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女子プロレス界の救世主・マッハ文朱、公衆電話で連夜の涙…選手仲間からの「超逆風」バネにし女王に

1974年、15歳のときに女子プロレスラーとしてデビューし、キュートなルックスと174cmの長身で注目を集め、マイナーだった女子プロレスをメジャーな存在へとけん引した女子プロレス界のレジェンド・マッハ文朱さん

16歳でWWWA世界シングル王座を獲得し、最年少戴冠記録とデビュー後最短戴冠記録を樹立。歌手としてレコードを発売して試合後にリングで歌を披露。テレビ、映画に出演するなどアイドル性も発揮し、多くの女性ファンも獲得するが2年8か月で引退した。

その後、歌手・女優・タレントとして活躍し、映画『トラック野郎・天下御免』(鈴木則文監督)、映画『マルサの女』(伊丹十三監督)、『象印クイズヒントでピント』(テレビ朝日系)など多数出演。

1993年に台湾系米国人パイロットと結婚して芸能生活を休業、20年間海外で過ごし、2013年に帰国して『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演し、本格的に芸能活動を再開する。

ショップチャンネルにてベストセラー「ハトムギ」の商品開発や2020年に新作映画『ネズラ1964』に出演のマッハ文朱さんにインタビュー。

◆『スター誕生!』のオーディション、決勝で山口百恵さんと

熊本県で生まれたマッハさんは、三姉妹の真んなか。男勝(まさ)りでいつも校庭でドッジボールをしたりして、砂まみれになって遊んでいるような元気いっぱいの子どもだったという。

13歳のとき、『スター誕生!』(日本テレビ系)のオーディションに参加することに。

「当時、『スター誕生!』は超人気番組で、あの頃はほとんどみんな見ていたと思うんです。

それで、オーディションがあるということで、友だちと『みんなで出そうよ』って軽いノリで送ったんですよ。

そうしたら、忘れた頃にオーディションの連絡が来たので行ったんですけど、何千人もいて、私は700番台。歌って、ホワイトボードに番号が書かれるんですけど、あれよあれよという間に最後まで残っちゃって。

それで250点を取ると決勝に行けるんですけど、私は248点だったんです。

それが最高得点だったんですけど、250点が出なかったので、その週は誰も決勝進出者がいなかった。萩本欽一さんが『合格者なしよ』って言う。でも、私は『ワーッ、248点も取れた』って、そんな感じでした(笑)」

-決勝に行けないという悔しさではなく?-

「全然まったくそんな気持ちはなく。ところが、総評で審査委員長の阿久悠先生がプロデューサーさんに『5番の渡辺さん(本名)をもう1回出させてあげてください』って言ってくださったんです。私は『えっ!? 私?』みたいな感じで(笑)。

それで、またオーディションがあるから来てくださいって言われて、もう1回出て、489点取って決勝に出たんです。

その『第5回決勝大会』に山口百恵さんもいて、13歳で私も13歳。2人だけ13歳だったので、トイレに行くのも、化粧室に行くのもいつも一緒で、2人でウロウロしていました。

それで、最後に百恵さんは20社ぐらいプラカードが上ったんですけど、私は上がらなかったんです。

終わったあと、プロデューサーさんが、大きさがネックだと。今はかわい子ちゃんブームだから中途半端なんですって。

大きかったら大きいなりに、和田アキ子さんのように迫力があれば、それはそれでよかったんだけど、13歳で見た感じも幼いし、それが中途半端だったねって言われました。

『ああ、落ちた』という思いはありましたけど、『歌手になりたかった』ってほどでもなかったんです。

でも、後楽園ホールから帰ってくるときに、『大きいのは自分のなかで一番好きだったところだけど、ともすれば、短所の材料にもなるんだ』って思って。

生まれたときからすごく健康で、運動会ではいつも花形、バスケットボールやバレーボールのスカウトマンの人が来るくらいだし、合気道も三段で、何か国から師範代で来てくださいと声もかかっていたんです。

