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キラーカン、人気絶頂期にプロレス引退…8千万円を目の前に積まれても、復帰を拒んだ理由

髪の毛を伸ばして、真んなかだけを残して剃った辮髪(べんぱつ)スタイル、口ひげ、モンゴル帽スタイルで「蒙古の怪人」や「闘うモンゴリアン」と称されたキラーカンさん。身長192cm、140kgの巨体で繰り出す大技で観客を魅了し、メキシコ、アメリカ、カナダなど海外でも大活躍。

そして、1981年5月、米ニューヨーク州ロチェスターで行われたアンドレ・ザ・ジャイアント戦で、フライングニードロップを見舞って骨折させ、「アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った男」として広くその名を知られることに。

◆プロレスは海外ではなめられたら終わり、ピストルを向けられたことも…

観客やプロモーターに認められると、どんどん上がって行くが、ダメになると、すぐに切られるという厳しいアメリカのプロレス界で、8年半、メーンエベンターとして活躍。アンドレ・ザ・ジャイアント、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデス、ハルク・ホーガンなど、当時の全米トップレスラーと激戦を展開し、国際的な成功を収めていく。

-おからだも大きいですし、キラーカンさんは、ずっと外国人レスラーだと思っていました-

「そう思っていた人が多いですけど、新潟県出身の日本人です(笑)。メキシコでモンゴル人の悪役レスラーとしてやった後、カール・ゴッチさんが声をかけてくれてアメリカに移ることになって。

そのときに“チンギスハーン”をもじって、“キラー・カーン”にすると言われたんだけど、俺もいい名前だなって思った(笑)。

アメリカは厳しいですよ。メーンエベンターになっても、お客さんを入れられなかったら、すぐに落とされちゃうからね。日本とは全然違う。

日本は会社が外国人レスラーでも何でも契約して呼んでくるから、日本人レスラーを持ち上げるしかないわけよ。ゴマすったりしてさ。

でも、アメリカの場合は会社組織じゃなく、レスラーとプロモーターの契約だからね。足の引っ張り合いなんですよ」

-かなり危険な目にも遭ったそうですね-

「お客さんからカミソリで足を切られたり、ピストルを向けられたこともあったけど、プロレスラーとして本物と認められた証拠だからね。

それに素人が名指しで挑戦してくるんですよ。『首が折れようが、足が折れようが、一切責任を負わないという書類にサインしろ』って言ったら、みんなだいたいやめるんだけど、ジョージア州のアトランタでマサ斎藤さんに挑戦してきたヤツがいてね。

挑戦してくる人間は、名もない二流レスラーに勝ったとしても、何の意味もないわけですよ。やっぱり上の人間に挑戦してアメリカンドリームで、『マサ斎藤に勝った男』ということで、自分もプロレスラーになりたいわけですよ。

俺もそのときちょうど試合だったからね。マサさんが『やってやる。絶対に負けないからな、小澤見ておけ』って言って、メタメタにやって、そいつは逃げて行った(笑)。

俺も2回挑戦されて1回は、契約書に『サインしろ』って言うから逃げたんだけど、もう1回は、俺をものすごく可愛がってくれたサンアントニオ・テキサスのプロモーター、タリー・ブランチャードに言われたから、やらないわけにはいかなくてね。俺を名指しで『キラー・カーンとやりたい』って来たというから、やるしかない。

リングのところにカメラマンもみんないてね。俺に挑戦してきたヤツは、からだは大きいけどアマチュアレスラーだったの。アマチュアレスラーは怖くない。別に。

アマチュアレスリングは、背中がつけば終わりだけど、俺らは背中なんてついたって関係ないから。下になっても、腕でも足でも足首でも顔でも、何でもあれば関節技をきめちゃうからね。それで関節技をきめてやったら、ギブアップして逃げて行っちゃった(笑)」

-どんな人が挑戦してくるかがわからないわけですから怖いですよね-

「うん。それがアメリカっていう国は、電報のごとく、パパパッてレスラーの間には伝わるんですよ。『キラー・カーンはすごいよ』って。

『この間、アマチュアのレスリングか何かやってたヤツで、すごいからだの素人が挑戦したんだけど、キラー・カーンがやっつけたよ』って、バーッと伝わるんです。そうしたら、みんなが尊敬するんですよ。

