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小6で母と死別した斉藤とも子、思い出すと今でも涙が出る「おばちゃんたちのお弁当」

1970年代後半、ドラマ『青春ド真中!』(日本テレビ系)や『ゆうひが丘の総理大臣』(日本テレビ系)をはじめ、多くの学園ドラマで優等生の女生徒を演じ、知的な美少女ぶりが話題を集めた斉藤とも子さん。

『若い広場』(NHK教育テレビ)のなかの「マイブック」コーナーでは名だたる有名作家をゲストに迎えて聞き手をつとめ、映画『悪魔が来りて笛を吹く』(1979年)にヒロイン役で出演。結婚、出産、離婚を経て、38歳のときに東洋大学社会福祉学科に入学し、女優としてだけでなく、介護福祉士としても活躍。

7月25日(土)にはナレーションをつとめた映画『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』の公開が控えている斉藤とも子さんにインタビュー。

17歳

◆母の前では絶対に泣かないと決めていた

神戸で、医師である父親と専業主婦の母親の次女として生まれた斉藤とも子さんは、1972年、小学校6年生のときに母親をがんで亡くしたという。

「母の病気のことはわかっていました。小学校4年生の夏休みに、父と母、4歳の妹と淡路島に行って、船釣りをしたり、民宿みたいなところに泊まって、すごく楽しかったんですけど、帰ってきてすぐに母が『血便が出る』と言ったんです。

それで、ひとりでがんセンターに行って調べてもらって、お医者さんからがんだということを聞きだして、『お母さん、やっぱりがんやったわ』って電話で聞いたのを覚えています。

それが小学校4年生の秋のことで、母は38歳。S字結腸がんだったんです。手術したのですが、肝臓とかリンパ腺に飛んでいて、これはダメだということで、すぐに閉じられて、お医者様は、『あと3か月ぐらいしか持たない』って言われたそうです。

それで、父が医者だったので家に引き取って漢方とか色々やって、2年半ぐらい。6年生の卒業式の直前まで生きてくれました。

最期は、丸一日意識不明の状態だったので、もう助からないということは、どこかでわかっていました」

-妹さんはまだ小学校1年生だったそうですね-

「はい。妹にとって母の闘病は、4歳から7歳まででした。まだ小さくて、いっぱい甘えたかったと思いますが、母は私たちが強く生きていくことを望んでいました。

枕元に呼ばれて『お母さんが死んだら、お父さんの言うことをよく聞いて、みんなで力を合わせて、元気に生きていきなさい』というようなことをしょっちゅう言われていましたから。

それと、『泣かないで。お母さんが死んで悲しまれることが一番ツライ』って。

実は、私が2歳のとき、3歳の姉・陽子がベランダから落ちて亡くなっているんです。

だから、『お母さんは陽子ちゃんに会えるから、死ぬのは全然怖くないのよ。ただ、あなたたちを残していくことだけが心配。どうか、みんなで仲良く明るく生きてね』って。泣くと母が悲しむので、『母の前では絶対泣かない』と、いつも思っていました」

-お母様はすごい方だったのですね-

「そうですね。私も今になってすごいなあって思うんです。母はもう助からないと自分でわかっていたわけだし、痛みもかなりあったと思うんですよね。

でも、当時はまだモルヒネがあまり使われていなくて、父も、意識が朦朧(もうろう)としたり、命を縮めてしまうんじゃないかって思って、一切使わなかったんです。

その父も5年前、がんで亡くなりました。自分もがんになって、はじめてその痛みや苦しみがわかって、『お母さんがあんなに痛がっていたときに、何でモルヒネを使ってあげなかったんだろう』

『1日でも長く生きて欲しかったから使わなかったけど、それはお母さんにとって、どれほど残酷だったことか』って、亡くなる間際まで、悔いていました」

※斉藤とも子プロフィル
1961年3月14日生まれ。兵庫県出身。1976年、ドラマ『明日への追跡』(NHK)でデビュー。ドラマ『青春ド真中!』(日本テレビ系)、『ゆうひが丘の総理大臣』(日本テレビ系)、『若い広場』(NHK教育テレビ)、映画『ひめゆりの塔』、舞台『父と暮せば』など、ドラマ、映画、舞台に多数出演。1999年、38歳のときに東洋大学社会福祉学科に入学。2003年、東洋大学大学院に進学し、「きのこ会」という原爆小頭症患者とその家族の会と出会い、その歩みを修士論文に。2005年、同大学院社会学研究科福祉社会システム専攻修了。論文をもとに『きのこ雲の下から、明日へ』を上梓。7月25日(土)に公開される映画『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』ではナレーションをつとめている。

