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篠井英介、コロナ終息後のエンタメに求められるもの。「ガラッとは変わらなくても…」

1987年、大衆的な歌舞伎の復権を目指す男優だけのネオかぶき劇団「花組芝居」の旗揚げに参加し、看板女方(おんながた)として人気を博した篠井英介さん

1990年に退団後、念願のブランチ役で話題を集めた舞台『欲望という名の電車』をはじめ、数々のドラマ、映画、舞台に出演。美しい女方から中性的な役、そして憎らしい適役まで多彩な役柄にチャレンジしつづけている篠井英介さんにインタビュー。

3軒茶屋婦人会2020年『アユタヤの堕天使』(公演中止)

◆新型コロナウイルスの影響で舞台が中止に

新型コロナウイルスに関する「緊急事態宣言」が発令されたことにより、密閉、密集、密接の三つの密(3密)を避けるため、映画やドラマの撮影はストップ、劇場公演も中止、延期を余儀なくされたエンタメ業界。篠井さんが、ともに劇団「花組芝居」の旗揚げに参加した深沢敦さん(写真左)と、ドラマ『相棒』シリーズに出演していた大谷亮介さん(写真右)とともに結成した演劇ユニット「3軒茶屋婦人会」の5年ぶりの公演となるはずだった舞台『アユタヤの堕天使』も公演中止になったという。

-5年ぶりの「3軒茶屋婦人会」の公演ということでしたが-

「そうなんです。もうみんな年なのでね(笑)。3人とも60歳とか、60過ぎなので、なかなかお尻があがらなかったんですけど。

それでも『やる?』って言って、5年ぶりにやることにしたら、こんなことになっちゃって…残念です」

-お客さんも楽しみにしていると思うんですけれども-

「ありがとうございます。でも、やっぱりしょうがないですよね。これから自粛期間が解かれても、6月公演ということは、もうお稽古してなければいけない期間ですからね。

今、ようやく解除方向に向かっていますけど、お稽古は人が集まるので、もうその時点でお稽古自体が、なんとなくしちゃいけないという感じになっていたので、もうダメですね。

あと、劇場さんが閉鎖をするということが大きかったです」

-私も取材させていただいた方々の映画や舞台がすべて中止、延期になってしまいました-

「人が集まるのはとにかくダメみたいですから、自粛要請が解除されてもどういう風になっていくのか予想できない状態ですね」

-こういうことははじめてのことですが、メンタルを維持していくということではいかがでしょうか-

「そうですね。お若い方なら力があまっていてムズムズなさると思うんですけど、僕らぐらいの年になると、『しょうがないや』って最初は思っていたんです。

でも、やっぱりあまりにもやることがないというか、求められていないということが非常につらいことですよね。不安です」

-篠井さんのように幅広い役柄を演じ分けてこられて、認知されていても不安感は大きいですか?-

「こればかりはわからないですからね。たとえば俳優さんが世のなかに出て、それで生活が成り立つようになるというのも、本当にときの運だと思っているんです。

僕よりもっともっとすばらしい方で演技もお上手で才能のある方も、ご人徳のある方も、いっぱいいるんだけれど、その時代というか、どういうタイミングで世に出るのか、認知されるのかってあると思うんですね。

芸術ってそういうもので、ゴッホなんかは生きているうちは全然売れないわけで、死んでから広く知られるようになって、作品が何十億も何百億にもなるわけですから。

生きているときにたくさんお金をもらえたら、どれだけ違ったかって思うけど(笑)。

小説でも絵画でも文学でも、そういうものはみんなそうだと思う。ただ、俳優のお仕事は、この身が売り物なので、今、この時点で売れなければ、まったくどうしようもないというところが切実ですよね。

ですから、正直言って、この先どうなるかは社会の雰囲気も変わり、皆さまがエンターテインメントに求めるものも、ひょっとしたら少し変わる可能性があるんじゃないかって。

ガラッとは変わらなくても、なんとなく今までだったら他愛もない面白いものが皆さんの慰みになっていたのが、もうちょっと何か違う形のものを皆さんが求めるようになるということも有り得るので、そのときに僕が必要とされるかどうかは、わからないですね」

