大沢悠里、“イワシ売りのモノマネ”で近所を混乱させた少年時代。戦時中、「ラジオが唯一の友だちだった」
1986年から2016年まで、TBSラジオで30年間続いた生バラエティ番組『大沢悠里のゆうゆうワイド』(月曜日~金曜日・午前8時30分~午後1時放送)でパーソナリティーを務め、現在は毎週土曜日に『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』(土曜日・午後3時~5時放送)を担当している大沢悠里さん。
テレビ局のアナウンサーでありながら、テレビにほとんど出演しないことで話題に。1991年に50歳で退社してフリーに転身後も顔出しでのテレビ出演は一切やらないという方針で仕事をされている大沢悠里さんにインタビュー。
◆イワシ売りのモノマネがうますぎて…
東京・浅草で生まれ育った大沢さんは4人きょうだいの一番下で、上には姉と2人の兄がいたという。
「僕は4人きょうだいの末っ子で、上には6歳と8歳も離れている兄がいて、姉がいて。できてもできなくてもいいようなものだったんです。いわゆる戦争中で、『産めよ増やせよ』の時代ですよ。
だから、いつのまにか生まれちゃったという感じ。兄弟でご飯を食べていても、僕だけは黙々と食べていて、兄貴たちのなかに入って話をするということもなく、サッサと1人で自分のご飯を食べて、外に出て行って遊んでしまうという子どもだったみたい。六つも離れていると話に入っていけないんですよ。
浅草だったから、3歳とか4歳の頃は、近所の子どもたちと遊んでいたみたい。遊びと言ったって、石けりをやったり、地面に輪を書いて飛んだり…下町の路地でやるような遊びだけどね。
あとはけん玉とかベーゴマとか、そんなものでお金を使うものはやってない。お金なんかないからね。だから、そういうような普通の子どもで物怖じはしなかったけど、小学校も当たり障りなく、頭も平均でね」
-小さい頃からラジオがお好きだったそうですね-
「一人ということになると、やっぱり相手が欲しいでしょう? そこにラジオがあったんですよ。テレビがない時代だから、おふくろがラジオを箪笥(たんす)の上に乗せて、唐草の風呂敷をかけてね。大事にテレビの画面を見るような気持ちで、聴くときはみんなで上を向いて聴いていたんですよ。
家ではラジオが唯一友だちだったから、暇があるとラジオは聴いていたんです。昔のラジオだからたいしたことはやってなかったんだけどね。戦争中になりますから、戦争の東部軍管区情報なんていうものがあって、敵が来るとか来ないとかという、そんなひどい話の時代ですけどね。
小学校に上がってもラジオでいろんなものを聴いていて、NHKのラジオドラマ『紅孔雀』や『三太物語』だとか、子どもの頃の吉永小百合さんが出ていたラジオ東京(現・TBSラジオ)とか。そういうものを聴いていて、ラジオが僕の唯一の友だちだったんです。
とくにアナウンスというもの、アナウンサーというものに興味をもったから、アナウンサーのマネをしたりして。終戦後になってくると、『ニュースをお伝えします』という声を聴くと、『あっ、宮田(輝)さんだ』とか『高橋圭三さんだ』とか、一言でわかるくらいにラジオが好きになっちゃったんです」
-ラジオを聴きながらモノマネをされていたと聞いています-
「聴きながらマネをしていました。なぜか、おとなしいわりにはモノマネがうまくてね。戦争中なんかでもそうだけど、千葉だとかから行商のおばさんが来たり、いろんなものを売りに来たりするんです。それで、イワシをリヤカーに積んで、2日に1回とか3日に1回売りに来るおじさんがいたんですよ。
イワシなんていうのはタンパク源でなかなか買えない。『イワシこーい、イワシこーい』って言いながら来るんだけど、その声を聞くと、みんな買いたいからザルをもって飛び出してくるんですよ。
僕はこういうのがうまくてね、ひとりでモノマネをして『イワシこーい、イワシこーい』ってやると、近所のお母さんたちが飛び出してくるんですよ(笑)。
