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「人間を必要としない芸術は可能か?」 観る人に問いを投げかけ続ける現代美術家・やんツー

新感覚アート番組『アルスくんとテクネちゃん』、第5回の放送に登場したのは、デジタルテクノロジーを用いた作品を通して「人間を必要としない芸術は可能か?」という大きな問いを投げかける、現代美術家・やんツーさん。

自動でグラフィティのような曲線を描く機械や、観ようとすると逃げていく絵画など、どの作品もユニークで斬新ながら、観る人の存在意義そのものを激しく揺さぶってくる。芸術をかたちづくる主体とは。やんツーさんの考える未来の世界に想いを馳せる。

◆グラフィティへの疑問が動く作品に

SENSELESS DRAWING BOT Collaborated with So Kanno
Photo: Yohei Yamakami

『SENSELESS DRAWING BOT Collaborated with So Kanno』制作風景(動画)

―やんツーさんの『SENSELESS DRAWING BOT』という作品を拝見したんですが、台車のようなものがびゅーんと走って来て、キュキュッと壁にドローイングをする一連の動作に驚きました。あれは自動なんですか?

そうです。既製品を改造し、簡単な制御プログラムをしたりして、すべて自動で動くようになっています。

―どういうしくみなんでしょう?

既製品の電動スケートボードに、鉄でできた二重振り子が乗っています。

スケートボードは壁に対して平行にグーッと進み、あるところで止まって左右に動きはじめる。連動して振り子が揺れはじめると、支点のセンサーが振り子の向きを判断してスケートボードが逆に動きます。

振り子が右ならスケートボードは左、というように。これによって振り子の動きが増幅され、あるところまでいくと二重振り子の2つ目がクルッと回転する。そのクルッ、という初動の速さをセンサーが感知すると、振り子の先に付いたスプレーからシュッとインクが噴射されるしくみです。

―なるほど、あの描線はランダムに動いて描かれているわけではないんですね。

そうですね、振り子の向きを判断して動かすという簡単なプログラムをしています。

―それによって人間が描くような線が描かれると。どういうきっかけでこの作品を作ろうと思われたんですか?

グラフィティです。高校の頃から、街に描かれているグラフィティに興味があって、オタクみたいにチェックしていたんですね。

―すみません、グラフィティと言うと……。

簡単に言ってしまえば、街角にあるスプレーで描かれた落書きです。世界のどこの都市にもある、都市の風景の一部になっているような。あれはグラフィティライターを名乗る人が、自分の名前を描いているものなんです。

高校生のときにその行為を認識しはじめて、「なんでこんなことを?」と思いつつも、視覚的にもおしゃれでかっこいいから気になった。その初期衝動のままのめり込んでいって、グラフィティにある程度詳しくなったんです。

―たしかによく見かけますね。ただ、多くの人が意識せずに見逃してしまっている気がします。

街を見る視点が変わっておもしろいですよ。その行為自体には色々な問題が付随するので評価は難しいと思いますが、高校生の僕にはものすごくかっこよく見えました。

ただ、色々分かってくると疑問も浮かんできて。自分の名前を描くというのは「自分はここにいるぞ、ここに来たぞ」と自己を主張する行為なんですが、文字を崩しすぎて全然読めないんですよ。わかる人にはわかるけど、そうじゃない人にはただの迷惑行為でしかない。

ということは、はたして人間が描く意味があるんだろうかと思ってしまって。

―たしかに、大半の人には読解不能な気がします。

自己を主張する行為のはずなのに読めない。その疑問がずっとありました。そこから「じゃあ、人間が描かずに機械が描いたらどういうことが起こるんだろう」という発想に繋がって、2011年に作りはじめたのが『SENSELESS DRAWING BOT』です。

―マーキングをしているのに読めない、というのはたしかに矛盾がありますね。

誤解しないでほしいのは、僕はグラフィティカルチャーをすごくリスペクトしているんですね。街にどんなものが描かれているかは今も注視しています。好きすぎるがゆえに、「グラフィティとは」という根幹を考えてしまったというか。

―その疑問を動く作品にしたのがおもしろいですね。

僕は大学ではメディアアートを専攻してました。なので、テクノロジーを使って表現するのは当たり前ではあったんです。画家が絵の具を使ったり、彫刻家が石を使ったりするように、僕にとってのメディウム(制作材料)はテクノロジーだったという。

―なるほど。いちばん表現しやすいツールというか。

そうですね。ただ、大学を出たばかりの頃は思考停止状態でデジタルを選んでいたところもありました。深く考えていなかった。

それが次第に「なんで自分はテクノロジーを使って作品を作るんだろう」と、その意義を考えるようになっていきました。人間が主体ではない作品を作る、その先に何があるんだろうということも。

◆人間を必要としない芸術は可能か?