◆友だちのお母さんたちのお弁当に今でも涙が…

死期が迫っていることを知っていたお母様は、斉藤さんと妹さんが自立できるように、「自分で何でもできるようにしなさい」と言うようになったという。

「母の親友が福山にいるんですけど、私と妹がちゃんとやっていけるかどうか、あなたの目で見てほしいって手紙を書いて、夏休みの何日か、その親友のところに私たちを泊まりに行かせたんです。

10年ほど前に、その手紙をおばさんが送ってきて下さって、そこには、『やがて自分はいなくなるから、甘やかせたら本人たちのためにならない。あなたが見て、おかしいところは注意してあげてほしい』ということが、たしかに書いてありました」

-斉藤さんと妹さんのことが心配だったのでしょうね-

「そうですね。本当の愛情だと思うし、親友だからこそ、頼めたことですよね。福山のおばさんのところは自然に恵まれていて、畑がいっぱいあって、私と同じくらいの年の女の子もいたし、おやつには大好きなスイカを思いっきり食べていいんですよ~(笑)。

なすやトマト、きゅうりも畑から取ってきて食べたり、虫をとりに行ったり、滝遊びに連れて行ってもらったり、すごく楽しかったんです。でも、正直、夜は寂しかった…。

私は『お母さんがいなくてかわいそう』みたいなことは言われたくなかったんです。だから、ちょっとムリしてでも元気そうに、楽しそうにしていたところもあったかもしれません。

でも、妹はまだ幼稚園とか小学1年生ですからね。寂しかったと思います。それに母は妹のことをとても可愛がっていたのですが、妹はあまり覚えていないんです。

『しっかりしなさい』と言われて厳しかったことの方が印象に残っているみたいで。それは、妹の将来を思ってのことだったのですが、小さすぎて、わからないですよね。

だから、父も母が亡くなったあと、妹のことを気にして、大事に育てていましたね」

-男手ひとつでお父様も大変だったでしょうね-

「大変だったと思います。中学のときはお弁当だったし。それが、多分父のお古だと思うんですけど、かなりボロボロになっているアルマイトの四角いお弁当箱なんですよ(笑)。

父は母の健康のために玄米食にしていて、母が亡くなった後もからだにいいからって、玄米食だったんです。

それで、その、おじさんたちが食べているようなお弁当箱にビシーッと玄米が入っていて、ごま塩振って、真んなかに梅干し、それにシャケが一切れ入っていればいいという感じ(笑)。

お弁当ってみんなで一緒に食べるんですけど、パッと開けると、友だちのはすごくきれいなんですよ。とくに男の子のお弁当はお花畑みたいなのに、私のは茶色!恥ずかしくて、蓋を前に立てて見られないようにガーッて食べていました」

-お父様は勤務医として働きながらお弁当も作ってらしたのですね-

「そうなんです。今頃になって、本当によくやってくれてたなあって思うんです。私はテニス部の朝練習で7時前に家を出ていたので、そこに間に合うようにお弁当を持たせてくれていましたから。でも、あのときはありがたさよりも恥ずかしさのほうが勝っていて…。

そうしたら、あるとき友だちが、『サイ(あだ名)のお弁当かわいそうやから、みんなで一週間だけ、交代でお弁当を作ってあげへん?』って提案してくれて。

それぞれのお母さんが日替わりで1週間お弁当を作ってくれたことがあったんです。その時間になって蓋を開けると、うわ~っとこぼれ落ちそうに色鮮やかなおかずが並んでいて。

いつ思い出しても泣けてくるんですけど、同じお弁当の友だちが必ずもうひとりいるわけじゃないですか。でも、どの子のお母さんも全員、完全に私の方が、盛りが多かったんですよ。