僕にだまされちゃう。『あーら、悠里ちゃんなの? なーんだ』って。それで、また『イワシこーい』って聞こえると、『また悠里がやっているんだ。バカなやつがやっているよ』って出ていかないと本物だったりしてね(笑)。町内の人たちが買えなかったっていうので、よくおふくろがあやまっていたっていう逸話があるんだよね」
-それはいつ頃だったのですか?-
「浅草にイワシを売りに来ていたんだから、東京大空襲で焼ける前でしょう。普通のやんちゃな子どもだったんだけど、そういうマネをして遊んでいたのだから、ちょっとしゃべるのが得意だったというか。アナウンサーに興味をもったり、モノマネをしたりするというのが、放送局に行く芽生えだったのかな」
※大沢悠里プロフィル
1941年2月11日生まれ。東京都出身。1964年、早稲田大学法学部卒業後、TBSアナウンサー第9期生として入社。5年間、報道番組などを担当後、ラジオをメインに活動。『そこが知りたい』をはじめ、多くのナレーションも担当。1991年、アナウンス部長を最後に50歳で独立。1986年から2016年まで30年間『大沢悠里のゆうゆうワイド』(TBSラジオ)のパーソナリティーを務める。現在、毎週土曜日にパーソナリティーを務めている『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』をはじめ、フリーアナウンサーとして活躍中。
◆中学・高校は放送部、大学で放送研究会に所属
アナウンサーに興味をもった大沢さんは、中学・高校は放送部に所属、大学では放送研究会に入っていたという。
「アルバイトばかりやっていましたよ。高校生のときには郵便局。郵便局に朝早く行って小包の整理をしたり、年末年始は年賀状の仕分けとか。あの頃はやっぱり人手が足りなかったんですね。男の人はみんな戦争に行っちゃっていたから。
大学生になってからは司会の仕事。『椿山荘納涼ちょうちん祭り螢の夕べ』の司会だとかね。『本日はようこそお越しくださいました。大勢の皆さんにお越しいただきまして、きっと草葉の陰で蛍も喜んでいることでございましょう』とか、バカなことばかり言ってね(笑)。
僕は大学は早稲田だったから、椿山荘には芭蕉庵というところを上に上がって行くんです。学校が終わって夕方になると椿山荘に出かけて行っていました。そういういい思い出ですよ、遊びながらですから」
-クラブ活動はずっと放送部で?-
「アナウンサーになるというのは、もう小学校ぐらいのときからもう決まっていましたよ。小学校のときの友だちに会うと、『大沢、お前は筆箱を立ててマイクの代わりにして、よく教科書を読んでいたぞ。なかなかうまかった』って言われてね(笑)。
それで中学のときの友だちに言ったら、『お前は休み時間、外に遊びに行かないで一人で筆箱を立てて、教科書を読んでいたよ』って言うの。周りが言うんだからね。
大学時代は、舞台中継というのがあってね。昔はテレビがなくてラジオだけの時代に、歌舞伎の舞台をラジオで中継しちゃうというのをNHKでやっていたんですよ。それでお会いしたことも何回かあって、お酒を一緒に飲んだこともある大大大先輩で高橋博さんという、すばらしい声を出す方がいらっしゃるんですよ。
『幕がスルスルと上がると舞台上手から~』という感じではじまって、目を閉じていると舞台風景が浮かんでくるような、それをラジオでずっと聴いていたの。電気を消して目をつぶって聴いていると『なるほどなあ』って。歌舞伎も好きで、大学時代はアルバイト代をためて安い席で見に行ったり、舞台中継を聞いたりして、『将来は舞台中継のアナウンサーになりたいな』って。
今でも芝居は好きなんですよ。だから、どういう舞台中継をするかというね。僕の声質はそういうのに合っているらしいんですよ。チャラチャラしていないから。だから、そういうものをやりたいなということが一つ、目標にはあったんですね」
◆念願のアナウンサーに。怪獣の着ぐるみに入ってウルトラマンとバトルも…
1964年、早稲田大学法学部卒業後、大沢さんはTBSアナウンサー第9期生として入社する。