―テクノロジーを使った表現について考えはじめたと。

そもそも芸術の世界って、作品そのものよりもアーティストという存在や、美術館という場所が権威的に見える部分があって。とくに若いときはそういうものに反抗しがちじゃないですか。

それでグラフィティという狭い領域から広げて、芸術全般に関しても「人間って必要なんだろうか」と考えるようになったんです。

―芸術へのカウンターというか。

それもありました。“人間が作った芸術を人間が鑑賞する”という大前提を揺るがすことができたら、きっとおもしろいぞって。人間が主体じゃない芸術表現があってもいいんじゃないかと。

観賞から逃れる
Photo: Shinya Kogure

『観賞から逃れる』作品風景(動画)

―そういえば、2019年に発表された『鑑賞から逃れる』も人間が介在しない作品ですよね。

人間は介在しますが、人間が観賞しようとすると逃げてしまう作品です。展示空間に、大きい絵画とディスプレイと仏像の3種類の作品があって、遠目からは見られるけど、近づくと観賞されることを拒否するように逃げてしまうという。

絵画は床に伏せるし、ディスプレイは壁をつたうように去っていく。仏像もくるっと背を向けて……。

―全然観られないじゃないですか(笑)。

そうなんですよ(笑)。わざわざ見にきたのに嫌がられるってちょっとおもしろいじゃないですか。

そんなふうに笑いとかユーモアから入りつつ、「なぜ作品が人間から逃げなくちゃいけないのか」という理由はちゃんとあって。

価値ある芸術作品とは何かと考えたときに、その答えは「今までなかった新しいもの」という風に考えることができると思います。誰も観たことがない新しい表現が評価されるということは、誰にも鑑賞されなければ、常に作品の新しさを保てるんじゃないか、とか。

―なるほど!それで逃げているんですね。

「僕は、私は、画期的な作品であり続けたいから逃げる」と、作品自体が主体となっている、というか。さらにこの作品が逃げる理由について詳しく説明しようとすると、どうしても荘子の話になっちゃうんですけど……。

―あの老荘思想の?

はい。荘子は紀元前に生きた中国の思想家で、すでにその頃に人間の知能や知性とされるものを批判していたんです。

知能とか知性というものは人間が考えた概念だけど、本当はそんなものは存在しなくて、人間が信じている知性によって思想が生まれ、その思想のせいで国が乱れて紛争が起きるんだと。

一方で、コンピューターの性能が飛躍的に上がったことによってディープラーニング等の高度な技術が一般化し、第3次AIブームが到来してる現在ですが、人間の「知」に対する理解は当時荘子が批判したことと変わっていなくて、知=脳の機能をシミュレーションするような技術開発ばかり肥大化している。でも、人間の知というものは身体のフィードバックがないと完成しない。

そのような状況を荘子の思想をもって一度解体することで、人工知能は次の段階に突入する、ということが言われていたりします。この辺の考えは、三宅陽一郎さんの人工知能のための哲学塾で知りました。

―荘子が説いた知能や知性を重んじることへの警鐘が、現代にも通ずると。

作品を鑑賞する行為も、鑑賞者があれっぽい、これっぽい、こういう文脈があるのではと知性をもって分析、分節化しますよね。

荘子の考え方に則れば、作品はそういう人間の知的な行い自体から逃れたいと思うんじゃないかと。そして作品が逃げることで、観賞する人間はそれを追おうとする。そうすると身体性を伴った観賞体験を誘発することになる。

―作品自体がテクノロジーでありながら、テクノロジーがもつ危うさについても、我々に問いかけているわけですね。

そうですね。作品をつくる上で、問題提起をしたい、疑問を投げかけたい、という気持ちはありますね。

作品を見て「綺麗、美しい、気持ちいい」だけじゃなく、何かを考えてほしい。二重振り子なんて、「もし自分があんなふうに動いたら関節が外れちゃう!」って思うじゃないですか(笑)。でも機械ならそれができてしまう。そうなると、人間にしか作れないものってあるのかなあと。人間ってなんだろう、と考えるきっかけになってほしいですね。

◆パソコンの電源の入れ方すら知らなかった高校時代

―人工知能について、やんツーさんはどういう考えをもっていらっしゃるんですか?

