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尾上松也、20歳で直面した歌舞伎俳優としての危機…そのとき“支え”になったこと

©テレビ朝日

1990年、5歳のときに歌舞伎俳優である父・尾上松助(六代目)さんの襲名披露に併せ、歌舞伎座で初舞台を踏んで以降、歌舞伎俳優・二代目尾上松也として数々の舞台に出演。次世代の歌舞伎界を担う花形俳優が顔を揃(そろ)える「新春浅草歌舞伎」では2015年からリーダー的な立場をつとめるようになり、間もなく6年目を迎える尾上松也さん。

自ら主宰する歌舞伎自主公演『挑む』も2009年から年1回のペースで主催。近年は歌舞伎俳優としてだけでなく、ミュージカル、声優、バラエティー番組、テレビ、映画など幅広い分野で活躍。12月には新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』(新橋演舞場)、2020年1月には『新春浅草歌舞伎』、主演ドラマ『課長バカ一代』の放送・配信も始まる尾上松也さんにインタビュー。

©テレビ朝日

◆父の襲名披露でいきなり歌舞伎の舞台へ

六代目尾上松助さんと元新派女優・河合盛恵さんの長男として生まれた松也さん。1990年5月、5歳のときに初舞台を踏むが、それは突然のことだったという。

「父の襲名記者会見の前日に、当時の松竹の永山(武臣)会長のところにごあいさつに伺った際に、『息子はいくつになったんだい?』って聞かれまして『5歳になりました』とお答えしましたら、『(舞台に)出してはどうだい?』ということに急になりまして。

翌日出席するはずではなかった襲名記者会見に突如出席することになったみたいです。ですので、永山会長におっしゃっていただかなかったら、もしかしたら僕は歌舞伎をやっていないかもしれませんね」

-それまで歌舞伎俳優になるということは?-

「5歳ですからね。そういうことを考えたことはなかったと思います。ですが、父親の楽屋にはよく遊びに行っていましたし、舞台もすごく集中して見ていたみたいですから、歌舞伎が好きだという気持ちは、子どもながらにあったのだと思います」

-歌舞伎俳優になるためのお稽古を受けたことがないまま、いきなり初舞台を踏むことに?-

「そうです。両親も出演させるつもりもなかったみたいですし、準備をしていたわけではないので。

代々の歌舞伎俳優の家に生まれた子どもでしたら、3歳ぐらいの小さい頃から、踊りのお稽古など、色々なことをなさっていますけども、うちはそうではないので、全くしていませんでした。お稽古に行くようになったのは、初舞台を踏んでからです」

-初めて舞台に立ったときはいかがでした?-

「楽しかったんだと思います。初舞台以降、色々なお話をいただけるようになったのですが、両親としては、やりたくないことはやらせたくないということで、毎回僕に出演するかを聞いてくれていたみたいです。

ですが、その都度僕は『やりたい』と言っていたみたいですから、歌舞伎が本当に好きだったんでしょうね。また、その当時は、歌舞伎の役者さんの子どもさんというのが、僕と(中村)七之助さんと(中村)勘九郎(当時は勘太郎)さんの3人ぐらいしかいなくて。下は年がもうちょっと離れていて、まだ赤ちゃんでしたからね。

僕が5、6歳で、七之助さん、勘九郎さんが7歳とか8歳。この3人でほとんど子役を回していたみたいなところもありましたので、結構忙しかったですね。

楽屋では皆さんがものすごく気を遣ってくださって、本当に色々な方に遊んでいただきましたので、それも楽しかったんだと思います」

-学校との両立はできていたのですか-

「青学(青山学院初等部)在学中はかなり舞台に出演していましたので、正直全然勉強が追いつかず、中学に入るときに地元の区立の中学校に転校しました。

中学の3年間というのは、僕だけではなくてほとんどの歌舞伎の家に生まれたお子さんは、(歌舞伎の舞台には)基本的にあまり出ないことが多いんです。

声変わりもありますし、中学生が勤められるような年齢のお役が歌舞伎の演目のなかにはあまりないので、出ないというスタイルをとる方が多い。僕もその一人で中学の3年間は全く歌舞伎の舞台には出演していなかったです」

