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フレンチのカリスマ・三國清三シェフ、“洗い場”で掴んだチャンス!襟首をつかまれ、放り込まれた場所で…

20歳でスイスのジュネーブにある日本大使館の料理長になった三國シェフ。才能に甘んじることなく、人の何倍も何十倍も自己犠牲を払い、成長の速度を早めていく。休みのたびに二ツ星の有名なお店「リヨンドール」や有名な五ツ星ホテル「リッチモンド」で自発的に研修を重ね、レパートリーもどんどん増えていったという。そして、2年間の予定だった大使館勤務は3年8か月に。

◆20世紀における最高のフランス料理人の一人に師事することに

大使館で通訳など身の回りの世話をしてくれる侍従から、のちにスイス初の三ツ星シェフとなるフレディ・ジラルデさんのことを聞いた三國さんは、彼に会うため、クリシエにあるレストラン「オテル・ドゥ・ビィル・ジラルデ」に向かったという。

「ジュネーブからローザンヌまで1時間ぐらいかかるんですけど、そこからタクシーで20分ほど山に行くとクリシエという町があるんです。『オテル・ドゥ・ビィル』というのは市役所という意味。ジラルデさんは市役所を買い取ってレストランをやっていたんです。

フランス語も全然わからなかったけど、ジラルデさんに会わなきゃと思って、大使館の仕事が休みの日曜日に行ったんです。

僕みたいなアジアの人がスイスの田舎に現れるというのはまれなことで、いないわけですよ。

『とにかくジラルデさんに会いたい』って言ったら、ジラルデさんが出てきてくれたんですけど、『何だ?』って。言葉もできないしね。帰されるわけですよ。

でも、パッと見た瞬間、何かピンときたの。僕はミック・ジャガーが好きなんだけど、ミック・ジャガーっぽい人で熱い感じだったんですよ。

だから帰れなくて、朝からずっと粘っていたら夕方になって。お客さんがみんな着飾ってディナーに来るわけ。

それでジラルデさんに『そこに居られたら困るから』って、襟首をつかまれて厨房(ちゅうぼう)にボーンと放り込まれたんですよ。

そうしたら厨房に洗い物がどっさりあったわけ。海外のレストランでは、シェフは洗い場はやらないの。洗い場は一番下っ端がやるんですよ。

だからバーッと連れていかれて洗い場に行ったから、厨房のやつらも僕が新しい洗い場のやつが来たと思ったみたいで全く違和感がなかったみたい(笑)。

店がめちゃめちゃ忙しいからね。それでずっと洗い場をやっていたの。洗い場は得意だからね(笑)。言葉も通じないけど、本当にスッとなじむんですよ。

洗い物が全部終わって、10時過ぎくらいかな?ジラルデさんが来たんですよ。洗い物はプロ級だからね(笑)。

はじめて来たところだけど、サッササッサとやるのを見て、ジラルデさんが、『お前はどうしたいんだ?』って聞いてきたんですよ。

だから、『日曜日が休みだから毎週来たい』って言ったら、『もう好きにしろ』って(笑)。

それで毎週日曜日に行くようになったんです」

-洗い場でまたチャンスをつかんだわけですね-

「そう。僕がジュネーブからローザンヌに着くと、バイクで迎えに来ていたのが、ミッシェルという、ミシュランを50年以上保持している有名なレストラン『トロワグロ』の3代目。

のちにミッシェルが代を継いで、今は押しも押されもしないフランスでも指折りのレストラン。僕より2つ下でね。彼は『一級品の料理人になる人種というのは2種類しかいない。三國か僕』ってよく言うんですよ。

『僕はオギャーッて生まれたときからキッチンにいる。生まれたときからソースをなめて、匂いからすべて三ツ星。だから三ツ星のシェフになれる。

もう一方、三國は昔の王様に仕えるようなやつ。認められなければ、そこで終わり。料理を差し出して、気に入らなかったり、まずかったりしたら、そのまま首を切られる。

だから三國は命がけでやるしかないんだ。その2種類の人種しか、一流の料理人にはなれない』って、彼は言うわけよ。その通りだけどね」

◆スイス銀行の金庫を破るよりも予約を取るのが難しい店とは?