我々の生活における比重がどんどん大きくなってきていますよね。インターネット上の素行はすべて記録されて、YouTubeやAmazonの裏側で稼働する機械学習システムはそれを分析してリコメンドし、それをまた我々は享受する。言い換えると現代における神様みたいなものだなあと。

―そういうテクノロジーへの興味は昔からあったんですか?

全然です。僕、大学に入るまでコンピュータの電源の入れ方すら知りませんでしたから。

―えっ、そうなんですか!

ずっとバスケ部でした。やったらのめりこむタイプなので、将来のことなんて一切考えずに部活に打ち込んで。でも高校3年で引退して、これから受験もあるけどどうしようと。

―芸術とは無縁の高校時代だったんですね。

でも、もともと兄が日芸(日本大学芸術学部)で高校時代は写真部に入ってた影響で、僕もバスケ部と写真部を兼部していたんです。おしゃれだなあと思って兄の真似してトイカメラで写真を撮っていました。当時の頭の中は“かっこいい、おしゃれ、モテたい”ばっかり。超浅かったです(笑)。

―(笑)。東洋思想の人とは思えませんね。

とはいえ、いざやるとのめりこんでいくんです。バスケでも中学は地域の選抜に選ばれたり、もともとオタク気質というか。だからちゃんと写真をやろうと思って、最初は兄と同じ日芸を受けようとしました。

でもよく考えて、せっかく美大いくなら写真だけじゃなくアニメーションもグラフィックデザインもできてと、選択肢が多い多摩美(多摩美術大学)のグラフィックデザイン学科のほうがいいなと思い直しました。美大は入試にデッサンがあるから敬遠していたけど、やっぱり挑戦しようと一念発起し、河合塾に入学金を支払ったあとだったけど、美大受験にシフトしたんです。それで第一志望のグラフィックデザイン学科には落ちちゃったんですが、滑り止めで受けた情報デザイン学科メディア芸術コースに合格し、進学しました。まさにターニングポイントですね。

―そこでいよいよ作品づくりがはじまるんですね。

それが、大学では普通に大学生活を楽しんじゃっていました。毎日のようにお酒を飲んで、部活して、芸祭の実行委員をやって。全然作品を作らなかったです(笑)。

―大学生は遊んでしまうものですよ。でも、そうなるといつぐらいから本腰を入れはじめたんですか?

卒業制作で、筆がこすれる音で演奏をする“音響書道”というサウンドパフォーマンス作品を作ったんです。ホウキみたいな筆を持って、書道家に扮して、書を描きながら音を出す。それがけっこうウケて。そのときに少しテクノロジーが手に馴染んだ感覚があって、ここでやめるのは勿体ないなと思ったんです。それで大学院に進みました。

―美大の大学院に行った方々って、作家になることが多いんですか?

多摩美は就職してしまう人が多いと思います。自分が出た専門領域だと、プログラムが書けるからエンジニアになったり、ウェブの仕事をしたり。自分も大学院を卒業したあとは、ウェブのコーディングの仕事をしばらくやってました。

◆「メディアアーティスト」と「美術家」

―ウェブの仕事をしながら、作家として活動をはじめたわけですね。

でも、最初は「作家です」なんて言えなかったです。自信をもって「自分は美術家です」と言えるようになったのは結構最近かも。2017年くらいかなあ。

―かなり最近!何か心境の変化があったんですか?

う〜ん、いろんな要素の積み重ねでしょうね。いろんな賞を受賞したり、文化庁の助成で海外研修に行ったりして。それまでは地元で友達に「何やっているの?」と聞かれても口ごもっていたんです。「アーティスト」なんて言ったら「はあ?」って笑われる気がして。

それに、肩書きを“メディアアーティスト”にしていたんですけど、それすら疑問になって。自分はメディアアートだけやってるつもりはなかったけど、展示を観に来るのはメディアアートに注目している人が大半だったり、そういう展示にしか声がかからない。そして「現代美術」と呼ばれるものとは別のカテゴリーとして扱われるんだなと気づきました。もちろん、それは作品の性質によるものだし、ちゃんと見てくれている人はいると思います。

―メディアアートがそういう目で見られてしまうのは、自分自身の手で描いていない、作っていないから、ですか?

