう3人とかで。監督がカメラを回して、それで出演もしているので、監督が出演しているときには僕が照明をもったりとかして、最後は出演者だけで回していたという状態でした」

-今の時代だったらCGでいろいろできるようなことが当時はまだなかったですから、技術的にも苦労されたのでは?-

「すべてマンパワーです。ただ、ものづくりというのはものすごい執着力と持続力、強度な気持ちで作らなければいけないんだなという驚きと発見、そうやって出来上がった映画をスクリーンで見たときの感動というのは忘れません」

-塚本監督自ら廃品のテレビを拾ってきたりしていろいろ準備されていたそうですね-

「そうです。両面テープで直接肌に鉄をくっ付けられて、それを取るときがめちゃくちゃ痛いんです(笑)。

それで、すべて鉄くずで『鉄男』という造型を作ったんですけど、それを撮影前にからだに貼り付けて、『じゃあ、ここで立って』と言われたとき、鉄が重すぎて立てなかったんですよ(笑)。全部拾ってきた本物の金属の鉄だから重くて。

そこで、また一つずつ取っていって、『これだったら立てますかね?』という状態になってから撮影しました」

-塚本監督の「これは何が何でも作る」という執念を感じる作品でした-

「そうですね。1年半かかりましたから。黒澤明監督の『七人の侍』と同じ期間ですよ。スケールは全然違いますけど(笑)」

-日本より先に海外で高く評価されました-

「そうですね。日本では最初ほとんど無視されて発表の場もありませんでした。そうしたら海外にもって行ってくださるというプロデューサーの方がいて、ローマのファンタスティック映画祭でグランプリをとっちゃって。日本では、ほぼメディアに載らなかったんですけど、中野の映画館で上映されたら、記録的なロングランになって。『ああ、こういうものを求めていた人がたくさんいたんだ』って感激しました」

-今も根強いファンの方がいらして特集上映もされていますね-

「そうなんですよ。こんな長持ちする財産があるのかっていうぐらい、いまだに言われますから。2年前に30周年記念で爆音上映をやったら、見てないという若いお客さんたちが来てくれて、すごい作品に出会っていたんだなとあらためて思いました」

-続編『鉄男Ⅱ BODY HAMMER』も製作されました。1作目に比べると出演者も増えて-

「そうですね。かなりシステムも上達されて、いろんな分担作業も行っていたり、あと特殊メイクの方もいらっしゃいました。『鉄男』を見て衝撃を受けた人たちがボランティアスタッフとして集まってくれていて、いろいろ作業しているのを見て、こうやって表現って繋がっていくんだなと思いました」

-フィルム撮影ということで、予算がかなり厳しくほとんどワンテイクで撮影されていたとか-

「そうです。塚本監督はそういう経済感覚と撮影感覚が慎重な方ですから、丹念なリハーサルを重ねて、テイクは一発。フィルム代が大事ですのでという監督さんでした」

-それで知らない世代の方も見る伝説の作品が出来てしまったところがすごいですね-

「本当に。意外ですし、そういうつもりで参加していたわけではないので、塚本監督が映画監督として国際的にきちっと公認されているということ、持続できたということもすごい。しかも塚本監督はずっとインデペンデント、DIYで自分の思うまま作るというスタイルを変えてないですからね。

そのスタイルで継続できているということは驚異的なことだし、表現する人間にとっての希望ですよね。その最初の作品に関わることができて光栄でした」

『鉄男』はしだいに日本でも話題になり、田口さんも注目を集め、映画・テレビへと活躍の場を広げていくことに。次回は毎日映画コンクール男優助演賞を受賞した映画『うなぎ』(今村昌平監督)の撮影裏話、ナレーターとしての活動なども紹介。(津島令子)

©︎2021『映画 バイプレイヤーズ』製作委員会

※映画『バイプレイヤーズ~もしも100人の名脇役が映画を作ったら~』
2021年4月9日(金)より全国公開
配給:東宝映像事業部
監督:松居大悟
出演:田口トモロヲ、松重豊、光石研、遠藤憲一、濱田岳、柄本時生、菜々緒、高杉真宙、芳根京子、岸井ゆきの、でんでん、北香那、木村多江、北村一輝、有村架純、天海祐希、役所広司 ほか
田口トモロヲたち100人を超える俳優たちで賑(にぎ)わう撮影所で、濱田岳を中心とした若手役者たちが″犬″を主役にした映画を撮影することになるが、ベテラン俳優たちをも巻き込んださまざまなトラブルが勃発して大変なことに…。