「正直、アイドルを甘くみていてた」小3で父を亡くし、母を守るためアイドルになった16歳少女<中村守里>
秋元康プロデュースによる、『ラストアイドル』(テレビ朝日系、2017年8月に放送開始)から生まれた、「Love Cocchi」の中村守里(なかむら・しゅり)は、小学生の頃に父親を亡くし、「家族のためになにかできないか?」と考えた結果、中学1年生から芸能活動を始めた少女だ。
幼少期はアイドルに興味を持つことはなく、クラシックバレエと新体操に熱中。新体操では小学校6年で全国大会にも出場した。その後、スカウトで太田プロダクションに所属。
演技のレッスンや舞台出演をする日々のなか、事務所からオーディションの連絡があったため、「とりあえず受けてみた」ところ、正規メンバーバトルでは敗れたもののセカンドユニットのメンバーとして合格。
そもそもアイドルという存在に対して「自分には向いていない」と思っていたものの、流れのままいざ自分がなってみると、その大変さが身にしみて、少しでも甘く見ていたことを恥じることに。
彼女はなぜ、アイドルを目指したのか。
『ラストアイドル』に賭けた少女の、ビフォーアフターに迫る。
◆母を助けたい。「子どもでも働けることはないか」と考え、芸能界へ
2003年6月、東京都で生まれた中村守里。
新体操やクラシックバレエ、水泳やピアノ、公文式まで…。習い事に熱心な少女時代を過ごしていた。
「7歳で新体操を始めて、表現力を磨くために8歳からはクラシックバレエも始めました。いろんな習い事をやっていたので、1週間のほとんどが埋まってましたね。いちばん忙しい日は、学校が終わったら公文にいって、新体操に行った後に習字教室に行くみたいな。振り返ってみても、いまより忙しいかもしれないです(笑)」
小学6年生のときには、新体操で全国大会にも出場。一段落したと考えて、芸能界を目指すことを決意した。
その思考の背景には、若くして父を亡くした経験があった。
「小学校3年生のときに、お父さんが亡くなってしまって。お母さんがひとりでがんばってくれているのを見ると、自分にもなにかできないか。子どもでも働けることはないかなと考えたら、芸能界しかないと思ったんです」
◆「アイドルにはあまり興味なかったんです」
中学1年生でワタナベエンターテインメントの養成所に特待生として通い、夏休みの最後にオーディションを受けたところ、芸能事務所50社からのスカウトが殺到。
その後、太田プロダクションに所属し、演技のレッスンを受け始める。
「少しずつ舞台に出させていただく機会もあったんですけど、レッスンがあんまり好きじゃなくて、『早く舞台に出たいな』っていつも思ってて(笑)。いざやってみると、普段はこうやって普通に話せるのに、演じるとなるとどうしてもセリフを噛んじゃうんです。演出の方に怒られてばかりで、いつも泣いてましたね」
そうして舞台と稽古が続く日々のなか、『ラストアイドル』のオーディション情報が舞い込んだ。
「ある日、事務所から『こういう企画があるんだけど、受けてみないか』って連絡がありました。演技のレッスンばかりでうずうずしてたし、なにかのチャンスかもしれないと思って、受けることにしたんです」
オーディションを受けると決めたものの、当時は「アイドル」という存在について、まったく興味がなかったという。
「正直に言うと、アイドルにはあまり興味はなかったんです。甘くみていたというか。自分には向いてないだろうって思っていたくらい」
ところが、自身が抱いていた「アイドル」に対してのイメージは、早々に裏切られることとなる。
◆つんく♂の指導で始めた。お台場路上ライブで気づいたこと
2017年末、中村はオーディションバトル番組『ラストアイドル』に出演。挑戦者として1曲パフォーマンスをしたのだが、その時点で、アイドルという存在を「甘くみていた」と痛感した。
「その時点では、たった1回、テレビでパフォーマンスしただけだなのに、『ああ、こんなに大変なんだ。甘くみていたな』って思いました。バトルの相手だった同い年の鈴木遥夏ちゃんは、歌とダンスの魅せ方がすごく上手で、『うわ、アイドルだ!』って感じ。同い年なのに、すごい。自分にはできないなって思いました」
バトルの結果は敗退となったが、セカンドユニット「Love Cocchi」のメンバーとしての活動がスタート。
「女優として頑張るという道もあったけど、せっかくのチャンスなので、アイドルとしてがんばってみようと思って。それまでがレッスンばかりの生活だったことと、お客さんの前でステージに立つのが楽しかったのもあります」
Love Cocchiとしての二曲目の楽曲は、つんくプロデュースの『青春シンフォニー』。この曲をパフォーマンスするにあたって、たったひとりで路上ライブをやったことも。