いえ、そういうことではないんです。そもそもメディアアート作品で多いのは、光ったり動いたり、触ると反応したりする、人間の知覚に訴えるようなもの。

現代美術の側面からすれば、エンジニアリングに重きが置かれていて、何も思想がないように見えてしまうんでしょうね。でも僕は作品に思想を込めているし、そう思われるのは嫌だなと。

美術家の中ザワヒデキさんが「意識的に肩書きを変えた」と仰っていたのを聞いて、僕もそうしようと思ったんです。覚悟を決めたのはそのタイミングだと思います。

―そこからは美術家を名乗っているわけですね。やんツーさんの作品はテクノロジーとの関わりが密接だと思いますが、AIの開発が進み、新しい技術がどんどん生まれる時代に、作品づくりはどう変化していくと思われますか?

去年ぐらいまでは、新しいメディアやテクノロジーを使うことで、美術の定義を揺るがしたり、意味を拡張したりするような作品をつくる、という意識が強かったです。美術のための美術というか。

でも今はコロナ禍を経て、より社会への問題意識が芽生えはじめていて。実はテクノロジーは社会と密接で、最新技術を使うことが必然的に今を語ることにもつながると考えるようになったり。現代美術の潮流も、社会的な課題を扱ったものが増えてきていますね。

―なるほど。そうなると、コロナ禍でやんツーさんの意識も変わったんでしょうか。

変わりましたねえ。政治の危うさも浮き彫りになりましたし。

僕は常に何か新しいことをしなければいけない、人間は進歩していくことが絶対的に正しいという発想が根本にありました。メディアアートの教育を受けてるということが少なからず関係あるかもしれません。そうした志向性から、新作のリサーチで昨年末、新しい社会システムとか、ポスト資本主義について調べていたら「加速主義」という思想動向について知りました。

テクノロジーが指数関数的に進歩していき、利潤を追求していくような資本のサイクルを加速させることで、現行の資本主義システムの外側へ脱出するというような考え方です。

でもそれは、思想家のフレドリック・ジェイムソンが「資本主義の終わりより世界の終わりを想像するほうがたやすい」と述べたように、温暖化や環境破壊、格差社会などの諸問題を推し進めていくことになるので、どうしてもディストピアみたいな未来しか想像できないですよね。

―考え方も作品も、今後大きく変化していきそうですね。

そうですねえ。これまで「人間って必要なんだろうか」とか、どちらかといえば否定的に考え続けてきましたが、「人間だって存在していいんだよ」と言えるような作品を作ってみてもいいかなと思いはじめてます。

実際、否定すればするほど、人間にしかできないことが見えてくるのも事実。『SENSELESS DRAWING BOT』だって、人間にはできないような動きを実現する反面、人間が手でスプレーを持って壁に絵を描くという行いを代替する機械をつくろうとすると当然めちゃくちゃ大変で、人間てやっぱりすごいんだなと素朴に実感できたり(笑)

―否定した先に、肯定が跳ね返ってくるという。

これからは、そんなふうに希望を語れるような作品が作れるといいのかもしれませんね。まあ、社会情勢も刻一刻と変わっていろんなことが難しくなっていきますけど、僕はただおもしろいもの、かっこいいものを、どーん!と作りたいなと思います。

<文:飯田ネオ 撮影:大森大祐>

やんツー
現代美術家
1984年、神奈川県生まれ。2009年に多摩美術大学大学院デザイン専攻情報デザイン研究領域修了。2012年に第15回文化庁メディア芸術祭アート部門で『SENSELESS DRAWING BOT』が新人賞を受賞、2018年の第21回では『アバターズ』が優秀賞を受賞(ともに菅野創との共同作品)。現在京都のBnA Alter Museumで行われている「楽観のテクニック」に作品を出展中(2021年1月24日まで)。

※番組情報:『アルスくんとテクネちゃん
毎週木曜日 深夜0時45分~50分、テレビ朝日(関東ローカル)

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