尊敬されても天狗になったりしたらダメ。天狗にならないで、メーンエベントの地位をもらえば、必ずお客さんを満員にする。お客さんを満員にしないといけない。

俺がメーンエベントでやって、お客さんを入れられなかったら、『なんだ、キラー・カーン、お前がメーンエベントやってもお客が入らないじゃないか』って容赦なく落とされるんです。

俺の試合は連日満員で、ヒール(悪玉)でもすごい歓声で迎えられた。リングに向かうときの観客のブーイングは、メーンエベントをやった人間しか味わえない快感だね。今でも忘れられないよ」

◆「アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った男」に

一歩間違えたらケガをしたり、命を落とす危険もあるプロレスでは、相手が技を仕掛けてきたら、真正面から受けるのが一流のレスラーだという。

「技を仕掛けてきたとき、変に逃げたらケガをする場合があるからね。技を受けられるように鍛えておかないといけない。相手を活かして自分も輝く。信頼関係がないと成り立たない。

試合を作るのはヒールなんです。ヒールが悪ければ悪いほどお客が盛り上がる。だからベビーフェース(善玉)よりヒールのほうが、やりがいがあるんですよ。

俺は悪く見える顔も研究しましたよ。寝る前に鏡を見て、嫌われる顔を色々研究していたからね。前に『キラー・カーンは、あの顔だからアメリカでメーンエベントが取れたんだ』って言った全日本プロレスのレスラーがいたんですよ。

もう亡くなったレスラーだけど、冗談じゃないよ。プロレスも顔もものすごい練習したんだからさ」

-キラーカンさんは、「アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折った男」としても有名ですが-

「アンドレはね、プロレスラーとして天才のなかの天才ですね。それで、アンドレはプロレスがどういうものなのかということを、全部知っているわけですよ。

まず、足の話ですけど、あれはアクシデントで、実際には骨折ではなくてヒビだったんです。トップロープからのフライングニードロップがアンドレの足首に当たっちゃったんですよね。

アンドレは英雄でしたからね。そのアンドレにケガをさせたということでお客さんはものすごく熱くなっているから、これはまずいということになって。

レフリーも『帰れ』って言うし、同じマンションに住んでいたカート・ヘニングが、『俺が荷物をもって行ってやるから、お客に囲まれる前にはやく帰ったほうがいい』って言うので、控室に戻って車のキーだけ取って駐車場に行って、自分の車で帰ったんです。

当時は2週間に1度、テレビマッチがあったんです。テレビで試合を放送するんですけど、俺が試合で相手選手をめちゃくちゃにやっつけた後、カメラに向かって『お前もこうしてやる!』って挑発するんですよ。そうすると、お客さんはますます熱くなる。

それで、アンドレがインタビューを受けたとき、『キラー・カーン、俺が退院してカムバックしたら、お前を半殺しにしてやる』って言ったんですよ。

それを聞いて、うちの女房も女房の両親も、『すぐプロレスをやめさせたほうがいい。殺される』って言ったんですけど、観客はみんな熱くなって、試合を見に会場に行くわけですよ。

それでアンドレが松葉杖を付いて会場に来たとき、俺がそのアンドレをまた痛めつける。それがテレビで放送されると、また観客が熱くなって盛り上がるというわけ。

でも、プロレスは相手にケガをさせてはいけないんですよ。だから、俺はアンドレにケガをさせてしまったことを本当に申し訳ないと思っていたんです。

それでアンドレが退院したとき、マネジャーのフレッド・ブラッシーが『キラー・カーンが申し訳なかった』って俺の代わりに謝りに行ってくれたんですよ。

そうしたらアンドレはワーッて笑って、『ケガはアクシデントだからやむを得ない、こんな商売は。その代わり、俺が治ったときは、2人で逆に金儲けしようよ』って言ってたって。

『アンドレがそう言っていたよ』って聞いたとき、『ワーッ、アンドレはなんていいヤツなんだ』って思った。それで、『因縁の試合』ということでアンドレとやってね。観客もすごい盛り上がって、アンドレと俺の試合は、全米各地でドル箱カードになったよ(笑)。

アンドレはリングに上がれば、天才ですよ。相手をちゃんともち上げるしね。相手の良いところを活かしてくれる本当に素晴らしい選手だったですよ。

俺が日本のプロレス界が嫌になってプロレス界をやめたでしょう?金を借りて店を出したとき、あるプロレス関係の人が来て、『アンドレが亡くなった』って聞いて、もう涙が出て止まらなかったです。

