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毒蝮三太夫「子ども番組だ」と役者仲間からバカにされるも…『ウルトラマン』で俳優人生が激変

1948年、中学1年生のときに舞台『鐘の鳴る丘』で俳優デビューして以来、昭和、平成、令和の72年間に渡り、俳優、タレントとして活躍している毒蝮三太夫さん。

高齢者を愛情込めて「ジジイ」「ババア」と呼ぶ毒舌トークで「おばあちゃんのアイドル」「巣鴨のスター」と称され、圧倒的な人気を誇っている。1969年にはじまったTBSラジオの『ミュージックプレゼント』は2020年で52年目。聖徳大学の客員教授として介護や福祉の講義を受けもち、「サンデー毎日」では『マムシの小言』を連載中。10月8日(木)に著書『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』(株式会社 学研プラス)が出版された毒蝮三太夫さんにインタビュー。

◆友だちの付き添いのはずがオーディションに合格

張りのある声で誰よりもお元気そうな毒蝮さんだが、小さい頃はカラダが弱く、発疹チフスや猩紅熱(しょうこうねつ)などにもかかったことがあるという。

「オヤジは寅年の正月に生まれたから正寅という名前で大工、おふくろはオヤジとは再婚で、父親違いの兄が2人の5人家族。

オヤジはおふくろのことを“たぬきババア”、おふくろはオヤジを“ゴリおやじ”って言っていたから本のタイトルもそうなったんだけどね(笑)。

明治生まれの男だから口より先に手が出るんだよ。おふくろも気が強くて口が達者だったから、オヤジは口じゃ勝てない。

だからおふくろはよく殴られてコブを作っていたから、俺が裏の井戸のポンプを押して冷やしてあげていたよ」

-小さい頃はからだが弱かったそうですね-

「うん。よく病気をする子どもだった。風邪をひくとこじらせるし、はしかもこじらせたし、脱臼もした。

発疹チフスや猩紅熱もやったしね。本当によく病気をしていたよ。でも、子どものときにいろんな病気をしたおかげで、免疫ができて今84歳になっても元気なのかもしれない」

芸能界にデビューしたのは、1948年、舞台『鐘の鳴る丘』。オーディションを受けに行く友だちに頼まれて付き添いで行き、出演することになったという。

「付き添いで行ったら、俺にも台本を読めって言うから読んだんだよ。そうしたら友だちは落ちちゃって、俺が受かった。俺と4、5人の子どもたちがね。

それで、ギャラが1日100円もらえたの、昭和23年に。3か月学校を休んで全国巡業に行ったんだけど、三食メシを食わせてもらえてね。

GHQ(第二次世界大戦後に日本の占領政策に当たった連合国軍最高司令官総司令部)のお墨付きだから、堂々と学校が休めるというのがうれしかったね(笑)。

芝居のなかで孤児の一人が飯びつのなかの飯を食うシーンがあって、おひつのなかの米は本物。その場で食べていいことになっていて、その役は孤児役の子どもたちが順番でやることになっていたから、みんなこの役が回ってくるのを楽しみにしていた。

それで、俺にその役が回って来たとき、四国の巡業で見に来ていたババアが、『かわいそうに、これ食べなさい』って舞台に上がって来て、俺におにぎりをくれたの。それぐらい身につまされながら見てくれていたんだね」