「つんく♂さんに言われて、気持ちの伝え方を知るために、お台場で路上ライブをやったんです。当然、素通りする人がほとんどだったんですけど、2〜3人が立ち止まって聞いてくれて。そこからは徐々に人が増えていきました。聞いてくださった方々は、私のことを知らなかったと思うんですよ。でも、漠然と誰かに向かって歌うんじゃなくて、眼の前にいる“あなた”に向かって届ける必要があるんだ。気持ちって大切なんだって、あらためて勉強になりました」
◆「人間って、ラクな方向に逃げちゃうじゃないですか」
アイドルになったことで新しい経験や、新しい出会いが増えた。そして、自分の中でさまざまな変化を感じたとか。
「自分もそうなんですけど、人間って、ラクな方向に逃げちゃうじゃないですか。でも、一緒に活動してるメンバーたちがみんな努力してる姿を見てると、自分も成長し続けないと、チャンスが来てもつかめないんじゃないかって思うんです。この世界に入ってから、自分に厳しくできるようになったと思います」
現代のアイドルにはつきものである握手会も、彼女の成長の場となっている。
「昔から人見知りだったので、最初のうちは何を話せばいいかわからなくて…。『いつもありがとうございます』くらいしか言えなかったんです。でも最近は、いろいろ話せるようになったし、『アイドルを好きになったのはあなたが初めてです』って言って下さる方や、『舞台を見て好きになったけど、アイドルとしての姿も魅力がある』って褒めて下さる方もいて、すごく嬉しいです。ファンの方を含め、いろんな人と接するなかで、徐々に慣れてきた気がします」
◆給食の時間に流れてきた自分の曲
徐々に前向きな気持ちが出てきたことで、中村は苦手な分野でも努力をするようになった。
「ずっと歌に苦手意識が強かったので、いつも『みんなの歌の邪魔をしちゃってる』と感じて辛かったんです。自信がないから、ステージでもうつむいたままだったり。でも、このままじゃダメだと思って、自分でボイストレーニングに通い始めてからは、少し気持ちが変わってきて。ステージでも客席のファンの方の目を見て歌えるようになったり、みんなと一緒に盛り上がれるようになりつつあります」
活動を続けるうちに、少しずつ「自分はアイドルなのだ」という自覚も強まっていく。日常生活でも、そのことを自覚する瞬間があったとか。
「通ってた中学の給食の時間に、スピーカーから自分の声が流れてきたんです。デビュー曲の『失恋乾杯』が流れていて、すごく恥ずかしかったけど、知ってくれてる人もいるんだなと。ちょっと前まで一般人だったのに、自分の曲が、自分の声で流れてるじゃんっていうのが不思議でした。同級生のなかで、握手会に来てくれる子もいるんですよ。嬉しいですよね」
アイドルとして努力を続けながら、女優としての夢も捨ててはいない。
いま、彼女が抱く目標とは。
「まずはラストアイドルとしてたくさんの方に名前を知ってもらって、武道館だったり、大きな会場でライブができるようになりたいです。個人としては、女優としていろんな作品に出演したいし、それがきっかけで、ラストアイドルの存在を知ってくれる人が増えたらいいなと思います」
2018年には、映画『書くが、まま』で初主演を務めるなど、注目の若手女優でもある中村。
どのような作品に出演したいと考えているのか。
「もともと、『湯を沸かすほどの熱い愛』や『ヒミズ』のような、少し影のある映画作品が好きです。将来は、そういう作品で存在感を出せる女優になっていきたいです。舞台では、コメディとか、今は苦手なジャンルにも挑戦していきたいですね」
このインタビュー中も、受け答えする様子が、16歳とは思えないほど落ち着いていた。その反面、コメディで弾ける姿は、想像がしづらいともいえる。苦手意識を抱くのも無理はないだろう。
「自分でも、同年代の子と比べて落ち着いているとは思います。父が亡くなったときから、人前で泣かないようにしたり、怒るのも、強く感情をあらわすことを我慢してきたので、それが演技でも出ちゃってるのかな。女優としては、いろんな感情を人に伝えて行かなきゃいけないと思うので、どこかでそのクセを克服したいですね」
<撮影:スギゾー、取材・文:森ユースケ>
※中村守里(なかむら・しゅり)プロフィール
2003年6月、東京都生まれ。特技はクラシックバレエと新体操。新体操では全国大会の出場経験もある。小学校3年生で父を亡くし、自分も家族を支えたいと思い、早くから芸能活動を志す。現在は、家族もアイドル活動を応援してくれている。「ライブや舞台も見に来てくれるし、兄は私のグッズをたくさん持っていて、嬉しいけど恥ずかしいです(笑)。お母さんは、おじいちゃんとおばあちゃんにグッズを送ってくれて、みんなで応援してくれています」
※番組情報:ラストアイドル『ラスアイ、よろしく!』
【毎週水曜】深夜1:56~2:21、テレビ朝日(※一部地域を除く)