そのときは一人で朝まで飲み明かしたんですけどね。それから少ししてプロレス関係の人が来て、アンドレが俺のことをキラー・カーンとは言わなくて、『小澤は店をやっているのか。言うなよ。今度俺が日本に行ったとき、小澤の店に連れて行けよ。驚かすから』って言っていたって聞いたとき、涙が出ましたよ。俺の店に来てくれるって言ってたって聞いて」

◆人気絶頂で突然プロレス界から引退、嫌気がさして…

1987年11月末、ニュージャージーで行われたジョージ・スティール戦を最後に、キラーカンさんは、突然プロレス界を引退してしまう。

「俺は日本のプロレス界が大嫌いなんだよ。引退して30年以上経つけど、復帰したいと思ったことは一度もないですよ。

会社に造反して新会社を作ったあげく、悪口を言いまくっていた元の会社に戻ったり、『引退する』って言って引退試合をやってご祝儀を集めたのに、また復帰したりとか、そういうのが俺は絶対に許せないんだよね。

それでもう嫌気がさしちゃってやめることにしたんだけど、やめるときすごかったんですよ。

WWF(アメリカのプロレス団体)の代表のビンス・マクマホンが、『今、ユーはハルク・ホーガンと試合をやって、お客さんが一番ヒートしているときだ。

うちの会社としても、ユーは絶対に大事なんだ。日本のトラブル、アメリカのトラブル、すべて俺が解決してやるからアメリカに残れ』って言ったんだけど、『ノーモアサンキュー』って言って、そのあとはもうすごかったですよ。

ハルク・ホーガンとやるはずだったんだけど、ジョージ “ジ・アニマル” スティールと試合をやって、めちゃくちゃやって反則負けになって、それでもうフロリダに帰って来たんです。

そのときは『俺のプロレス人生も終わりだ』って思って寂しかったですね。

それでフロリダに帰ってきたとき、もう女房が泣きわめいて大変でした。子どもが3人いて、一番下の子はまだ乳飲み子だったし、預金もない。『どうやって食わせるんだ?』ってなったんですよね。でも、『俺はもう絶対に戻らないから』って言って。

『俺はアメリカにいても仕事がないから日本に帰る』って言って日本に帰って来て、弟のアパートに転がり込んで、弟に金を借りてメシを食っていたんですよ。

俺が日本に帰った後、女房は、フロリダの家にハルク・ホーガンとか、ゴリラ・モンスーンとか、パット・パターソンとか、いろんなレスラーやプロモーターから『お前の旦那を戻せ』って言われたみたいだけど、『うちの人はもう日本に帰っていない』って言って」

ヒールとして大人気だったキラーカンさんは、日本のプロレス界にとっても欲しい存在だった。目の前に大金を積まれて口説かれたこともあったという。

「天龍(源一郎)さんから目の前に8千万円積まれて、それに6千万円のマンションを買ってくれるって言われたんです。それだけテレビは俺を必要だということだと思うんですよ。

でも、それをもらっていたら、今頃自分はいないですよ。ホームレスになっていたと思います。

だって、あれだけとめられて、一番大事なときに自分が無理やりやめたのに、その金をもらってリングに上がってやっていたら、ビンス・マクマホンが怒って、裁判沙汰にしますよ。

ビンス・マクマホンなんてトランプ大統領と同じくらい金持ちですからね。それで裁判沙汰にされたら、俺がアメリカの家を売ろうが何しようが、勝てるわけないですよ。

そうなったら、もううちの家族、俺の家族だけじゃなくて兄貴や弟の家族までみんな何もなくなっていますよ。下手したらアメリカの刑務所に入れられていますからね。だから、俺はあのとき断って良かったと思っていますよ」

プロレス界を引退したキラーカンさんは「スナック カンちゃん」をはじめ、現在は新宿区百人町で「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」を経営。プロレスラーやプロレスファンも多く訪れるという。次回後編では、最初にはじめたスナックの常連客だった尾崎豊さんとの思い出、故・立川談志師匠とのエピソードを紹介。(津島令子)

※「キラーカンの店 居酒屋カンちゃん」
TEL 03-5285-1115
東京都新宿区百人町1丁目6-14-1F
定休日:毎週日曜日 祝日

※『カンちゃんの人情酒場/カンちゃんののれん酒』発売中
作詞:新山ノリロー 作曲:佐神光次郎 編曲:伊戸のりお
発売元:(株)アクセスエンタテインメント

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