1994年、ジラルデさんのレストラン「オテル・ドゥ・ビィル・ジラルデ」は、ミシュランガイドでスイス初の三ツ星を獲得するが、それよりずっと以前からジラルデさんは20世紀における最高のフランス料理人の一人として知られていたという。

「ちょうど僕がいる間に、アメリカの大きなテレビ局の取材が来て、『世界でナンバーワンの料理人を決めたい』ってなってジラルデさんに決まったんですよ。

もうその頃、『スイスの銀行を破るより、ジラルデの席を取る方が難しい』って言われていて、本当にその通りになったんですけど」

-大使館でもジラルデさんのお料理を?-

「そう。ジラルデのレシピをパクッてやるもんだから、もう『鬼に金棒』ですよね(笑)。

それで2年の約束だったんだけど、評判が評判を呼んで、大使ご夫妻から『なんでもあなたの願いを叶(かな)えてあげるからもう2年やりなさいって』言われて、3年8か月つとめました」

大使館での仕事を終えた後、一度帰国した三國さんは、すぐにまたスイスへと戻り、ジラルデさんのもとで修業を積むことに。

「それで正式に『オテル・ドゥ・ビィル・ジラルデ』のレギュラーになって2年間働いて、その後、『トロワグロ』、『オーベルジュ・ドゥ・リィル』、『ロアジス』、『アラン・シャペル』。

20歳から28歳まで、通算8年、スイスとフランスにいました」

1983年、28歳のときに帰国した三國さんは、市ヶ谷の「ビストロ・サカナザ」でシェフとして働くことに。

「本当は30歳までいるつもりだったんだけど、アラン・シャペルさんという、とてつもない人と出会って、『日本人にはフランス料理は無理だ』って。そこで挫折するわけですよ。

とてつもない人がいたんですよ。『フランス料理はフランス人にしかできない』っていうふうに思い知らされて、挫折して28歳で帰って来ちゃった」

◆30歳で自身のレストランをオープン

1983年に帰国した三國さんは東京・市ヶ谷の「ビストロ・サカナザ」にシェフとして迎えられる。そして1985年、三國さんは四ツ谷駅の近くに「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業。天才料理人の名をほしいままに。

「ジュネーブに行く前に言われた村上料理長(帝国ホテル)の『10年後』というミッションがあったので、何が何でも自分はお店をやらなきゃいけないと思って30歳でお店をオープンしたんですよ」

-当時はまだ日本人にとってフランス料理は敷居が高かったのでは?-

「こういう一軒家というのはまずないですよね。駐車場もなければ看板もないし。オープンした頃は、途中まで来たらみんな帰っていましたもん。こんなところに店はないだろうって(笑)。夜になったら真っ暗になりますから」

-この場所に決めた理由は何だったのでしょう?-

「ずっと探していたんですよ。ジラルデさんもそうですけど、本当のプレステージというのは、ちょっと郊外にある一軒家なんですよ。

僕がいたジラルデさんのお店も郊外。山奥なんですけどね。あと『トロワグロ』さんも、アルザスの『オーベルジュ』というお店も一軒家。どこもかしこもみんな一軒家で、それも郊外。町にはないんですよ。それはニューヨークでもロスでもそう。

本当の良いお店というのは、ビルとかのなかにはないです。街のなかにはない、ちょっと郊外で緑がいっぱいあって、そこに憧れていたんです。

それで僕の知り合いの不動産屋さんとずっと回っていたんですよ。彼には『12月はもう休みなんだから勘弁してくれよ」って言われたんだけど、付き合わせて回っていて、たまたまここに来たら、明かりがついていたんですよ。

それで、『ここを貸してもらえますか』って頼んだら、大家さんがビックリして、『えっ?君おもしろいこと言うね』って(笑)。

それはみんなから言われるの。『三國さん、明かりがついていたら人が住んでいる。普通は行かないですよ』って。

でも、僕は逆で『お前何言ってるんだよ。人かいなかったらどうやってお願いするんだよ。人がいるから頼みに行くんだろう?』って。みんな笑うんだけど、人がいなかったら交渉のしようがないじゃないですか」

-30歳でオープンされて35年間つづけてらっしゃるというのはすごいことですね-

「35年で大ピンチですよ。85年にオープンして、それで86年から『1億総グルメ』の時代が来るわけね。

で、そのときメディアにのって、あっという間に借金を返したんだけど、バブルが崩壊するわけよ。ここは二軒家なんです。こっちはロシア教会だったので、最初僕はあっちだけ借りていたの。

でも、ソ連が崩壊して、ここを借りていた人たちがロシアに戻ったので、ここが空いちゃったのよ。

バブルが崩壊して、この半分でも大変だったんだけど、『どうせ潰れるんだったら倍にしようぜ』って言って、勢いで店を倍にしたら、はやっちゃって何とかなったんですよ。バブルが崩壊のときもね。それで二軒やってるんですよ」

