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“フレンチのカリスマ”三國清三、医療従事者に“お弁当”でエール。きっかけは「家でTVを見ていたら…」

15歳のときに米店で、住み込みで働きながら夜間の調理師学校に通い、札幌グランドホテルで料理人として修業を始めた三國清三(きよみ)シェフ。

その後、帝国ホテルを経て、駐スイス日本大使館料理長に就任。世界最高峰の三ツ星レストランで腕を磨き、1985年、30歳の若さで東京・四ツ谷駅近くに「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業。日本のフレンチに革新をもたらし、多くのフレンチレストランをプロデュース。現在は新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言を受け、5月末まで「オテル・ドゥ・ミクニ」を休業。現在は医療従事者をはじめ、コロナウイルス感染リスクがありながらも働き続けている人々をお弁当で支援する活動を行っている三國シェフにインタビュー。

◆自粛期間中、テレビを見たことがきっかけでお弁当支援

新型コロナウイルス感染症対策「緊急事態宣言」が発令され、5月末まで「オテル・ドゥ・ミクニ」の休業を決めた三國さん。「STAY HOME」で家にいたところ、かつて「オテル・ドゥ・ミクニ」に勤めていたシェフの姿をテレビで見たことがきっかけで、お弁当支援活動を始めたという。

「家でテレビを見ていたら、うちの店にいた石井(真介)君が出ていたんですよ。新型コロナウイルス感染症と最前線で闘う医療機関で働く人たちにシェフたちが料理を届けるプロジェクト(Smile Food Project)を立ち上げて活動しているって。

それで、自分もできることをやろうと思って、弁当作りをはじめて無償で知り合いの病院に届けていたんですけど、思っていた以上に医療現場は過酷な状況だということを知って、服部(幸應)先生や知り合いのシェフたちに話をしたら、みんな一緒にやってくれることになって、「医療従事者とともにあるシェフたち」を発足したんです」

※「医療従事者とともにあるシェフたち」
理事長:服部幸應(学校法人服部学園) 理事:落合務(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ)・杉山衛(銀座寿司幸本店)・田村隆(つきぢ田村)・脇屋友詞(Wakiya一笑美茶楼)・堀井良教(総本家更科堀井) 事務局:三國清三/岡本孝一

-そうそうたるメンバーですね-

「そうですね。みんなそれぞれ腕を振るって弁当を作ってくれていますよ。栄養バランスを考えて、免疫力を上げるといわれる食材を使った、力の出るメニューを考えてね。

弁当を受け取った医師から『売店に行く時間もなく、食事のことに頭が回らない日が続いていた。一層頑張る元気を頂いた。ありがとう』というメッセージをもらいました。

医療に従事している皆さんは自分が感染するリスクがあるなかで闘ってくれているわけですからね。せめておいしい弁当を届けたいと思っています。

みんなで話していたんだけど、僕たちがこれまで培ってきた人脈を生かせば、この活動を全国に広げられると思うしね。頑張っていこうと思っています」

三國さんをはじめ、一流シェフの皆さんも緊急事態宣言を受け、大変な状況にあるなか、医療の現場で奮闘する医師たちを励ます動きが各地で広がっている。

◆三國シェフ、驚きの料理人生

三國さんは、北海道の増毛(ましけ)町で、7人兄弟姉の三男(兄2人、姉2人、弟2人)として生まれ育ったという。

「増毛町は、高倉健さん主演の『駅 STATION』という映画の舞台にもなったんですけど、日本海に面した小さな町で、おやじが漁師、おふくろが農家。半漁半農なんですよ。

だから、小さいときから漁に出て、小学生のときにはもう市場に魚を売りに行っていましたし、畑もやっていて、米からアスパラから何でもかんでも作っていました。

昔はニシンがよく獲れていて、国の重要文化財にもなっている『ニシン御殿』もあるんですけど、僕が生まれる前の年(1953年)からまるっきり獲れなくなっちゃったんですよ」

-何が原因だったのですか?-

「それがいまだにわからないんですよ。獲りすぎとか、いろいろあるのかもしれないけど、謎なんです」

-兄弟姉も多いので大変だったのでは?-

「貧乏だったから全員高校には行けなくて、みんな中卒。ちょうど僕らの時代は、ほとんどみんなが高校に行くようになっていたんですよ。

増毛でもみんな高校に行くんだけど、貧乏で行けないのは、僕ともうひとりだけ。それで『高校に行きたいよなあ』って、2人で担任の先生のところに相談に行ったら、『ちょうど札幌の米屋さんで、住み込みで飯を食わせてくれて金をくれて夜間学校に通ってもいいという募集が来ているけど、お前ら行くか?』って言われたので、2人で一緒に行くことにしたんですよ。