-そのおにぎりは、どうされたのですか?-

「食べましたよ。舞台袖にいる仲間に渡すこともできたけど、そうしたら俺が舞台に出ている間に食われちゃうからさ、食っちまえって(笑)。飯びつのメシももちろん全部ね。

そんな全国巡業から帰ってきたら、学校では人気者。もう主役ですよ。それから芸能界に入ったわけだけど。

1日100円もらって、3000円を家に入れて。中学1年で3000円を家に入れたら親は喜ぶよね。それで現在まできたわけ。

俺が落語好きだったということで、とても人生が広がったね。それはしゃべり方だとか、人への接し方だとかを寄席で教わったんですよ。それが身に付いたんだね」

-毒蝮さんは、寄席の帰りにはその日に見た落語がもうできていたそうですね-

「うん。三つぐらい覚えてましたね。都電で帰れば15分くらいなんだけど、歩いて帰ると45分。

三つくらい落語をしゃべりながら歩いて帰る。そうすると歩いているのも苦にならない。おもしろい落語三つぐらい覚えてね。

俺は今はもうない下谷中学校だったんだけど、卒業するとき、卒業式で落語をやったんだよね。卒業生代表で、鈴本(演芸場)で覚えた落語をやったの。

でも、落語家になろうと思ったことは一度もない。落語家にならなくてよかったよ。落語家になったら、うまいやつはゴマンといるしね。

それで落語家になっていたら、談志のことを兄(あに)さんとか師匠って言わなきゃなんないよね。あいつはもう売れっ子で名人っていわれちゃってるんだから。

俺は落語家じゃないから、『おい』とか『談志』って言えて五分と五分の付き合いができてよかったなあって思う。

だから、あいつが俺を落語家じゃなく、こういうふうな方向付けをしてくれたというのは、やっぱりあいつは名プロデューサーなんですよね。

あいつは俺に、『お前、いい位置にいるよな』って。位置ね、ポジション。『芸能界なり、人間社会でいい位置にいるということが大事なんだよ』って、よく言ってた。

『てっぺんじゃなく下じゃなく、それから目立たないようでいて、目立って、それでまた人の邪魔にならないいい位置にいろよ』って。

だから、今いい位置にいるとしたら、あいつに対するお返しだなって思う」

※毒蝮三太夫プロフィル
1936年3月31日生まれ。大阪生まれで東京育ち。1948年、中学1年生のときに舞台『鐘の鳴る丘』で俳優デビュー。本名の石井伊吉でNHKのラジオ、青春映画などに多数出演。テレビドラマには草創期の1950年代から出演。1966年、『ウルトラマン』(TBS系)に科学特捜隊のアラシ隊員役で出演したのに続き、1967年には『ウルトラセブン』(TBS系)にフルハシ隊員役で出演。1967年より司会者・立川談志さんに誘われて『笑点』(日本テレビ系)の座布団運びで出演することになり、芸名を毒蝮三太夫に。今年で52年目となるTBSラジオの『ミュージックプレゼント』、コラム『マムシの小言』(サンデー毎日)など長く続くレギュラーのほか、『やすらぎの刻~道』(テレビ朝日系)、映画『大怪獣モノ』(2016年)などテレビ、映画に多数出演。2021年には出演映画『老後の資金がありません!』の公開が控えている。著書『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』(株式会社 学研プラス)が発売中。

◆立川談志さんとの出会い

舞台『鐘の鳴る丘』に出演した後、青春映画やラジオドラマに出演していた毒蝮さん。高校卒業後、映画監督になりたいと思うようになり、日本大学芸術学部映画学科に進学。談志さんとの出会いは大学時代で、談志さんがまだ二ツ目の「柳家小ゑん」だったとき。映画『二人だけの橋』に出演していた毒蝮さん(当時は石井伊吉)を気に入っていた談志さんが声をかけてきたのだという。

「俺はその前に一度会っているんだけど、あいつは忘れてるんだよ(笑)。俺が日大から帰ろうと電車に乗っていたら、あいつは新宿から寄席の帰りで乗って来て、俺が座っている前にあいつが立ったの。

『あいつだ、小ゑんだなあ』って思ったら、あいつが『よーっ』なんて言って、目黒で降りて餃子を食ったのが最初」

-最初から意気投合という感じでした?-

「いやあ、生意気そうな奴だなぁと思った。だって、ラッパズボンを履いて赤いジャンパー着てさ(笑)。そのときはもうあいつは超売れっ子だったからね。

だから、『なんとなく嫌な野郎だなあ』と思ったんだよね。だけど、年は同じだし、家も近所で、50何年の付き合いになっちゃったわけですけどね」

-談志さんは俳優としての毒蝮さんをかなりほめてらしたみたいですね-

「『お前は工員とか御用聞きとかが本当に似合う』って(笑)。俺がNHKのドラマで川越の労働者の役をやったことがあるんですよ。NHKがまだ内幸町にあったときに。

それで、あいつが落語でNHKに来ていたんだったかな? 俺の衣装合わせを見に来たことがあって、そのときの俺の衣装がフンドシ一本なんだよ(笑)。

そうしたら談志が『お前は本当に似合うよ。お前みたいにフンドシが似合う役者はいないよ』って言ったの。

だけど、俺よりフンドシが似合う人がいたのよ。俺の親方役が上田吉二郎さんで、フンドシの上にちゃんちゃんこを着てるんだけど、この方がまた似合うんだよ(笑)。

俺たちを見て談志が『お前たちは本当にすごいね。俺たち落語家はやらないけど、衣装がフンドシ一本でやんの』って笑ってね(笑)。

それで、『お前は普段から小さん師匠も圓生師匠も志ん生師匠も楽屋に来たとき、みんながお前を喜んで迎えてくれたんだから、お前は違和感がないんだよ。お前はこの世界に来てもね、みんな嫌がらないから来いよ』って。

