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柴田理恵、親友・久本雅美との出会いを振り返る「大阪から変な女がやって来るけど…」

©テレビ朝日

「劇団ワハハ本舗」を久本雅美さんらとともに立ち上げ、看板女優として舞台活動を続ける傍ら、多くのバラエティー番組やテレビドラマ、映画に出演してきた柴田理恵さん。

個性あふれる演技と存在感、庶民的なキャラクターで同性からも広く支持を集め、今やテレビで見ない日はないほど。5月27日(水)からは3年ぶりとなる「劇団ワハハ本舗」の全体公演『王と花魁』も控えている柴田理恵さんにインタビュー。

©テレビ朝日

◆高校の演劇部に入ったものの飽き足らず…

富山県八尾町(現・富山市)で生まれ育った柴田さんの母親の実家は江戸時代から続いている老舗旅館。年に一度の書き入れどきである毎年9月の「越中おわら風の盆」というお祭りの時期には、小学生の頃から柴田さんも旅館を手伝っていたという。

「子どもの頃から大人たちの前で、歌ったり踊ったり演説したりするのは好きだったみたいです。選挙があったりすると、選挙カーの後ろを同じようなことを言いながら走っていたって聞きましたけど、別に人の前で何かをやって楽しいことを言うわけではなかったようです」

-それが変わったのはいつ頃からですか?-

「きっかけは中学校のときの立山登山です。そのときに山小屋で1泊したんですけど、みんなでしゃべっているうちにモノマネ歌合戦みたいになって。

私はただニコニコして見ていただけなんですけど、『理恵ちゃんも何かやって』って言われて、山本リンダさんのモノマネをやったらすごくウケて、『ああ、こういう風に自分で楽しくやると、周りの人もみんな喜ぶんだ』って思ったんですね。

それで、その頃から徐々に人前で何かすると楽しいんだなって思うようになって、学芸会とかを一生懸命やるようになったんです。

自分でチョコチョコと台本みたいなのを書いて、放課後、2、3人の人に残ってもらって見せたりしていました」

高校に入学した柴田さんは演劇部に入部するが、思っていたほど面白くはなかったという。

「どうせ演劇をやるんだったら、いろんなものを見たいと思っていたので、『労演』(労働演劇者鑑賞会)という組織にひとりで入って、2カ月か3カ月に1回富山に来るお芝居、新劇ですよね、『民藝』とか『俳優座』、『前進座』、『文学座』とかのお芝居を見に行ったりしていたんです。

それで、そういうのが楽しいなぁと思って。高校の演劇部って、『夕鶴』とか、そういうのばかりだったんですよ。『夕鶴なんか全然面白くないや』って思って(笑)。

だけど、私たちのちょっと上の先輩ぐらいから、オリジナルのものをやろうとしたりはしていたんですよね。でも、もっと何かいろんなものをやってみたいなと思っていました」

-同じ演劇部の方で労演に入って、一緒にお芝居を見に行く方はいました?-

「いませんでした。私としては『どうして見ないの?』って思うんですけど。自分たちだけでやっていたって学芸会と変わらないじゃないですか。

本当のお芝居をちゃんと見たほうがいいのに、誰もそういうことをしなかったんですよ。だから、『どうしてかな?』って」

-そういうところが、柴田さんのようにお仕事として成立しているかどうかの違いなのかもしれないですね-

「それはわからないですけど、どうせやるんだったらいろんなものをやったほうがいいと思うんですよね。

だって美術部の人は、展覧会が来たら見に行くでしょう? 書道の人は書いているだけではなくて、書道展があったら見に行くじゃない?どうして演劇部だけ行かないのかなあって、すごく不思議でした」

-色々な劇団のことも研究されていたそうですね-

「若いから『今のお芝居ってどんなのだろう?』って、そういう気持ちがどんどん湧くじゃないですか。

新聞とかを見ると『今、赤テントがすごい』とか、唐十郎が花園神社でこういうことをやったとか、つかこうへいがこういうことをしたとか、寺山修司が…というような記事が出ているわけですよ。

そんなのは見たことがないわけですから『どんなのだろう?』って、すごく憧れがつのって図書館に行くんですよ。

図書館に行って、寺山修司ってこの人だって調べたり、唐十郎だって昔は『からじゅうろう』って読めなくて、『とうじゅうろう』だと思っていましたからね(笑)。それで、書かれた本を意味もわからず読んでいました」