-篠井さんはベテランで広く知られていますし、傍(はた)からはコロナ終息後もオファーが絶えないだろうと思われますが-

「わからないです。僕に限らず、皆さん安心はしてないと思います。僕よりもっともっと名の知れた著名な方でも、やっぱり『コロナが落ち着いたけど、僕に仕事が来るかしら?』とか、『私にご依頼があるかな?』って、みんな思っていると思いますよ」

-篠井さんは、自粛期間に入ってから特別何かなさっていることはありますか-

「特別はないんですけど、リモート配信みたいなことは、ちょっとお声をかけていただいたのがあったので、2度ほど朗読をやったりしました。それだけですかね。あとは家で何かしているということもないですし。

からだがなまらないようにと言っても、そんなにガチガチやれるほど若くもないので(笑)。 お散歩したりするくらいですかね」

-ストレッチとかはされているのですか-

「はい。僕は腰とか膝がもう年でダメなので、リハビリみたいなことは、朝夕していますけど、それはもう本当にちょっとした体操。自分のコンディションのためで、鍛えるというほどのものではないです」

朝起きても腰が痛いから、少しリハビリをしないと、今日1日が心配だし、ギックリ腰になんてなったら大変と思うから、やっているぐらいなもので(笑)。どっちかというと僕は怠け者です。本当に(笑)」

※篠井英介プロフィル
1958年12月15日生まれ。石川県金沢市出身。5歳のときに日本舞踊を習いはじめ、宗家藤間流師範・藤間勘智英の名を持つ。小学生のときに映画『サウンド・オブ・ミュージック』を見て俳優を志す。杉村春子さんの主演舞台『欲望という名の電車』を見て、女性の役を演じる「女方」を目指し、ネオかぶき劇団「花組芝居」で女方として活躍。ドラマ『下町ロケット』(TBS系)、映画『Fukushima 50』(2020年)、映画『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』(2013年)、歴史ミステリー『日本の城見聞録』(BS朝日)ではナビゲーターを務めるなど幅広い分野で活躍。ドラマ異世界居酒屋『のぶ』(WOWOW)が放送中。女方ヒロイン三部作、『欲望という名の電車』、『サド侯爵夫人』、『サロメ』の舞台も話題に。

4歳頃

7歳頃

◆美空ひばりに憧れて日本舞踊を習うことに…

金沢市の旧市街で生まれ育った篠井さんは、5歳のときにテレビで見た時代劇で美空ひばりさんが踊っているシーンを見て、日本舞踊を習いたいと思ったという。

「高度成長期の良い時代に生まれて、夢見がちな少年時代を送れたというのは大きいと思います。金沢の町の影響が大きいかもしれませんね。そういうものがとても身近にあったというか。

5歳のときに母とおばあちゃんに『日本舞踊がやりたい』と言ったら、『あら、そう。男の子なのに珍しい。変わっているわね』って言いながらも、『じゃぁ習わせようか。どこの先生に行かせる?』って、何人かの先生の名前をあげて2人で相談していましたからね。

それを五つの僕は固唾(かたず)をのんで見ていたので、それだけやっぱり文化的に豊かでしたね。特に当時はゆとりがあったんだと思います」

-実際に日本舞踊のお稽古をはじめたときのことは覚えてらっしゃいますか?-

「はい。覚えています。すごく楽しかったです。当時は中学のとき、男の子は全員丸刈りにしなくちゃいけなくてね、公立の中学生は。

それで、今思えば不思議なんですけれども、丸刈りの頭で浴衣を着てお稽古をするのが、ものすごく恥ずかしくて(笑)。不思議なものですね、思春期のそういう心理って。

それで、お稽古に行くのをサボったりしたこともあるし、高校受験でちょっとおさぼりしたり…。あと、その頃は演劇にもうだいぶ傾倒していましたしね。

ちょうど小学校1年生のときに、『サウンド・オブ・ミュージック』が世界封切りになるんですね。僕は学校の授業で見に行ったんですけど、それで中学・高校と演劇部に入って」

11歳頃

-最初から演劇志望で?-

「僕はそうですね。誰かが『ずっとサッカーをやっていましたけど演劇に目覚めて』なんて言うのを聞くと、『カッコいいなあ』と思うんですけど、僕はもう根っからなので(笑)」