普通、役者から演芸の世界には入りにくいんですよ。演芸の世界は演芸の世界で固まっていますからね。ある意味排他的なんですよ。

で、『役者に何ができるか』って思いますよ。だけど、そこは立川談志という名伯楽がいたからね。彼が俺を紹介してくれたから師匠たちも認めてくれたんでしょう。

『あの小ゑんが、談志が言うなら本当におもしろいやつなんじゃないの?』みたいな感じでね。

それで俺を寄席の人たちが温かく迎えてくれたんですよ。

それに毒蝮三太夫という名前だけど、ラジオで現場に行っても、10人のうち8人から『落語家でしょう?』って今でも言われますよ(笑)。

みんな役者とは言わないですよ。「俺は落語家じゃないよ。修業しているわけじゃないしね」って言うんだけどね。

『毒蝮三太夫って付けたのは落語家の立川談志だけど、俺は落語家じゃないんだよ』って言うと、『何なんですか?』って言われるから、『何なんだろうね?』って聞き返すことがよくあるよ(笑)」

◆『ウルトラマン』で俳優人生が激変

1950年代の草創期からテレビの仕事をしていた毒蝮さんだったが、なかなかいい役につけなかったという。そんな毒蝮さんに転機が訪れたのは1966年、30歳になったときだった。空想特撮シリーズの『ウルトラマン』(TBS系)に科学特捜隊のアラシ隊員役で出演することになる。射撃の名手で26歳のタフガイの熱血漢を演じて子どもたちの人気者に。

「俺は実験テレビの頃からやっていたの。黒柳徹子さんもNHKの実験放送にずっと出ていたの。

カメラが大きくてライトが熱くてね。かつらをかぶったってダラダラ汗が出ちゃって、『こんなんだったら、テレビをやったら死んじゃうな』って、みんなテレビを嫌がりましたよ」

-その頃からやってらして『ウルトラマン』に出演されることに。衣装はオレンジ色のスーツでしたね-

「テレビのカラー調整みたいなオレンジ色だから恥ずかしかったけどね。あんなのを着て、TBSのなかで撮影したりしていたんだけど、『子ども番組だ』って役者仲間からはバカにされてさ。

それが今でも子どもたちのアイドルでアラシ隊員とかフルハシ隊員って言われますよ」

-『ウルトラマン』をやって『ウルトラセブン』も-

「まぁね、それは運がよかったんでしょう。俺が丈夫でギャラが安くて暇だったから、また出ろよってなって(笑)。

あれはアメリカのスピンオフっていう、番組のレギュラーで一人だけ残すというので、俺が残ったんだけど、『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』という、一番おいしいところ2つに俺が残っちゃったんだからラッキーでしたね。

ビデオシーバーとかを使ってね。『ウルトラセブン』で使ったでしょう?『隊長、隊長、今ホーク1号でそちらに向かいます』とかって言ってね。

『こんなのに映るわけねえだろう』なんて当時は言っていたんだけど、今は現実になっちゃったからね(笑)。

50何年前に作家たちは、もう今の時代のようなことを考えていたんだからすごいよね。だから今でも通用するんだよ」

『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』で子どもたちの人気者になった毒蝮さん。司会を務める立川談志さんの誘いにより、1967年から『笑点』の座布団運びとして出演することになるが、『笑点』の観客に子どもたちが多くなったり、『ウルトラマン』で地球を救ったアラシ隊員が座布団運びをしていることに苦情の電話が殺到し、本名の石井伊吉から改名することに。次回は「毒蝮三太夫」誕生の経緯、毒舌トークなどについて紹介。(津島令子)

※『たぬきババアとゴリおやじ 俺とおやじとおふくろの昭和物語』(10月8日発売)
著者:毒蝮三太夫
発行:株式会社 学研プラス
お互いを「たぬきババア」「ゴリおやじ」と呼び、口は悪いが愛のある、天衣無縫(てんいむほう)で八方破れな両親のエピソードを軸にした、戦前戦後の激動の昭和史を生き抜いたユニークな一家のファミリーヒストリー。

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