この大きさと運動神経が、ずっと私の一番好きなところだったのに、唯一芸能界ではこの大きさがマイナスの材料になったということが頭のなかにあったんですけど、『わかった! じゃあこの大きさをいかしたところ』って思って。

うちの母の弟、叔父に『ゴルフをやりなさい』って言われたので、『プロゴルファーになる』って」

-それまでゴルフをしたことは?-

「まったくありませんでした。クラブの握り方もわからないので叔父に教えてもらって、ボールを打ってみたら、当たったんですよね(笑)。

それで、プロゴルファーになる予定だったんですけど、姉が導く力と少し霊感的なものをもっている人だったので、ヘアサロンで『女子プロレスラー募集』という記事が、たまたま目についたみたいで、『文ちゃん、あなたプロレスやりなさいよ。時代を変えるかも』って言ったんです。

私はプロレスなんて見たこともやったこともなかったんですけど、姉の『時代を変えるかも』という言葉でプロレスをやることになって、今日に至るんです。本当におもしろい人生です(笑)」

※マッハ文朱プロフィル
1959年3月3日生まれ。熊本県出身。15歳で女子プロレスデビュー、16歳でWWWA世界シングル王座を獲得。女子プロレス初のアイドル選手として人気を集め、歌手デビューもはたし、デビュー曲『花を咲かそう』は40万枚のヒットに。1975年、『華麗なる追跡』(鈴木則文監督)で映画デビュー。女子プロレス引退後、本格的にタレント、女優、歌手として芸能活動をスタート。映画『宇宙怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)、映画『マルサの女』、『連想ゲーム』(NHK)、『おやかまっさん』(KBS京都)など映画、テレビに多数出演。1993年に台湾系米国人パイロットと結婚し、20年間海外で生活。2013年、日本で本格的に芸能活動を再開。『きらきん!』(KBS京都)に生中継リポーターとして出演中。2021年には映画『ネズラ1964』が公開予定。

◆母に内緒で応募、スカウトマンが…

お母様に内緒で「全日本女子プロレス」に写真と履歴書を送ったところ、「お母さんと一緒に面接に来てください」と何度も電話が来たが、お母様が忙しいと言ってごまかしていたという。しかし、そんなやりとりが4、5回続いた後、当時の社長と専務がスカウトに…。

「母は何も言わずにお2人の話をずっと聞いていました。『15歳という若さで身長174cm、その当時合気道三段、柔道もやっているという人はなかなかいないので、ぜひうちに預からせてください』と言ってくださるんですけど、母は私が骨折したり、大けがをして傷が付くかもしれないなんて耐えられないわけですよ。

社長と専務が帰って2人だけになったとき、母には泣かれました。『やっぱり私としては耐えられないと、私の娘がそういう危険にさらされるのは耐えられない』って、ワーッて泣かれて。

私が10歳のときに父が亡くなったので、それからずっと私たち三姉妹を母が女手一つで育ててくれたんです。健康に、お料理ができる子、あいさつができるようにと。

『やっぱり女手一つで育てた女の子は、あいさつもできないじゃないかって言われるのがいやだ』と。それに関してはめちゃくちゃ厳しかったですけど、あとはもう全部任せてくれていました」

-そんなお母様に泣かれたらツライですね-

「私は母の気持ちがわかってなかったのかなあって。母に『文ちゃんはどうしたいの?』って聞かれて、覚悟せざるをえなくなっちゃったわけですよね。そんなふうに考えてなかったんですけど、流れで『私、やります!』って(笑)」

-まだ15歳で-

「そうです。それで母が『わかった。やる以上は思いっきり自分が悔いのないようなところまでいくこと、頑張りなさい』って言ってくれて。

納得じゃないかもわからないですけど、私の覚悟にまかせてみようという気持ちになってくれたので入門しました。

それで、15歳から18歳までの3年間だったんですけど、私のなかでは2つ。自分でもよくあの年齢で考えられたなって思うんですけど、『絶対にチャンピオンになりたい、とにかく強くなりたい』って思いました。