-その間は歌舞伎にはどのような思いでした?-

「嫌いになったわけではないのですが、3年間離れていたので、興味という点ではかなり薄くなっていました。

ですが、演劇自体は好きでアメリカの映画などをよく見ていましたので、『アメリカで演劇の仕事をしたいな』ってずっと思っていたんです。

高校を卒業したら自由にしていいと父親にも言われておりましたので、ハリウッドを目指すとか、そんな大それた気持ちではなかったんですけれどもアメリカで演劇の仕事をしながらご飯を食べられるぐらいになれたら最高だなあと思っていた時期はありました。

アメリカで仕事をするとしたら、歌舞伎の勉強をしていたことが武器になるのではないかとも思いまして、将来の自分のための経験として、また歌舞伎の舞台に出させていただこうという考えは高校生のときにはありましたね」

-3年ぶりの歌舞伎の舞台はいかがでした?-

「楽しかったですね。いつの間にか、アメリカに行くなんていう考えはどこかに行ってしまっていましたから(笑)。もともとたいした決意もなかったんだと思うんです。

高校生になってまた歌舞伎を始めたらとても楽しかったですし、自分が小さいときから見ていて好きだということに、改めてそこで気づいたんでしょうね。歌舞伎以外の何かという気持ちはもうなくなっていました」

※尾上松也プロフィル
1985年1月30日生まれ。東京都出身。1990年5月、5歳で二代目尾上松也として『伽羅先代萩』の鶴千代役で初舞台。以降、数々の子役で多くの賞を受賞。2009年より歌舞伎自主公演「挑む」を主宰する。2012年以降、歌舞伎と並行してミュージカルにも挑戦。蜷川幸雄演出作『騒音歌舞伎 ボクの四谷怪談』をはじめ、『エリザベート』、『新感線☆RS「メタルマクベス」disc2』など多くの舞台に出演。

『メレンゲの気持ち』(日本テレビ系)のMCメンバー、アニメーション映画の声優、『木ドラ25 さぼリーマン甘太朗』(テレビ東京)に主演するなど幅広い分野で活躍。山崎育三郎さん、城田優さんとともに結成したプロジェクト「IMY」(アイマイ)としても活動している。

©テレビ朝日

◆父の死…歌舞伎俳優としての危機に…

高校生のときに歌舞伎に復帰し、歌舞伎俳優として生きていく決意を固めた松也さんだったが、10代後半は思うようなお役もなく、悶々(もんもん)とした日々を過ごしていたという。そんなとき、父の病気が発覚し、59歳の若さで亡くなってしまう。

-お父様が亡くなられたとき、松也さんはまだ20歳。いろいろなことが一身に降りかかってきたと思いますが-

「まず実感がなかったですね。病気がわかってから亡くなるまで1年しか経ってなかったので。責任を負う準備も覚悟もできていませんでした。

ですが、父親が亡くなって、役者としてのピンチだということはわかっていました。歌舞伎界においては、家系、後ろ盾というのは非常に重要なことですが、僕は代々の歌舞伎の家に生まれたわけではないですし。

父が頑張ってくれたことによって、何とかお役をいただけることもありましたが、父がいなければ、大切な後ろ盾もなくなってしまうわけです。そうなると自分を守るものというのは何一つなくなってしまう。このままではいけないというのはすごく感じました。

自分の家族を守らなくてはとか、一門がいるからということよりも、それを守るためには、まず自分の地位を確立しないと何も守り切れないという焦りはありました。なによりもまずここから自分で道を切り開いてどう自分の立ち位置というものを築いていくかということばかりを考えていました」

-お父様のお弟子さんたちは、松也さんのもとに残られたそうですね-

「そうです。僕自身20歳でしたし、まだ歌舞伎に復帰して4年ぐらいしか経っていない時期で、ようやく自分のお化粧が自分でできるようになってきたぐらいのレベルですからね。

そんななかでお弟子さんたちに教えてあげられることなんて何もないですし、どちらかというと、僕よりお弟子さんたちの方が色々知っているぐらいでしたので。

誰かについて何かを吸収したいと思うのであれば、僕の下ではダメだと思っていました。

父が亡くなってすぐに、もしそういう気持ちがあるのであれば僕からも先輩方にお願いしますし、先輩方のお弟子さんに行っていただいても構わないと伝えたんですけれども、ありがたいことに、全員が僕について行きますと言ってくれて。今もずっと一緒にやってくれています」