※柴田理恵プロフィル
1959年1月14日生まれ。富山県出身。1980年、大学4年生の時に「劇団東京ヴォードヴィルショー」に入団し、1984年に脱退。構成作家の喰始(たべはじめ)さん、久本雅美さんらとともに「劇団ワハハ本舗」を創立。「劇団ワハハ本舗」看板女優として活躍しながら、『今夜は最高!』(日本テレビ系)、連続テレビ小説『ひよっこ』(NHK)、『7人の女弁護士』(テレビ朝日系)、映画『来る』などテレビ、映画に多数出演。5月27日(水)から31日(日)までワハハ本舗全体公演『王と花魁』(なかのZERO 大ホール)に出演。

©テレビ朝日

◆家族には国語の教師を目指すと言って上京

演劇への興味がますます増して行った柴田さんは、むさぼるように演劇関係の記事や資料を読み、テレビで舞台中継などがあると必ず見ていたという。

「テレビで、『早稲田小劇場』の白石加代子さんと市原悦子さんが共演した『トロイアの女』というギリシャ悲劇の舞台をほんのちょっとだけ、5分ぐらいしかやってなかったけど、それがすごかったんですよ。

『すごいなぁ。こんなのがあるんだ。見てみたい。かっこいいなぁ』って思っていたら、富山県の八尾町のもっと山奥にある村に、『早稲田小劇場』が来るっていうんですよ。

どうやったら見られるんだろうと思っていたら、その村から同じ高校に来ている子が何人もいて、『家の村の村民って言えばタダで見させてくれるらしいよ』って言ったんですよ。

それで、その子の家に遊びに行って、『村民です』って言って、一緒に見に行ったんです。

そうしたら、練習風景も全部見せてくれて。村民だから(笑)。 向こうとしては『私たちは怪しくありませんよ。こういう演劇です』っていうのを村の人たちに見てもらおうということだったと思うんですけど。

実際に見たらすごいかっこ良くて。白石加代子さんが超カッコ良くて、『すごいなこの人』って思って。それで、『やっぱり絶対に東京に出て芝居をちゃんと見てみたい』って思ったんです」

-東京に出てくることについてご両親は?-

「芝居をやるからなんて言ったら上京を許してくれないから、それはあまりちゃんと言わないで、国語の先生になるから東京の私立大学に行かせてくれって言いました。

私は5教科あるうちの英語と数学と理科が全然駄目だったから、国立大学はだめなので富山の地元の大学は無理ですって言って。

何とか3教科でいける大学を探して、『東京だ、東京だ』って、東京の大学ばかり志望で書いて(笑)。それで東京に来たんです」

明治大学文学部演劇学科に進学した柴田さんは、色々なお芝居を見て勉強しようという意欲に燃えていたものの、実際に上京してみると、すべてが想像以上で圧倒されたという。

「田舎の臆病な高校生ですし、東京は怖いところだと思っていましたからね。東京で高校のときからいろんなものを見てイケてる子たちは、すぐに自分たちで劇団を作ったり、プロに入ったりとかするんですよ。

でも、私は真面目に大学の『演劇研究部』に入って色々勉強してから、そういうふうになるんだったらなるけど、でもそんなことも考えてなかったな。

いざ東京へ出てきたら、『ひえーっ、こんなところ全然ダメだ、自分は』って縮こまっちゃって。とにかく何を見に行っても『すごいなぁ、すごいなぁ』って、完璧な田舎者ですよ(笑)」

-「演劇研究部」での活動は?-

「先輩たちがやっているのを見て、最初は大道具をやったり、新人だけで別役実さんの作品をやったり、つかこうへいさんの作品をやったり…。

学生演劇というのは、やっぱり頭ばかり先行して真似(まね)っこみたいなものですけれども、それはそれで楽しかったですね。だんだん同学年のなかで、脚本を書いてやりたいって言う人も出てきたり。

でも、やっぱり私たちは、遅れてきたアングラ世代で、唐十郎さんのところも寺山(修司)さんのところも、もうずいぶん立派になってられて、憧れはあるけれどもそこには追いつかない。

『どうしたらいいのかなぁ』みたいな感じでしたね、気持ちとしては。それで、結局同期で最後までやっていた連中は、寺山修司さんの『天井桟敷』に2人入って、もう1人は佐藤信さんの『劇団黒テント』に、そしてうちの人(夫)は『唐組 紅テント』に入りました。

