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マッハ文朱、“母の遺言”でアメリカへ。パイロットの夫に捧げる「おかえりなさいっていう生活」

1985年、1年間のNY留学生活を終えて帰国したマッハ文朱さんは芸能生活を再開。クイズ番組、バラエティ番組にレギュラー出演しながら、伊丹十三監督の映画『マルサの女』、『マルサの女2』、五社英雄監督『肉体の門』など大作映画やドラマ出演も続き、多忙な日々を送ることになる。

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◆ドラマ出演のために20kg減量

元気いっぱいの明るいキャラクターと華やかな容姿、クイズ番組の正解率の高さで引っ張りだこだったマッハさん。ドラマ出演を機にダイエットにも挑戦することに。

「帰国してすぐにクイズ番組があり、バラエティ番組をやらせていただいたりと忙しい毎日でした。ドラマの流れでダイエット本とハトムギの本も出させていただきました。

脚本家のジェームズ三木さんがある局のエレベーターで私と一緒だったみたいで、『そのときに、いつかドラマの書き下ろしをしてみたいと思っていた』と言ってくださって、2人の男性の間で揺れ動く女性の役を書いてくださったんです。『えーっ、私でいいんですか』って感じで(笑)。

今までだったら、『マッハ文朱登場→椅子に座る→バーンと椅子が壊れて、ハハハ』みたいな、そういう元気のいい役ばかりだったんですけど、はじめてそういうお話をいただいて。

それで、堀川とんこうさんというTBSの名物プロデューサーさんとジェームズ三木さんとお会いしたときに、最後にポロっと、『痩せる予定はおありですか?』って一言おっしゃったんです。

その言い方がすごくすてきだったのと、当時はロバート・デ・ニーロが『レイジング・ブル』という映画で約30kg増量して体型を変えたり、『コンペティション』という映画でリチャード・ドレイファスが完璧にピアノが弾けるくらいになるとか、できる限りの役作りをハリウッドスターはやるみたいな時代だったんです。

それで、私も運動したり、食事も炭水化物を減らしたり、ほかにもいろいろなこと試してやってみたら20kg減量することができました」

◆28歳で高校2年に編入、卒業後アメリカの大学へ

仕事で忙しい毎日を送っていたマッハさんだが、いつか機会があったら大学に行ってみたいと思っていたという。

「私はプロレスラーと高校生という二足の草鞋(わらじ)で、年間250試合するわ、忙しいわということで両立が無理で、高校2年で中退したんですが、もうちょっと勉強したいという気持ちがずっとあったんです。

そうしたら母が、『また中途半端なことになってもいけないから、きちんとまず高校を終えて、それでもまだ勉強したいというのだったら大学に行くというのもありなんじゃない?』って言ったんです。

それで28歳のときに前に通っていた明大付属中野高校に行って相談したら、前の単位が残っていたので単位証明書をいただいて、東海大付属望星高校に行くことに。

今はインターネットの時代ですけど、当時はラジオの番組を聞きながらレポートを仕上げて送って、そしてスクールに行くという感じで。

高校2年に編入することができたんですけど、4年制ですから、2年、3年、4年と3年間。

レギュラーの仕事をこなしながら、学校に行って、テープに録音して20本ぐらいテープをホテルにもっていって聞いて、レポート用紙に書いて提出して。

忘れもしませんけど、名古屋のホテルでレポート用紙をもってないことに気がついて、夜、お店の方が2階に住んでいそうな文房具屋さんを探して、シャッターを叩いてレポート用紙を売っていただいて(笑)。

それでホテルからレポートを書いて送ったりして、もう本当に貴重な経験をして卒業させていただいて、ロサンゼルスのペパーダイン大学に行きました」

-そこで健康心理学を勉強されたのですか?-

「はい。レギュラーが待っているから4年じゃなく2年で帰って来なさいと言われていたので、ペパーダイン大学の後、南カリフォルニア大学に行ったんですけど、短期大学、コミュニティーカレッジにしてビジネスという専攻にして2年で修了しました」

◆パイロットと国際結婚、2児の母に

1992年に帰国したマッハさんは決まっていた仕事をこなした後、1993年に台湾系アメリカ人のパイロットと結婚。1994年に長女、1995年に次女を出産する。

-ご主人との出会いは?-

「最初に1年間NYに行ったとき、11か月目で出会って、すごくすてきな方で、実はそのときにプロポーズもされたんです。でも、間髪入れずに『ノー』(笑)。

それはなぜかと言うと、仕事が好きで仕事がしたいと思っているから、結婚が嫌だとか、彼が嫌だとかいうことではなくて、仕事が待っているということで、『ノー』と言ったと思うんですけど、彼が待っていてくださったので。