-入社試験を受けたのはTBSだけですか?-
「おかげさまで、最初の試験で入っちゃったからね。僕は東京が好きだし、TBSにはとてもいい先輩がいて、その先輩が可愛がってくれたんですよね。その関係もあって、TBSを受けたんですけど、最初の試験だったんだよね。
それで受かっちゃったから、ほかを受けなかったというだけのことなんですよ。今はそうでもないけど、TBSは東京では早いほうの放送局だったからね。もう一つの理由はテレビに出たいわけじゃないけれどもナレーションは好きだったんです。テレビでナレーションもできるんだよね。だから『そこが知りたい』とか、いろんな番組で、ずいぶんナレーションはやらせてもらいました。
だけど一方ラジオができるんですよ。僕は作るのは好きなんだよね。放送研究会時代も、番組をいろいろ作ったりしていたんですよ。いろんなものをね。
作るのは好きなので、いつも制作の部屋にいたら、当時の局長で、のちに社長になったけど、その人が『君はラジオを作るのが好きか?』って聞かれたから『はい、好きです』って言ったら『じゃあ兼務にしてやるから』って言われて。
ラジオとテレビ、アナウンサーと両方やることになって、自分の番組を作ることもあるし、人の番組も作るということになって、これはいい勉強になりました」
-ウルトラマンと戦ったこともあるそうですね-
「『ヤング720』という番組で『ウルトラマン』の取材に行ったんですよ。そのときにウルトラマンと戦う怪獣に入ったの。『ウルトラマンを着せてくれ』って言ったら、『からだに合わないからダメだ』って言われちゃってさ(笑)。
『太った怪獣だ』って言われて怪獣に入ったんだけど、それは取材でおもしろくするための思い出の一つとして話したことなんですけどね。怪獣に入って、はじめて怪獣に入っている人の苦労がわかりましたよ。暑いのと臭いので(笑)。『汗臭い』って言われてね。
古谷敏君がウルトラマンを長くやっていたんだけど、敏ちゃんも大変だったって言っていた。ウルトラマンは有名になったけど自分は有名にならないんですよ。町を歩いていても誰もウルトラマンに入っていた人だとはわからない。
『古谷さんだって言ってもらいたいんだけど、言ってもらえない虚しさを感じた』って言っていましたよ。あれだけ活躍したのにね。僕は一回だけの取材ですよ」
-怪獣に入ったのは大沢さんが自ら希望されたのですか-
「そう。やっぱりそれは作るほうに回っちゃうんでしょうね。ただ取材していても、見ていておもしろくないでしょう? だったら、僕が怪獣に入ってウルトラマンと戦ったらおもしろいじゃない(笑)。だからやるわけですよ。
そうしたらミニチュアみたいな家があって、道があるんだけど、それを踏み潰さないようにしなきゃいけないの。尻尾を抱えてさ、歩いてくるのは大変なんだから(笑)。
爆薬を仕かけるから、目の開いているところがものすごく小さいんだよね。そんなのも忘れていたんだけど、誰かに話したら広がっちゃって…。とにかく番組でもなんでも、おもしろくなくちゃね。
番組でも食べ物でもそうだけどお客さんがまた食べたいなぁっていう料理を作らなきゃいけない。ラジオでもテレビでも、また続けて聴きたいな、できたらずっと続けていきたいな、食べたいなと思うようなものにしないとね。だからおもしろくしなきゃいけないということが第一なんですよ」
1968年、ラジオ番組『トヨタ・ミュージック・パトロール』のパーソナリティーを担当することになった大沢さんは、ラジオ番組を中心に受けもつことになっていく。
次回は30年間続けた週に5日、4時間半の生ワイドラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』の裏話も紹介。(津島令子)
※『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』
毎週土曜日・午後3時~5時生放送(TBSラジオ)
パーソナリティー:大沢悠里
パートナー:西村知江子
※2021年2月20日(土)は筒美京平さんのリクエスト特集を放送