-きちんとその通りに初志貫徹で-

「そうですね。小学校のときには演劇部がないので放送部に入って、給食時間に音楽を流したりする役目なんですけど、そんなところで放送劇を作ったりしていました。根っから好きだったんですね、そういうことが」

-杉村春子さんの舞台『欲望という名の電車』をご覧になったのは中学生のときですか?-

「はい。それで女方になりたいと思って。女性の役をもっぱら専門にして演じるという伝統が、日本にはあるし、僕は5歳で『女踊り』を勉強したので、男である僕が、舞台の上で女の人の踊りを踊っても大丈夫だと植えつけられているんです。

昔はそっちの方が多かったぐらい、女優さんの歴史はまだ100年ちょっと。女優さんというものが世のなかに出てからそんなに経ってないんですよね。

それまでは能狂言と歌舞伎ですから、男がやるのが当たり前という時代の方が長かったので。

『なぜ女方なのか?』って言われても、やっぱり資質っていうか、性質の問題なんですね。「私は女方が向いているから」と言うほかありません。

『普通の男優さんと女方とどっちをやったほうが得だから女方を選んだ』とか、そういう打算的なものではないんです。俳優として持っている資質みたいなものに関係してくるので。やっぱり面白いものですよね」

-篠井さんは著書のなかで「女形」ではなく、「女方」と書いている理由は?-

「女の形をなぞるのではなく、女の方向へ向かうって言うのかな。そういうニュアンスもあるし、方法の方を使った方が古風な感じがしますよね。なので、あえて『女方』としています」

-『徹子の部屋』に出演されたときには「女優さんをやっていらっしゃる篠井英介さん」と紹介されていました-

「びっくりしました(笑)。僕も心のなかではずっこけたんですけれども、徹子さん独特ですよね。

あと、やっぱり皆さん誤解するのは、『女方をやっている篠井英介さん』は大丈夫なんだけど、『女方の役をやっている篠井英介さん』って言われると、歌舞伎の女形の役をやっている人になっちゃうので。

ちょっと難しいんですけど、ややこしいんですけどね、本当に。女方というのは、『女のパートを担う役者さん』ということなんですけど、なかなかその辺はちょっと難しいところで」

◆ネオかぶき劇団「花組芝居」を旗揚げ、看板女方に!

1976年、篠井さんは日本大学藝術学部演劇学科に進学し、上京する。卒業後は劇団の公演とアルバイトに明け暮れたという。

「東京でお家賃を払って生活をしていくとなると大変ですからね。アルバイトは大学を卒業してから31歳までやっていました。

ちょうどバブリーな頃だったので、六本木がもう不夜城のように盛り上がっていた時期で、カフェバー、あるいはレストランバーという言い方を昔はしていたんですけど、そのレストランバーでやっていたのがわりと長かったかな。

最初はお運びをやっていたんですけど、すごく体力がいるから、しんどくてダメだと思ったら、真面目にやっていたので、『フロントをやりなさい』って言われて(笑)。

それで、お客さんの荷物を預かってからお席まで案内したりしていたんですけど、そのうちにすごく信用を得たので、お会計レジもやったりしていました。それが長かったですね。もう30近かったから、古株なわけですよ。

20代前半の若いバイトの子が毎日10人も20人もいるなかで、『英介さん、英介さん』って言われて、みんなと仲良くやっていました(笑)」

-「花組芝居」の旗揚げをされたのは?-

「当時は現代演劇のなかで、男性が女性の役をやることは、あり得ませんでしたからね。やりたくても演じられる場所がなかったので、そういう場を作るために1984年、同じ演劇学科の加納君たちと演劇プロデュース団体『加納幸和事務所』を作って、1987年に劇団『花組芝居』に改名したんです」

当時はちょうど小劇場ブームでさまざまな小劇団が誕生し、盛り上がっていく。小劇団のなかでも、歌舞伎をモチーフにした作品が多かった「花組芝居」は注目され、篠井さんは看板女方として広くその名を知られることに。次回は劇団「花組芝居」を退団、念願の『欲望という名の電車』のブランチ役を演じるまでの長い道のりなどを紹介。(津島令子)