NYの最後の1か月間だけうちの妹が遊びに来ていて、主人にはじめて会った夜、『あの人だったら私お兄さんと呼んでもいいよ』って言ったんですよ。私は『あり得ないし』なんて言っていたんですけど(笑)。妹は直感でそう思ったみたいです」

-結婚されてすぐにアメリカに?-

「はい。主人が台湾系のなんですけど、ずっとNY育ちで。母が『パイロットというのは大切な人命をお預かりするお仕事だから、家に帰って来たとき、おかえりなさいっていう生活をしなさい』って。

私は34歳まで仕事をさせていただきましたし、『結婚したら家庭も大切なことなので、仕事を少し休んでいくというのもありなんじゃない? それで運よく子どもを授かったら子育てというのも大切な時期だから』というのが母の遺言ですね、それは」

◆タカラジェンヌの長女のために帰国、20年ぶりに芸能生活を再開することに

2013年、マッハさんは宝塚歌劇団星組に所属する長女の桃堂純さんをサポートするために帰国。ご主人とプロテニスプレーヤーとしてアメリカを拠点に活躍している次女のユキさんはロサンゼルスで暮らしている。

「私たちは結婚して5年間台湾で暮らし、そのあとアメリカで暮らすことになったんですけど、慣れないところで幼い娘が2人だと大変だろうということで、上の娘はしばらく日本で過ごすことになったんです。

娘は4歳だったんですけど、私とよく来ていたので日本が大好きで、和文化にとても興味がって『日本舞踊が習いたい』って習うことになって、アメリカで学校の準備も全部していたんですけど、日本で暮らしたいって。

娘は中学生になったときには身長が170cmを超えていたので、周りから『宝塚に入ったら?』って薦められていたみたいですけど、そのときにはまだ宝塚の公演を見たことがなかったんです。

それが13のときにはじめて公演を見て、『宝塚に入りたい』って言って受験することに。4歳から日本舞踊をずっとやっていて、宝塚を受験したときには名取になっていましたから、舞台に立つのは好きだったんでしょうね。

娘は宝塚を受験して音楽学校時代を過ごしましたが、私の娘だということは誰も知らなかったみたいです。

7年前、娘がまだ研究生だったので、母親として色々手伝ってあげたいと思ったのと、20年間海外で暮らしていたので、あるかないかわかりませんけど、私の仕事も少しずつ再開できたらいいなという思いもあって日本で暮らすことにしました。

宝塚にはときどき差し入れをもって行ったりしていたんですけど、私のことを知ってくださっている方がそれを見て『どうやらマッハ文朱がタカラジェンヌにハマって、毎日プレゼントを届けているらしい』という噂が出たりして(笑)。

そういうふうに娘の手伝いをしながら、仕事を少しずつ再開してという感じでした」

-お嬢さんも自立心がすごいですね-

「明確にありました。ものの見事に、おもしろいくらいに自分の世界観がきちっとある子で、これはもう誰にも変えられないなって。

ランドセルのなかも、並べる順番から何からピシッとしている。私はいいかげんだから、適当に入れちゃうんだけど、『マミー、ダメだから』って直されます(笑)。

-下のお嬢さんはテニスプレーヤーでご主人とアメリカに-

「ほとんど遠征で、50州で1シーズン35試合出なきゃダメなので、ずっと遠征を何年か続けていて優勝も何回かさせていただいたり、ランキングもいただいていたんですけど、このコロナ禍で、どうしようかということになって。

本人が大学に戻りたいという話になって、それで編入試験で、やっぱりスポーツマーケティングで将来、できれば、ニューヨークヤンキースとかに属していたいらしいので、今はコロナでオンラインですけど、そこで、頑張って勉強して来年の夏くらいに卒業することを目標に頑張っていますよ。

彼女は最後に行った高校は小さな私立高校なんですけど、そこのテニスチームにひとり欠員が出たので娘にオファーが来て、うちの娘が優勝に導いたということで、名前が学校の壁に彫られているんです」

-お嬢さんたちもすごいですね-

「ありがとうございます。自分たちがやりたいことが見つかったこと、それからもう一つ、自分がやりたいと思ったことをさせてもらえる状況、宝塚にしても、テニスにしても、なかなかそうはいかないので、すごくラッキーだと思います。