お弁当箱の大きさからして違っていて、同じおかずのお弁当なんだけど、私の方が1.5倍くらいというか、どのおばちゃんも多く盛ってくれていて。それは本当に、開けたときに胸がいっばいになりました。

それで、蓋に付いたのりからへずって、ありがたく全部いただいたことをすごくよく覚えています。

あのおばちゃんたちのお弁当が、私のすべての原点ですね。人の優しさが身に染みてわかったというか、とくにお腹(なか)は正直なので(笑)」

-お友だちもそのお母さんたちもいい方ばかりですね-

「本当にそうでした。友だちのおばちゃんは、しょっちゅう『晩御飯一緒に食べていき~』と言って食べさせてくれたし、泊まらせてもらったこともありました」

-そういうことがあったから今の斉藤さんがあるのでしょうね-

「そうですね。高齢者福祉をやろうと思ったのも、そのときに助けてくれたおばちゃんたちのこととかが頭に浮かんできましたから。いっぱい助けてもらったのに、私は何も恩返しができていないというのがずっと心にあったんですよね。

自分は普通だったら、母がいなくて、色々もっと寂しい思いをしていたはずなのに、寂しいというのが、あまり思い出せないんです。だから、本当におばちゃんたちがよくしてくれたんだなあって。

あと、父が宿直のときには、友だちがうちに泊まりに来てくれたんです。中学生の女の子をよく泊まりに出して下さったなあって思うんですけど、お母さんたちは、子どもを信用してくれていたのかな。

友だちと妹と合わせて6、7人で六畳間に4枚ぐらい布団を敷くといっぱいになっちゃうんです。そこで雑魚寝(ざこね)をするんですけど、必ず風邪をひく子がいたんですよ。

うちに泊まるとお腹が痛くなる友だちとか、風邪をひく子が(笑)。悪いことしたなあと思うんですけど、みんなでご飯を作って、お風呂を沸かして、めちゃくちゃ楽しかったです(笑)」

◆女優になろうと決めたのは…

斉藤さんが女優になろうと思ったきっかけは、あるテレビドラマだったという。

「ちょうど母が亡くなった当時、『微笑』(日本テレビ系)というドラマがあって、うちと同じような設定だったんです。

千秋実さんと高峰秀子さんがご夫婦で、高峰さんががんになって、子どもが2人残されるんですけど、残された家族が力を合わせて元気に生きていくというお話で。

そのドラマの世界に入り込んでしまって、『お母さんが言っていたのは、こういうことなんだなあ』って、すごく励まされたんです。

そんな風に、人の心を動かせる、ちょっと元気にさせてくれる、女優さんてステキな仕事だなあと思って、タレント養成所に応募しちゃいました(笑)」

中学2年生のときにタレント養成所に応募した斉藤さんは、毎週日曜日に神戸から大阪まで通い、レッスンを受けていたという。

「養成所には勝手に応募して通うことにしちゃったんですけど、中学3年生のとき、父が転勤願いを出してくれて、家族で東京に引っ越しました」

-それは斉藤さんが女優の仕事をするためにですか?-

「そうなんですよ。父は女優の仕事に反対だったんですけど。逓信病院に勤めていてかなり忙しくて、子どもたちのことを見る時間がとれないというのもあって。

職場を変わろうっと思っていたこともあったみたいなんですけど、私が東京に行きたいって思っているのを感じて、引っ越してくれたんだと思います」

東京に引っ越して間もなく、斉藤さんは女優としてデビューをはたし、学園ドラマの優等生の生徒役で人気を博していく。次回は女優活動、優等生のイメージを覆すための驚きの決断も紹介。(津島令子)

※映画『ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶』
7月25日(土)より新宿K’s cinemaにてほか全国順次公開
日本で唯一の地上戦が行われた沖縄。その凄惨(せいさん)な戦闘を沖縄戦体験者12人の証言と専門家8人による解説、米軍が撮影した記録映像を駆使して克明に描いたドキュメンタリー。
配給・宣伝:渋谷プロダクション
監督:太田隆文
ナレーション:宝田明 斉藤とも子

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