その『強くなりたい』というのは、もちろん母に『私、チャンピオンになったよ』って喜んでもらいたいのと同時に、やっぱり小さい世界ですけど女性だけの世界なので。

正式な試合じゃなくて練習試合でも、1試合目からだいたい8試合目まであって、休憩があって。セミファイナル、メインエベンター、これが一番上の選手しか出られない枠でなんですけど、私は練習試合でもうセミファイナルだったんです。

『はい、今日の試合を発表します。第1試合誰々、第2試合誰々って8試合目まで続いて、セミファイナル、マッハ練習試合に誰々』って言われて、もうそこからの風向きが完全に逆風でした」

◆10円玉を握りしめて連夜公衆電話で涙

マイナーなイメージだった女子プロレス界の救世主として期待されていたマッハさんは、選手仲間から嫉妬されることに。

「もう超逆風ですよ。それで、毎日10円玉をいっぱいもって公衆電話から母に泣きながら、『無視されて』とか『いじめられて』って電話して(笑)。

そのたびに母から言われたのは『よかったじゃない、いじめられるということは、嫉妬されている。嫉妬されるということは、皆さんから羨ましいと思われる位置にいるわけで、もしあなたみたいな負けず嫌いが反対に嫉妬する側に回っていたら、もっとしんどいよ。よかったじゃない』って。

よくわからないうちに『じゃあ、いいのかなあ』って思うんだけど、また次の日に『ワーッ』て泣きながらまた電話して(笑)。

でも、そのときに思ったのは、『中途半端に強いからだ』って。周りが納得するぐらい強くなれば、いちいちあれこれ言われなくてすむ。周りが自然に淘汰されて黙るようになるって」

マッハさんは、長身とルックスのよさですぐに注目を集め、「全日本女子プロレス」初のアイドルスター選手となったという。厳しい練習と試合をこなしながら、「花を咲かそう」で歌手デビューもはたし、テレビの歌謡番組や映画にも出演するようになる。

「3年間、私はパジャマを着て寝たことがないんですよ。芸能界の仕事もはじまっていたし、東京と地方の試合、テレビもやりながら映画も撮りながら、レコーディングもしながら試合もして。みんなが寝ている間に起きて、走って…とにかく絶対に強くなるって。

練習も選手同士ではなく、現場の高校生か大学生のレスリング部の方か、柔道部の方と一緒に乱取りをしていました。

だから、後半はほぼ女性同士ではなく、男の人の胸を借りて練習していました。それで、なんとなく自分でも、『これでもう誰にも負けない、絶対に負けない』という確信が得られて、皆さんにも認めてもらえたと。

あと、これは仕方のないことだとも思うんですけど、やっぱり女性が水着に近いユニフォームで、『おりゃあ』とか『こらーっ』ってやっていると、会場に足を運んでくださるお客様のなかにはイヤなヤジを飛ばす人もいるんですよ。

私は目がいいので、誰がそのヤジを飛ばしたのかわかるんです。それで対戦相手を無理やり場外乱闘に連れ出して(笑)。

パイプ椅子で殴られると、それを奪い返して、もちろんお客様ですから殴るようなことはしませんけど、ヤジを飛ばした人のすぐ近くに投げて、『黙ってくださいよ!』というのを行く先々でやっていました(笑)。

私は男性と女性、スポーツ全般で何が違うかというと、男性はパワフルさ、筋肉美とか、迫力ですよね。女性はやっぱり、それに加えてしなやかさ、スピード感、美なんです。

それが男女の違いなので、きれいだね、すてきだねというところに導いていかなきゃいけない。変なヤジが飛ばないようにって。

あと、小さいお子さんからおじいちゃん、おばあちゃんまで一家揃って安心して見てもらえるような、会場に足を運んでもらえるようなスポーツに絶対しなきゃいけないって、すごい使命感を覚えてやっていたんです」