それでそのなかで、なかなか貴重な経験をさせてもらえていて、その先はきっと何か軸が出来上がって、いろんなことに立ち向かえる芯が作らせていただけているんじゃないかなって。

今はコロナで行き来ができないので、主人と下の娘に会えないのが残念ですけど、いずれ必ず終息すると思うので、今は我慢するしかないです」

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◆保健所から撮影禁止勧告を出されて製作中止になった映画が復活

2014年、マッハさんは本格的に芸能生活を再開。『きらきん!』(KBS京都)で自身のコーナーを担当。シニア層に向けた「元気になる講演会」活動にも力を入れている。2021年に公開される映画『ネズラ1964』にも出演。主題歌も担当している。

※映画『ネズラ1964』1月中旬より池袋HUMAXにて公開
配給:KADOKAWA
監督:横川寛人
出演:螢雪次朗 菊沢将憲 米山冬馬 佐野史郎 古谷敏 マッハ文朱
主題歌:マッハ文朱

この映画は1964年に公開される予定だったが、生きたネズミをミニチュアのなかに置いて巨大な怪獣に見せかけるという方法を取ったため、ノミやダニが大量発生し、近隣住民のクレームによって保健所から撮影禁止勧告を出されて製作中止となった『大群獣ネズラ』のスタッフの苦悩や挫折、そして『大怪獣ガメラ』製作へとつながる物語をフィクションを交えながら描いたもの。

「実は、私の唯一の主演映画『宇宙怪獣ガメラ』のイベントを昨年末、京都の南会館というところでやって、それがこの『ネズラ1964』に出演することにつながったんです。それで主題歌も歌うことになって」

-メイキング映像でレコーディング風景を見ましたが、とても楽しそうでした-

「実はすごくキーが高くて必死だったんです。歌い終わった後、『高い-っ、血圧が上がる』なんて言いながら笑っていたんです(笑)」

-『ネズラ1964』は、1964年に製作中止となった作品ですね-

「そうなんです。CGがない時代でしたから、本物のネズミを使っちゃって。みんな防護服みたいなのを着用して、すごい状態で撮影していたみたいですけど」

-今回はどうでした?-

「私は反対する人たち側の役だったんですが、監督に『クラウドファンディングで一般の皆さんが参加してくださるような映画なので、私の役の名前をTwitter上で皆さんからの応募にさせていただいていいですか?』ってお願いして。

そうしたら、いろんな名前を応募していただいて、そのなかの選ばれた方は、2つ特典がありまして、一つは私からのダイレクトメールが届く、もう一つは最後の字幕スーパーに名前が入る。

『ネズラ1964』は、純粋に怪獣映画が好きという方たちの想いと、クラウドファンディングで集めたお金とか、信じられないくらい純粋な皆さんの思いが結集してできた作品なんです。

そういった皆さんの気持ちが詰まった映画だから、役名も皆さんに決めてもらいたかったし、主題歌も皆さんと一緒に歌いたいと思いました。そういう作品に参加できたことがとてもうれしいです」

-今年はコロナの影響で講演会の中止などもあったのでは?-

「ほとんど中止になっちゃったんですけど、私は講演会の最後に必ずみんなで『YMCA』を踊るんです。大学で勉強した心理学をうまく利用して、気がついたら踊っているという状況に導きながら全員で踊るというのがすごく好きで。

まだ今はコロナで一緒に踊れませんけど、いずれ絶対に終息すると思うので、そのときはまた皆さんと一緒にYMCAを踊りたいと思っています。

コロナで大変な状態ですけど、大変なことを大変だと思いながら過ごす10分間と、『終わったら何をしよう?終わったら次、何か楽しいことが待っているかも』みたいな感じのことを思い描いていると、同じ10分間でも『あれっ?もう終わっちゃった?』みたいな。

そういうメンタル的な感じですよね。それは、うちの家族、マッハ家の母なり、姉なり妹なりの特徴かもわからないですけど。

『マッハ文朱の最終章』に入ったと思うので、これから何ができるのか、マッハ文朱らしく最後までいきたい。

あと、これまで私は本当にラッキーな人生を送らせていただけたので、社会に恩返しも同時にできたらいいなというのが、今一番の課題です」

家にいる時間を活かそうと、読書や資格習得にも意欲的。シャンソン歌手としての活動、ハトムギの普及、落語などマルチでポジティブな生き方を貫いているところがカッコいい。(津島令子)

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