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あおい輝彦、矢吹丈役を「最初は断った」伝説アニメ『あしたのジョー』秘話

©テレビ朝日

1962年、日本で初めて歌って踊るアイドルグループとしてデビューし、爆発的な人気を博し数多くのレギュラー番組を持つようになっていた「ジャニーズ」。デビューから4年、人気絶頂のなか、1966年に突然、「ジャニーズ」はアメリカ留学を決行。ジャニー喜多川さん、メリー喜多川さんとともにアメリカへと旅立つ。

◆幻のレコーディング曲が全米No.1ヒット曲に!

1966年、人気絶頂だった「ジャニーズ」は、「ジャニーズナインショー」(日本テレビ系)をはじめ、多くの番組を持っていたという。

「冠が付いた番組もいろいろあったんだけど、強引だよね?番組を終わらせて行っちゃった(笑)」

-その決断はすごいですね。ものすごく人気もあるのにそれを惜しげもなく-

「あまり執着がないんだよね。もともとが野球少年なんだから。僕たちの次の『フォーリーブス』は『ジャニーズ』を見て育っているから、ひとつの目標として、『ジャニーズ』みたいになりたいっていうのがあるわけだけど、僕たちには先輩がいなかったからね。

先輩は『ウエスト・サイド物語』ですよ、言ってみれば。アイドルになりたかったわけじゃないから、そこが大きな違いだよね。初代の『ジャニーズ』と、2代目の『フォーリーブス』からは全然違うんですよ」

-それでアメリカに行かれてからはどのように?-

「歌やダンスのレッスンを受けて、それで本場のミュージカルを見まくりました。楽しかったですよ。それがもともとの志だから。

キャーキャー言われたくてやっているわけじゃない。ステキなことがやりたかっただけなんです」

-アメリカにはどのくらいの期間、行かれていたのですか?-

「約4カ月半。最初は3カ月という約束だったんだけど、LPのレコーディングをするチャンスに恵まれて、3か月では帰れなくなっちゃったんです。向こうでスケジュールがいっぱいになっちゃって。

10数曲レコーディングしたんだけど、全部良い曲ばかりだったんですよ。すばらしい作曲家達で、プロデューサーがまた超一流。『悲しき雨音』のプロデューサーです。

もちろん僕たちはアメリカで発売するつもりでレコーディングしたんだけど、アメリカに行く前に約束していた仕事があったから、どうしても日本に帰ってこなくちゃいけなくて。

そのために、いったん日本に帰ったんだけど、そのうちに『解散しよう。』ということになったんです。

アメリカ留学や色々な経験をして、それぞれやりたいことや方向性に個性が出てきて、4人でやっていくことが良いのかどうか、全員がそう考えるようになりました。それで、1967年に解散、ということになったんです。

僕はすぐに木下恵介アワー『おやじ太鼓』(TBS系)に出演したんですけど、まだ山田太一さんが助監督として、カチンコを打っていましたからね。それで山田太一さんの第1作『3人家族』(TBS系)にも出演しました」

-「ジャニーズ」がアメリカでレコーディングした曲を、他の方が歌って大ヒットしたそうですね-

「そうなんですよ。僕は数年間、木下恵介アワーのシリーズに出演していました。当時湘南に住んでいて、近くの大船の松竹撮影所に車で通っていたんです。

撮影が終わって車で帰るときにカーラジオから、『今週のNo.1!』って流れてきて、『どこかで聞いたことがある曲だな…!? なんだ、これ俺の曲じゃないか』って(笑)。

それがアメリカで僕らがレコーディングした『Never My Love』だったんです。急いで車を浜辺の側に止めて、ひとりボリュームを上げて聴いたんです。不思議に嫉妬(しっと)はありませんでした。

それよりも、あれだけ僕が愛した曲を『アソシエーション』というグループがカバーしてくれて、今、世界中の人がこの歌を聞いてくれている…胸にジーンと熱いものがこみ上げてきたのを今でも覚えています」

©テレビ朝日

◆ドラマの主題歌は歌うつもりはなかったが…

あおいさんは「ジャニーズ」を解散後、ジャニーズ事務所を退所し、本格的に俳優として活動することに。

-あおいさんが本格的な俳優を志したきっかけは?-

「アメリカに留学したときに、どんなミュージカルを見ても、もとは芝居だなと僕は思ったんです。おおもとはね。

踊るにしても歌うにしても、芝居心がなければ単なるリズム体操、発声練習。やっぱり人の心のひだに触れられるような表現のおおもとは、全部芝居だと感じました。だから、まずはちゃんとした一人前の役者になりたいと思ったんです。