-本当に女子プロレスの救世主でしたね。マッハさんの登場でテレビや雑誌でも取り上げられるようになりましたし、リングで歌を歌うというのもはじめてでしたよね?-

「ありがとうございます。今でも皆さんから『イメージを変えたのはマッハさんですね』と言っていただけてうれしいです。

でも、実は私は2回くらいしかリングで歌ってないんです。チャンピオンになったときと、FNS歌謡祭の上期新人賞をいただいたとき。

女子プロレスの人たちは興行の試合のほうが大切で、『日本レコード大賞新人賞と歌謡大賞新人賞、断っておいたからな』って言われましたよ(笑)」

-もったいないですね

「でも、試合があるので、わざわざ行けませんからね。当時はやっぱり、私はプロレスラーなんですよ。試合の内容で、皆さんに認めていただかないと」

-しっかりしてましたね。チャンピオンになったときはまだ16歳で最年少記録でしたよね-

「はい。一つひとつが今思えば、私はやっぱり、マッハ文朱になるべくして、プロレスをやるべくしてここまで来ているんだろうなという気がします。

そのときどきは一つの出来事なんですけど、今振り返ってみると全部一線上につながっているんです」

-試合のほかにテレビや映画、イベントなどでハードスケジュールだったでしょうね-

「たとえば、九州で試合を終えて、その場で車に乗って延々走って、夜行の止まる駅まで行って夜行に乗り換えて早朝に東京に着いて、生放送で歌って、飛行機でトンボ帰りして九州で試合というのを1週間繰り返したりとか。

いつもリング衣装は車のなかで着替えたりして、着いたら試合をしてまた…という、そんな怒涛のような毎日でした。

それで、試合が休みの日には、朝から晩まで3、40社取材という感じで、終わると真夜中に録画があったりしましたけど、あまり苦じゃないんです。だから好きなんでしょうね。全然苦に思ったことはないです」

デビューした翌年には、16歳でWWWA世界シングル王座を獲得し、最年少戴冠記録とデビュー後最短戴冠記録を樹立するが、2年8か月で引退することに。

「母は心臓があまり強い人ではなかったので、私の試合の時間になると心臓のお薬を手に、父の仏壇に手を合わせながら、『今日もケガをしないように、元気に試合を終えられますように』って手を合わせているんですよ。だから母を安心させたいなって。

それと、私が目標としていたことがひとまず全部形になったわけですよね。チャンピオンになれましたし、会場にもお子さんからおじいちゃんもおばあちゃんも、ましてや女性のみなさんがいっぱい来ていただけるようになって。

女子プロレスラーが憧れの職業にもなって志願者も多くなったし、毎週フジテレビでゴールデンタイムに放送されることが決まったって聞いた瞬間に、『あー、もう私の仕事は終わった』って思ったんです(笑)」

1976年に引退したマッハさんは芸能活動を本格的に開始。もち前の明るさとタレント性を発揮し、バラエティ番組のリポーター、ドラマ『晴れのち晴れ』(TBS系)、映画『トラック野郎・天下御免』などテレビ、映画に次々と出演する。次回は菅原文太さんと共演した映画『トラック野郎・天下御免』の撮影裏話、米国留学などを紹介。(津島令子)

(c)3Y

※映画『ネズラ1964』
2021年公開
配給:3Y
企画・協力:KADOKAWA
監督:横川寛人
出演:螢雪次朗 菊沢将憲 米山冬馬 佐野史郎 古谷敏 マッハ文朱
主題歌:マッハ文朱
1964年に公開される予定だったが、生きたネズミをミニチュアのなかに置いて巨大な怪獣に見せかけるという方法を取ったため、ノミやダニが大量発生し、近隣住民のクレームによって保健所から撮影禁止勧告を出されて製作中止となった『大群獣ネズラ』のスタッフの苦悩や挫折、そして『大怪獣ガメラ』製作へとつながる物語をフィクションを交えながら描く。

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