貧乏だから何か手に職をつけないといけないし、料理人だったら食っていけるだろうと思って、昼間は米屋で丁稚奉公して、夜は2人で北海道調理師学校に通うことに。

夜間学校だから社会人が多いんですよ。僕たち2人は学校には制服で通うものだと思っていたから学生服で通っていたんだけど、みんな普段着。中学の制服を着て通うやつなんていないわけですよ。

それで、夜間学校のすぐ横に女子の学校、高校と大学があって、そこの生徒たちが僕たちを見て笑うわけ。でも、その頃まだ15歳だから、なぜ笑われるのかわからない。『なんであいつら笑うんだべ?』って(笑)。1年ぐらい制服で通っていましたね」

夜間学校の期間は1年半。その間は面倒を見てくれるが、それを過ぎたら、また新しく住み込みで奉公しながら夜間学校に通いたい人の募集をするため、自分で就職しなければいけないことになっていたという。

「増毛には食堂というのがなかったから、和食、洋食、中華があるということもわからなかったわけですよ。寿司屋もなければラーメン屋も何もなかったので。

米屋に住み込むようになったら、そこには3人姉妹の娘がいて、1番上のお姉さんが栄養士で、増毛では見たこともない料理を毎晩作ってくれるわけ。

マカロニグラタンなんて食ったことがないから、『ベチョッとしてうまくねぇなぁ。刺身が食いたいなあ』なんて思いながら食べていたの。初めて食べるからさ(笑)。

うちは貧乏だったけど、目の前が海だったから、浜辺に打ち上げられたホヤやアワビ、ウニとか食べ物だけは豊富だったんです。

肉なんて1年に1度、お正月だけみんなでジンギスカンを食べるんだけど、柔らかくてものすごくおいしくてね。それしか食ったことがないから、お姉さんが作ってくれたポークソテーは肉が固いわけですよ。『ジンギスカンが食いたいなあ』って(笑)」

※三國清三プロフィル
1954年8月10日生まれ。北海道留萌支庁管内増毛町出身。札幌グランドホテル、帝国ホテルを経て、駐スイス日本大使館の料理長に就任。スイス、フランスで8年間修業し、1983年に帰国。1985年、「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業。日本を代表するフランス料理人として、世界を股にかけて活躍。2013年にはフランソワ・ラブレー大学より名誉博士号を授与される。2015年にはフランス共和国より「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ」を受勲。日本遺産大使や観光大使、顧問も多数務め、「世界の子どもにワクチンを」等のボランティア活動、ノートルダム大聖堂の修復の支援活動も行っている。

◆ハンバーグとの出会いが人生を決めた

ある日、お姉さんが作ってくれたハンバーグが食卓に登場する。楕円形のハンバーグをはじめて見た三國さんは、肉だとはわからなかったという。

「はじめて見るから、『何だべ?』って(笑)。それで、多分ケチャップとウスターソースだと思うんですけど、黒いソースがかかっていたわけですよ。

僕は小さい頃からずっと、うちのおふくろと山にキノコ取りに行っていたんだけど、いつも裸でやんちゃで、何でも生でバクバク食べていたわけ。

それで、いつもおふくろから『清三、黒いものは食べるな、毒なんだから。死んじゃうんだからね』って言われていて。『黒いものは毒だ』って思っていたんですよ。

だから、ハンバーグを出されたときに、楕円形の物体で黒いソースだから、本当に毒だと思ったわけ。

45年くらい前の話なんだけど、その頃からおやじさんが『不景気だ、不景気だ』って言っていたんですよ。だから、『不景気だって言っていたし、おれは口減らしに違いない。毒を食わせて、明日増毛に帰れって言うんだろうな』って、本当に思った」

-すごいことを考えていたのですね-

「そう。真剣にね(笑)。でも、毒だと思ったけど、腹が減ってるし、みんなを見たらペロッと食ってるんですよ、おいしそうに。

それで、『まあ、いいか』って思って、まず、箸でその黒い毒というか、ソースだけを取って舐めてみたの。そうしたら甘酸っぱかったんですよ。

それまで増毛では、砂糖の甘いとか、お酢の酸っぱいとか、からいとか、そういうのは知っていたけど、甘酸っぱいというのははじめてだったんですよ。

それで、恐る恐る肉を切ってみたら、ジンギスカンより柔らかかったんですよ。箸で切ってみたら、肉汁がジューッて出て…。

お姉さんに『これ何だべ?』って聞いてみたら、『清三ちゃん、ハンバーグ知らないの?ソースと一緒に食べてごらん』って言われて、食べてみたら、めちゃめちゃおいしかったんですよ。もう未知との遭遇(笑)。その瞬間ですよ、『良いなあ。こういう料理が作りたい』って思った。