-他にもいろいろなお店をやってらっしゃいますね-

「そうですね。バブルが崩壊したけど何とか乗り切って、そうしたら今度はリーマン・ショックでまた大変で…。それで、3.11も大変で。高級店はみんな閉めますからね。

それで、何とかなったと思ったらコロナですよ。コロナのこの状況が1番厳しいですよ。うちも35年経営しているんだけど、予約がゼロになったことはなかったんですよ。だけど、今回はほとんどゼロの日がつづきましたからね」

-それで早々に休業されることに?-

「そう。4月にすぐに閉めて5月も閉めて、6月2日(火)から営業再開予定です」

かつて三國さんのもとで修業し、現在はミシュラン一ツ星レストラン「シンシア」のオーナーシェフ・石井真介さんが、コロナウイルスと闘う医療従事者にお弁当支援していることをテレビで知り、「医療従事者とともにあるシェフたち」を発足。

「石井君というのはもともとすごいリーダーシップがあって、若いんですけど、若い連中といろんなことをやってるんですよ。でも、僕を絶対に入れてくれない(笑)。僕が行くと直立不動で。弟子ですからね。

それで、服部(幸應)先生に電話をして、あと落合(務)さん(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ)、銀座寿司幸本店の杉山さん、つきぢ田村の田村(隆)さん、Wakiya-笑美茶楼の脇屋(友詞)さん、総本家更科堀井の堀井(良教)さんにすぐ電話して。もうみんな二つ返事で、『やろう』って」

-医療従事者の皆さんは、感染の危険を抱えながらの激務ですものね-

「病院にもって行くのも大変なんですけど、僕の親友が医者をやっていて、息子も医者でその最前線のケアをやっているんですよ。それで、窓口になってもらって。

今、結局食べるところじゃないんだって。コンビニにも行けないし、冷や飯かカップラーメン、たまにコンビニ。

僕の親友の奥さんは毎日神社に通っているんだって。『最前線でコロナと闘っている息子がコロナにならないように』って。

『もうそれは医者になると本人が決めたんだから、仕方がない』って。彼も医者だから。そういう話で、彼が今、窓口になってお弁当を届けているんだけど、今は最前線のお医者さん。

でも、ほかのお医者さんも看護師さんも大変ですからね。みんなでミーティングして、今度はそれぞれの店じゃなく、服部先生のところで500とか600、できれば1000個とか、我々みんなが力を合わせて、大量に作ることにしました」

◆子どもたちへの「食育」をライフワークに

2013年、フランスのフランソワ・ラブレー大学より「美食学」の名誉博士号を授与され、2015年には「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ」を受勲。地元の北海道増毛町のアンバサダーや日本遺産大使、顧問など30枚以上の名刺をもち、多くのボランティア活動を行っていることでも知られている。

「人を救うことは得意なんですけど、自分を救うことは下手なんですよ(笑)。友達が悪くてね。仕事はいっぱいくれるんだけど、お金はくれない。僕の助けになってくれない(笑)」

-子どもたちをサポートする活動もされていますね-

「味覚や食の大切さを伝えたくてね。20年前、2000年から『KIDSシェフ』という、子どもたちの味覚を育てる教室を開いていて、子どもたちと一緒に地元の食材を使って料理を作ったりしています」

-はじめたきっかけは?-

「甘い・すっぱい・しょっぱい・にがい・うま味、これを『五味(ゴミ)』っていうんですけど、それがわかると感性を刺激して、虐待をしたり、いじめをしたりというようにはならない。食生活がちゃんとしている人は、そういう風にはなりにくいんですよね。

服部(幸應)先生が、なぜ『食育』というのを作ったかと言うと、いじめとか虐待の多くは、最終的に調べると、家庭環境であったり、ちゃんと朝食を食べていないとか、そういうことがわかって。

それで服部先生が、当時厚生大臣だった小泉(純一郎)さんに、この状況はまずいと話して調査したところ、まず朝食をきちんと与えていない。お弁当とか、親の愛情を感じていない。そういう子が何も食べられないし、すぐにキレるということがわかったんですよ。

それで小泉さんが総理になったときに、『食育基本法案』というのを服部先生と小泉さんで作ったの。もう一回きちんと子どもたちに食の大切さを知ってもらおうということで。それが『食育』。僕はその『食育』の一番弟子なわけ」

-味覚が形成されるというのはいくつくらいでしょう?-

「8歳から12歳の育ちざかりが大きいかな。僕も最初はわからなかったんですけど、服部先生の『食育』の弟子になって、味覚の授業をはじめたときに自問自答するわけよ。『あれ?俺ってどうやって、甘い・すっぱい・しょっぱい・にがい・うま味というものを勉強したんだろう?』って。