私は『早稲田小劇場』が大好きだったから、入りたいと思ったこともあったんだけど、なんか私にはちょっと違うような気もして…。

色々な舞台をいっぱい見ていたんですけど、そんななかで、『東京ヴォードヴィルショー』と『東京乾電池』というのは、お笑いのようなお笑いじゃないような、アングラのようなアングラじゃないようなところがあって、その二つがすごかったんですよ。面白くて面白くて。

『東京乾電池』のほうは、シュールでシニカルなお笑いでカッコいい。でも怖いかもという感じだったんです。で、『東京ヴォードヴィルショー』は、わりと人情味のあるものだったり、ばかばかしいものだったり、なんか楽しい感じで。

それで、私は佐藤B作さんがすごく好きだったので、『東京ヴォードヴィルショー』に押しかけたわけです」

©テレビ朝日

◆大好きな佐藤B作さん率いる「東京ヴォードヴィルショー」へ

柴田さんは大学4年生の秋、21歳のときに「東京ヴォードヴィルショー」に入団。久本雅美さんが入ったのは、柴田さんの半年後だったという。

「B作さんから『今度大阪から変な女がやって来るけど、お前と良いコンビになるかもな』って言われたんですよね(笑)」

-実際に芸能界きっての親友として知られていますね-

「若いときは、小道具の作り方が違うというような些細(ささい)なことで、よくケンカもしましたけどね(笑)。離れなかったのが大きい。続けることが大事で一番難しいですからね」

-「東京ヴォードヴィルショー」を辞めることになったのは?-

「ヴォードヴィルのなかで若手公演をすることになりました。若手公演を頑張って一生懸命やっていれば、それを見て上の先輩が、『あいつ頑張っているな』っていうことで、本公演で少しでもいい役がつけばいいなって思って頑張っていました。

でも、方向性が違うということで、若手公演は中止になってしまいました。

でも、私たちは自分たちで何かをやりたい、それで若手公演の作・演出の喰始(たべはじめ)さんに『私たちはやりたいです』と言ったんですよ。

そうしたら、喰さんが『ちょっと待ってくれ。僕はB作にも恩があるから、君たちを引き抜くようなことはしたくはないのだ』と。

『だから君たちは君たちそれぞれの事情で、ヴォードヴィルに入ったんでしょ?だったら、君たちのそれぞれの言葉でB作さんにちゃんと謝って退団するなりして、そこから、サラになってからワハハを立ち上げよう』って言ったんです。

でも、結局は誤解されて、『喰始がゴソッと引き抜いた』みたいな言い方もされましたけど、誰も売れてなかったし、『あんな才能もない、力もないやつらを集めてどうするんだ?』って言われていたらしいですよ(笑)。

『あんなやつらを集めて、喰始、お前は才能があるのに』って(笑)。喰さんは才能がある人なので、そういう風にずいぶん言われたって、喰さんが後で言っていました」

-B作さんにはどのように話されたのですか-

「B作さんに会って『お話があります。実は辞めたいんです。私はここに骨を埋めようと思ってやってきたんですけれども、先輩方が20代で始めて、この10年間の間に劇団を大きくして来られた。

でも、私たちは何にも苦労していません。私たちはもっと自分たちで1からやったほうが良いと思うんです」って。

私たちはすごく恵まれていたんですよ。B作さんたちはチケットを1枚売るのにも大変なお金の苦労をなさっていたので、若手にはそういうチケットのノルマだとか、そういう苦労をさせたくないから『お前たち自由に売ってこい』って、そういうふうにやってくれたんですよ。本当にありがたいことに。

でも、『B作さんの傘の下にいたら、いつまでたってもB作さんたちと肩を並べることができない』ということを言いました。

そうしたら『うーん、バカだなあ』っていうようなことをおっしゃいましたけど、渋々やめることを認めてくださいまして。集団で抜けるという形は取らなかったんですけど、それを次から次へ次から次へ電話をかけて言うものだから、『またかよ』って(笑)。それはそうですよね」

そして、柴田さんは、喰始さん、久本雅美さんらとともに、1984年、「ワハハ本舗」を立ち上げることに。次回は「ワハハ本舗」旗揚げ、バラエティー番組などへの出演について紹介。(津島令子)

※ワハハ本舗全体公演『王と花魁』
5月27日(水)~31日(日)なかのZERO 大ホール
<全国18ヶ所24公演~7月19日(日)>
構成・演出:喰始
出演:柴田理恵 久本雅美 佐藤正宏 梅垣義明 ほか
お問い合わせ:WAHAHA本舗 03(3406)4472