たぶん、何でも良かったんだと思う。何も知らなかったから。ラーメンに感動したらラーメン屋さんになっていただろうし、カレーでも、寿司でも、何でも良かったんですよ。

おふくろから、『とにかく食ってさえいければ生きていけるから』って言われていたから何でも良かったの。でも、ハンバーグと出会ってしまったんですよ。

それで、夜間学校に1年半経って、出なきゃいけなくなったときに、ハンバーグを作ってくれたお姉さんに相談したんですよ。『ハンバーグを作れるようになりたい』って。

そうしたらお姉さんが、『私のハンバーグおいしいかもしれないけど、札幌グランドホテルのハンバーグは私の100倍おいしいのよ』って言ったんですよ。

その当時、札幌グランドホテルは『北の迎賓館』って言われていて、我々が入れるようなところではなかったんだけど、その瞬間、『札幌グランドホテルに入ればハンバーグを作れるんだ』って思い込んじゃったわけ。16歳ぐらいだからね。

でも、お姉さんに『札幌グランドホテルは、正社員は高卒からだから無理よ。町にもいっぱいハンバーグを作れるところがあるから、そういうところにすればいいでしょう』って言われたんだけど、僕はもう何を言われても札幌グランドホテルしかないわけ」

◆札幌グランドホテルの厨房に隠れて直談判!

コネも相談する人もなく、思いあぐねていた三國さんだったが、夜間の調理師学校の卒業記念でテーブルマナーを習いに札幌グランドホテルに行くことに。

「『もうこれしかない』って思った。夜間学校の生徒が54人だったかな? 和洋中のキッチン見学があったんですけど、そのときに洋食の厨房(ちゅうぼう)にスッと隠れたんですよ。見つかったら大変だと思って(笑)。

それで10分くらい経ってからのぞいて見たら、体がでかい人がひとりデスクワークをしていて、どうやら偉い人のようだったから度胸を決めて、『すみません』って声をかけたんですよ。

その人が札幌グランドホテルの初代総料理長の息子さんで、実力もナンバーワンの青木さんだったんですけど、パッと振り向いて、『何だ?お前ば。どっから来たんだ?』って。そのとき、人生で初めて嘘をついたんですよ。札幌に住み込んでいたんだけど『増毛だ』って(笑)。

増毛のことはみんな知ってるんですよ。ニシンがとれなくなったということを。今は道があるけど、その当時は道がなかったから舟でしか行けなくて『陸の孤島』って言われていたんです。

青木さんもそれを知っていて、『なんでそんなところから?お前、何をやってるんだ?』って言われたので、『実は米屋で働いているけど、どうしてもここで働かなきゃいけないんです。何でもするから』って正直に言ったんです。

多分必死だったんでしょうね。それで、かわいそうだと思ったみたいで『そうか、わかった。地下にある従業員食堂で、ちょうどアルバイトのおばちゃんで1人欠員が出たばかりだ。俺が頼んでやるから、お前飯炊きでもいいか?』って言われて、次の日から飯炊きで入ったんですよ。パートで。

それで三畳間を借りて半年ぐらい飯炊きをやっていたんですよ。その頃は、札幌グランドホテルの全盛期ですから、もうすごいんですよ。何トンも飯を炊くわけ。

でも、だいたい社員食堂って、午後6時で終わるんですよ。残業の人には弁当を作っておいて勝手にという感じで。そうすると、6時からすることがないわけですよ。で、金もないからススキノとかにも行けないし(笑)。

そうしたら、ちょうど隣の部屋にレストランの洗い物が山のようにあったわけ。6時頃からどんどん洗い物が戻ってくるんですよ。それで、9時か10時くらいに、5、6人の若い子が来て、裸になって2時間位かけて洗い物をやるわけですよ。

それをずっと見ていたから、青木さんのところに行って、「6時からやることがないので洗い物をやっていいですか?』って言ったら、『それは助かる』って言われて。

それで6時から始めて10時くらいには全部終わらせていたんですよ。寸胴(ずんどう)っていう大きな鍋があるんだけど、それはなかに入ってゴシゴシ洗って」

-それまで5、6人でやっていた洗い物をひとりで全部ですか?-

「そう。毎日10時位には全部終わっているから、みんな喜ぶわけよ。誰だって、洗い物なんてしたくないんだから。

それで先輩たちが『清三、ラーメン食べに行くか?』って、毎晩連れて行ってくれてね。僕もすることがないし、飯を食わせてくれるから、それを半年ぐらいやっていたのかな。

そうしたら青木さんに呼ばれて、『お前、明日から正社員だ』って言われて。特例で正社員にしてもらったの。

正社員になったら、スキーのジャンプ台がある宮の森というところに寮があるんだけど、寮の部屋をあてがわれるんですよ。こうなったら、もうこっちのもんよ(笑)。

札幌グランドホテルには16歳から18歳まで3年間いたんだけど、10時くらいに終わっても寮にはほとんど帰ってなかった。それはなぜかというと、朝まで自分で料理の練習をやるんですよ」