-まだ20歳だったわけですから大きな支えになったでしょうね-

「そうですね。父が残してくれた何よりの財産だと思います。お金でどうにかなる問題ではないので。自分を支えてくれようとしている、とてもあたたかい良い方たちを父が残してくれたというのが、何よりでしたね」

-そして松也さんはいろいろなことに挑戦されるわけですが、構想は前からあったのでしょうか-

「いえ、どうしたらいいかわからなかったですけど、やれることをやらなくてはと思っていたのが、1番でしたね。

ですが、なぜ歌舞伎以外のことに挑戦したのかということになれば、自分は代々の歌舞伎の家に生まれたわけではないですし、父という後ろ盾もなくなってしまった以上は、同世代の役者さんたちと肩を並べる、置いていかれないようにするにはどうしたら良いのかって考えていました。

僕の立場では、歌舞伎を続けているだけでは到底難しいのは分かっていましたし、どんなに研鑽(けんさん)を積み重ねたとしても叶わないことはわかっていました。

僕がやれることは、歌舞伎以外の分野でも必要とされて、その結果として歌舞伎のなかでも自分の立ち位置というものを確保しなければいけない、それしか方法はないと思っていました」

-オーディションもかなり受けられたとか-

「はい。修業中の身ではありましたけれど、別ジャンルの舞台のオーディションを受けたり、少しの出番しかないドラマでも、1、2カ月休んで1シーンでも2シーンでも出るということで。

自分のなかではとにかくそれがうまくいくかどうか、たとえうまくいかなかったとしても、何もしなかったと後悔するよりはマシかなと思っていました。歌舞伎の自主公演もその頃に始めましたし、とにかく必死でした。

唯一の支えとしては、一生懸命やっていれば、いつか自分が報われるときが来ると信じる根拠のない自信があったというか…。それだけでしたね。計画的なことなんて何一つなかったです」

-歌舞伎自主公演を始められたのは24歳のときですね-

「そうです。今となれば歌舞伎自主公演も計画的なことなんて何もなかったです。それに賛同してくれる仲間がいて、その仲間たちがその場を作ってくれて。

もちろんそのときに断ることもできましたけど、とにかくそのときはやれることをやらなくてはということだけでした。歌舞伎の自主公演でどれだけの予算がかかって、自分がそれを捻出できるかなんてことも全く考えずに、ただ、飛び込んでいましたね」

-今では考えられないことですけど、最初はお客さんを呼ぶのも大変だったそうですね-

「そうです。それは当たり前ですよね。実績と経験というのが全くないなかで、お客様を満杯にするなんてことは不可能だと思いますし、僕自身もどこか過信していたところもあったんでしょうね。

最初の3年目ぐらいまでは、本当にお客さんが半分以下みたいな感じでした。そういう現実も見ましたけど、同時にそれでも来てくださる方がいらっしゃることのありがたさも実感しました。

自主公演というのは、もちろん役者としてお役を勉強するという場所ではあるのですが、人としての訓練の場所だなという気はしましたね」

-大変な時期を乗り越えて続けてこられて、今はチケットを取るのが大変という感じですが-

「いえいえ。そんなことはありません。まだまだです。そういう場所を自分が主演で与えていただけるようになったということはありますけど、僕自身がもっともっとお客様に見に行きたいと思っていただけるような役者にならなくてはいけない。それはまたひとつ大きな課題だなと思っています」

次世代の歌舞伎界を担う覚悟と強い決意を感じさせる。次回後編では念願だったディズニーアニメーションの声優、大好きなスイーツ、主演ドラマの撮影裏話も紹介。(津島令子)

(C)野中英次/講談社 (C)「課長バカ一代」製作委員会

※ドラマ『課長バカ一代』
主演:尾上松也 出演:木村了 板橋駿谷 永尾まりや 若槻千夏 武野功雄 坂東彦三郎 市川左團次
老舗家電メーカーに勤務する八神和彦(尾上松也)は上司に呼ばれて昇進することに。だが、任命された肩書は「課長補佐代理心得」という微妙なものだった…。
2020年1月12日(日)19時よりBS12トゥエルビにて放送開始。
1月4日(土)より、ひかりTV、dTVチャンネルにて順次配信開始。

※「新春浅草歌舞伎」浅草公会堂
1月2日(木)~26日(日)
第1部 午前11時~  第2部 午後3時~

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