そうしたら、ホヤだって(笑)。うちは貧乏だったけど、目の前が浜だったから、お刺身で食べられる魚やホヤがいっぱいあったんですよ。

だから、その場でホヤを洗って食べていたの。ホヤは『海のパイナップル』とも言われるんだけど、甘い・すっぱい・しょっぱい・にがい・うま味という『五味』が存在する唯一の食べ物なんですよね。僕は8歳から12歳という育ちざかりにそれを食べていたから味覚がズバ抜けて鍛えられたのだと思う。

人間は『五味』を感じることで、見る・聞く・嗅ぐ・触る・味わうの『五感』が開花するんですよ。味覚の大切さを学んだ僕だからこそ、子どもたちにそのことを伝えていくのが使命だと思っているんです。

この活動を始めたのが20年前なので、その頃小学校の5、6年生だった子が、今32、3歳じゃないですか。最近、僕の授業を受けた子が来るんですよ、うちに。それは何か熱いものを感じる。何か他人じゃないみたいな感じ。やって良かったなあって。

一回はじめたら、つづけられる限りはやらなければ、やらないほうがいい。だからやるときの覚悟はできてますから、はじめると長いですよ。やめないし。我慢ですよ」

-ノートルダム大聖堂の支援もされていますね-

「1年目で300万円集まって、フランス政府に渡しました。フランスも今コロナで大変なんですけど世界中が大変ですからね。ちゃんと大使が相手をしてくれて、店に募金箱を置いているんです。

ノートルダムの募金箱と、20年以上つづけているワクチンの募金箱。アフリカなどでは、みんなワクチンが打てなくて死ぬでしょう?100円で一人の命が救えるんです。

ノートルダムに関しては、店でオマージュメニューっていうのを作ったりもして。

フランスでは、ノートルダムというのは、『私たちの母』と言う意味なんです。彼らにとってノートルダムというのは国民の母なんですよ。そういう象徴なんです。

それが焼け落ちてしまったというのは、意味合いが違うんですよね。だから泣いている人もいたでしょう?フランス人にとって、ノートルダムは特別なんですよね」

2019年には空前のブームとなった「ラグビーワールドカップ2019」の組織委員会顧問をつとめた三國さん。「東京オリンピック・パラリンピック」の競技大会組織委員会顧問も務めている。

「前回のオリンピックのときに恩師の村上料理長が選手村の料理長をなさっていたので、いろいろなお話いっぱい聞きました。世界中から選手が来るじゃないですか。

そうすると、最初は『日本人にフランス料理なんて作れるわけがない。バカにするな!』って、食べてくれないんだって。

『何がいけないんだろう?やっぱり味が違うのかな』って思いながら外を見たら、選手たちが汗だらけになって練習をしていた。それで、塩分が足りないということに気がついて、塩を多くしたら、みんな『おいしい』って完食してくれたって(笑)。

料理にはそういうふうに臨機応変に対応する感性も必要なんですよね。60年前に恩師の村上料理長が選手村の料理長をなさって、その60年後に僕がオリンピックの顧問、同じときに修業していた帝国ホテルの田中(健一郎)特別料理顧問がアドバイザー。

その2人がオリンピックの料理の関係者になっているというのは、すごく歴史を感じるなあって」

「天才料理人」という顔の裏で誰よりも努力を重ね、闘ってきた三國シェフ。めげそうになったことは何度もあるけれど、「強くならなければいけない!」と、自分で自分にハッパをかけて叱咤激励してやって来たという。料理を作ったり、ボランティア活動をすることが大好きだと話す優しい笑顔がすてき。おもてなしの心を感じる。(津島令子)

※オテル・ドゥ・ミクニ(5月31日まで休業)
東京都新宿区若葉1-18 電話03(3351)3810
JR線・東京メトロ 丸の内線・南北線「四ツ谷駅」赤坂口より徒歩7分
ランチ:12:00~14:30(L.O.) ディナー:18:00~21:30(L.O.)
定休日:日曜日の夜、月曜日 駐車場:なし

※「日本遺産大使」
文化庁が、日本遺産に広く関心をもってもらえるよう、国内外に発信力があり、それぞれの個性溢れる表現力で「日本遺産」の魅力をアピールできる著名人を任命。
三國さんは日本遺産大使として全国各地でその土地の食材を活かした料理メニューを考案、レシピを公開している。