-勝手に厨房で?-

「そう。今は食材管理も厳しくなったけど、昔は全然チェックなんかしなかったんですよ。だから何を使ってもいいわけ。だから、毎日練習するんですよ。オムレツだって、玉子2ケース分くらい使ったりしてね(笑)。

それで営業中に注文が立て込んできて『清三、お前できるのか?』って言われたときにパパパッてやると、あとは全部まかせられるわけ」

-そのためにひそかに練習するわけですか-

「そう。それで、『鶏の捌(さば)き』ってあるじゃない? そうしたら、休みの日に鶏の工場に練習しに行くんですよ。鶏の工場のおばちゃんは、1分間で5、6羽おとすの。慣れているからすごいはやいわけ。だから休みの日に行って、それを覚えて。

それで、『鶏の捌き』が来たとき、『やって良いですか?』って言うと、『お前にできるわけねえだろう?』って言われるんだけど、パパパッてやってみせると、『おーっ』って(笑)」

◆「帝国ホテルには料理の神様がいる」と言われ…

人知れず、毎晩料理の練習を重ねていた三國さんは、18歳のときにはメニューの品すべてを完璧に作ることができるようになっていたという。

「でも、失敗もありましたよ。札幌グランドホテルで1番面白い話は、スパゲティー。だいたい30把ぐらい茹でるんですよ。

それで、『清三、お前茹でられるか?』って聞かれたから、『大丈夫です!』って言ったんだけど、スパゲティーを茹でたことなんて一度もないわけ。

でも、そんなことを言ったら仕事がもらえないから、大丈夫だって言ってやり始めたんだけど、30分経っても誰も来ない。で、スパゲティーはドロドロになっていくわけ。『おかしいなあ』って(笑)。

『スパゲティーって、こんなにドロドロになっちゃって、どこ食うんだべ?』って思っていたら先輩が来て、『お前、できるって言ったろう?バカヤロウ!』ってボコボコにされて(笑)。

でも、そうやって仕事を覚えていって。僕がパッパパッパやるもんだから、みんなをバカにするわけよ。まだ17とか18歳だからさ。生意気な盛りじゃない?

『バカじゃねえの?できないの?』とかって言ってね。そうしたら先輩が怒って、毎日ケンカ。『生意気だ!』って言われてボッコボコにされて(笑)。

それで毎日ケンカしていたら、のちに札幌全日空ホテルの総料理長になる宇野さんという先輩が来て、『清三、お前いい加減にしろ。札幌グランドホテルで少々仕事ができるからといっていい気になるな。東京には帝国ホテルという日本一のホテルがあって、そこには村上信夫さんという“料理の神様”がいるんだ。お前なんか足もとにも及ばないんだから、いい気になるな!』って言われたんですよ。

それが上京するきっかけでした。神様って言われたのがね。僕がずっと小さい頃からおやじもおふくろも朝から晩まで働いていたんだけど、それでも貧乏だったんですよ。

だから『神様って理不尽だな』って、ずっとそう思って生きてきたから、神様って言われたことに反応したんですよ。料理人で神様がいるって言われたことに。

それで『どうしてもその神様に会わなきゃいけない』って思って、また青木さんのところに行ったの。『帝国ホテルに行きたいんですけど』って。

そうしたら、青木さんのお父さんが偉い人で村上さんの友だちだということで、青木さんと一緒に頼みに行ったら、『わかった』って言って手紙(紹介状)を書いてくれたの。それで、その手紙を持って、18歳のときに津軽海峡を越えたんです」

人の何倍もの努力とバイタリティーで、料理人としての道を自ら切り開いてきた三國さん。次回は「帝国ホテル」での修業、スイス(ジュネーブ)の日本大使館の料理長時代などを紹介。(津島令子)

※オテル・ドゥ・ミクニ(5月31日まで休業)
東京都新宿区若葉1-18 電話03(3351)3810
JR線・東京メトロ 丸の内線・南北線「四ツ谷駅」赤坂口より徒歩7分
ランチ:12:00~14:30(L.O.) ディナー:18:00~21:30(L.O.)
定休日:日曜日の夜、月曜日 駐車場:なし

※『日本遺産大使』
文化庁が、日本遺産に広く関心を持ってもらえるよう、国内外に発信力があり、それぞれの個性溢れる表現力で「日本遺産」の魅力をアピールできる著名人を任命。
三國さんは日本遺産大使として全国各地でその土地の食材を活かした料理メニューを考案、レシピを公開している。

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