もともと僕は芝居が好きだったんですよ。ジャニーズ事務所のタレントはグループでも、単独でドラマや映画に出るじゃないですか。初代ジャニーズからそうだったんです。僕ひとりだけ当時日曜日にやっていた『若い季節』(NHK)という、人気生番組のドラマに出演していました。

その当時、日曜日には、日本中の有名な役者さんが地方にいなくなるというくらい、黒柳徹子さん、森光子さん、三木のり平さん、渥美清さんとか、有名な人ばかり何十人も出演する番組があって、それに僕は単独で出演していたんです。

その頃から、ジャニーさんもメリーさんも、僕は芝居が好きだということを見抜いてくれていて、『あおい君にはひとりで芝居をさせよう』って。だから、僕が芝居の仕事が入っているときは、ジャニーズの仕事は3人でやったりしていましたよ」

-ジャニーズとしての活動は6年近くだったのですね-

「そうです。僕はデビューが14歳で、解散したのが19歳の終わり。そして、20歳になるのとともに僕は独立したんです」

ジャニーズ解散後、出演することになった最初のドラマ『おやじ太鼓』では主題歌も歌うことに。

「最初は『僕は、歌はちょっと』って言ったんですけど、木下恵介監督に『あおい君、この主題歌歌ってよ』って言われたら、『いやです』とは言えないじゃない?(笑)

次の作品『3人家族』(TBS系)というドラマも、僕が主題歌を歌うことになりました。この山田太一さんの第1作がヒットして、同じメンバーの竹脇無我さん、栗原小巻さん、沢田雅美ちゃんで『二人の世界』(TBS系)というドラマが始まったんです。

『二人の世界』の主題歌も僕が歌ったんですけど、それがヒットしちゃった。だから、僕としては、本当は歌をやる気は全然なかったんだけど、この『二人の世界』は、今でもコンサートの最後にピアノの弾き語りで歌っています」

©テレビ朝日

◆伝説のアニメ『あしたのジョー』の矢吹丈役に!

1970年、あおいさんは、アニメ『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈の声で出演。放送直後から話題を集め、後世まで語り継がれる伝説のアニメ作品となった。

「僕は最初断ったんですよ。歌を封印するつもりだったというのと同じように、今の時代と違って、あの時代は俳優と声優というのは全く別の分野でしたからね。

でも、プロデューサーの熱意と、小学校のときから試合を見に行っていたくらい僕はボクシングが大好きなんです。

『あしたのジョー』は『少年マガジン』に連載されていて、僕は毎週読んでいたんですよ。

だから、ジョーのファンでしたからね。それもあって、『やっちゃえ』って(笑)。

収録の初日の第一声から、すでにジョーは僕のなかにいました。僕はこの作品でアテレコをやったつもりはない。ジョーの声を作ってもいません。

言ってみれば、僕が撮影した映像のアフレコをやったつもり。『これはオレだ』って、なり切っていました。やると決まったらね。

だから、ディレクターが何を言っても、『ジョーは、こうですよ』ってなっちゃう(笑)。

宿命のライバルの力石徹がドラマ、漫画のなかで亡くなったのに、『なんで殺すんだ?!』と収拾がつかなくなり、『お葬式をやるしかないね』と寺山修司さんが喪主をやって、講談社でお葬式をやったんです。

2002年には力石徹の三十三回忌のイベントも行われましたからね。文豪三島由紀夫さんもジョーの大ファンだったとか。

日本のアニメで、いわゆるアウトローがヒーローになった初めての作品じゃないかなと僕は思うんだよね。

『巨人の星』の星飛雄馬はいわゆる正統派のヒーローじゃないですか?同じ時代だからよく並べて言われるけど、ジョーはアウトロー」

-声優は初めてだったと思いますが、映像に合わせてというのは大変でした?-

「意外と平気でした。なりきっていたしね。だから、途中で絵の完成が遅れたりすると、絵が止まっていたり、線だったりするんだけど、自分の気持ちでやるでしょう?

そうすると、絵と合わない場合が出てくる。声のほうが先に終わっちゃったりして。そうするとディレクターが、『いいです、あおいさん、今の芝居がとても良かったので、今の声に絵を合わせます』って、僕の声に絵を合わせてくれたんですね。スタッフ、キャスト全員の熱意を感じるすてきな作品でした」

まさにジョーそのものという感じのあおいさん。「へへっ、おっつぁんよ~」という有名なセリフも実演してくれて、とても幸せな気分に。張りのあるすてきな声は昔とまったく変わらない。年齢を重ねるとキーを下げる歌手の方が多いなか、あおいさんは、今も14歳でデビューしたときと同じキーの高さで歌っているというのだからすごい。次回は映画『犬神家の一族』の撮影裏話、12年間レギュラー出演されていた『水戸黄門』について紹介。(津島令子)